退役軍人の義父から聞いた話

(終戦の日を迎える8月。戦争に関する文章をシリーズで掲載しています。)

 かつての敵国、アメリカに暮らして23年。アメリカ人の妻の家族や親戚、友人、隣人、音楽仲間やクライアント、ファンの皆さんなどの中には、大東亜戦争で日本と戦った軍人の家族、退役軍人、在日米軍に従軍していた軍人とその家族なども少なからずおりますが、彼らとの間で75年前に終わった戦争のことがしこりとなって現在の信頼関係が悪影響を受けるという経験をしたことはありません。むしろ、カリフォルニアで出会うアメリカ人のほとんどは、日本文化と日本人に対する尊敬や好印象をもってくれているようです。

 昭和46年生まれの世代は、いわゆる自虐史観を教育されていて、周囲の大人たちやメディアからもそれを強化する方向での影響を受けて育ちましたから、アメリカに移住した初期には外人コンプレックスを持っていて、アメリカで日本人が頑張ると嫌がられるか、たとえ評価されても「日本人のくせに、なかなかやるじゃないか」と言われるものだと思っていました。しかし実際には、様々な人種の中でも日本人は勤勉で特に能力が高いと思われているようで、2007年にオーケストラのオーディションに合格した時には、ハープを独学で習得したという経歴を知っていたオーケストラの人事担当者から、「さすが日本人だなあ」と言われ、驚いたと同時に嬉しく思ったのを覚えています。

 演奏の仕事先で出会った元アメリカ海軍兵の老人から、日本の帝国海軍と戦った経験と、その時に感じた日本軍の規律と勇敢さについて聞かされた時には、子供の頃叩き込まれた「旧日本軍は無能で野蛮だった」というイメージとかけ離れていたので、非常に驚きました。実際に戦場で戦った退役軍人の皆さんは、戦友に対してだけでなく、同じ立場で同じ場所に同じ状況で居合わせた敵兵に対しても、尊敬と親近感を感じるものなのかもしれません。まさに、” the brave respects the brave.”  厳しい経験を生き抜いた兵士同士、たとえ敵であっても、同じ苦しみを経験した仲間として暗黙の了解のもとにお互いを尊重する。そんな無言の友情のようです。

 義父は、ベトナム戦争時に大学在学中であったにもかかわらず、政府の手続き上のミスで徴兵を受け、それを拒否すると手続きの修正が行われている数ヶ月間は兵役拒否者として刑務所に収監されるという無茶苦茶な選択を強いられて、やむなく学業を中断して入隊しました。子供の頃から飛行機を操縦していたという経験を生かし、当時最新兵器だったヘリコプターのパイロットとして陸軍航空隊で訓練を受け、ベトナムに送られました。従軍中は、現在も伝説として語り継がれている精鋭攻撃ヘリコプター部隊に所属し、特殊な任務や実験的なミッションに関わり、何度もヘリを撃墜されながらも生き延びました。ベトナムから帰還後もしばらくはアメリカ国内で軍のパイロットとして努め、退役後はトンネルを掘る大型重機の会社の技術者として、ドーバー海峡トンネルの工事をはじめ、ヨーロッパ各国、旧ソビエト、日本など、世界の様々な現場で仕事をしてきました。

 数年前に、オハイオに義父を訪ねた時、朝から夜までビール、スコッチ、ブランデーなどを飲みながら語り合う状況になりました。その時は、実の娘である妻ですら全く聞いたことのないベトナム従軍時代の話、トンネルの技術者として訪れたいろんな国々の話などをたくさん聞かされたましたが、冷静時代のソビエトでトンネル工事を請け負ったときのストーリーは、特に印象に残っています。

 義父は、当時技術系の責任者としてモスクワの高級なホテルに宿泊していましたが、自由勝手に出歩くことは禁じられていて、KGBの見張りいつもそばに張り付いていました。詳細はよく覚えていませんが、現場の重機に何か不具合が生じて、代わりのパーツが届いて無事に修理が完了するまで、責任者として人質にされて軟禁状態にあったというような事情だったようです。

 そんな中、ちょっとした隙にKGBの監視の目を逃れ、ホテルの中を散策していたところ、軍服を着た退役軍人らしき集団が皆で大酒をかっくらって盛り上がっているところに出くわしました。

 義父は、世界各国の土木現場のあらくれ連中との酒の飲み比べでは、一度も負けたことはないと豪語するほどの酒豪ですから、なに食わぬ顔をしてパーティーに紛れ込んでタダ酒を飲んでいたそうです。もともとロシア系〜ポーランド系の移民の血筋で、見た目もレーニンによく似ていますから、ロシアで人混みに紛れてしまうと、いかなKGBといえどもなかなか彼を見つけられることができなかったようです。しばらくそうやってパーティーに溶け込んで静かに飲んでいるうちに、酔っ払った退役軍人から、「おー、お前レーニンにそっくりじゃないか!一緒に記念写真を撮ろう!」などと言われて調子に乗って写真などを撮って盛り上がっているうちに、「ところで、お前誰?」ということになったそうです。

 この状況には、神経の図太い義父もさすがに「やばいかな」と思ったそうですが、袋叩きされることを覚悟で、正直に「俺は仕事でモスクワに来てこのホテルに泊まっているアメリカ人だ。」と答えたところ、やはり一瞬でその場の空気が固ったそうです。でも、すぐに誰かから「お前も退役軍人か。」と尋ねられ、「そうだ。ベトナムに従軍していた。」と答えたところ、「なんだ、じゃあ仲間じゃないか。一緒に飲もう!」ということになって、そのまま肩を組んでロシアの軍歌などを一緒に歌いながら、仲良く飲んでいるうちにKGBに発見されて、部屋に連れ戻されたそうです。KGBも、まさかソビエトの退役軍人のパーティーに、アメリカの退役軍人が紛れ込んでいるとは思いもよらなかったでしょう。

 義父と退役ロシア兵のように、命がけでギリギリのところで生き延びた人間同士には、憎しみや恨みを超越して与えられたお互いの運命を認め合って共感しあう人類愛のようなものをが芽生えるのかもしれません。このような感情を、戦争経験者にしか理解できない特別な感情とは考えたくありません。本来は、戦場などという死地を経験しなくとも、普通の日常生活の中でこのような人類愛に目覚ることができると信じたい。そうしないと、周期的に戦争と平和を繰り返すという、これまで人類が繰り返してきたパターンを打ち破ることはできません。日米関係のように、一度殺し合いをした上で友情を築くというような遠回りをすることなく、世界の様々な人々との間に、義父と退役ソビエト軍人の間に通い合ったような立場を超えた友情が築かれることを祈念しています。

 

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