アメリカの銃事情から…

アメリカの銃事情から

危機対処への自己責任と自由についての一考

 

 自由の国、アメリカ。銃の国、アメリカ。アメリカに暮らして20年になりますが、「銃」と「自由」は、表裏一体なものなのかもしれないと感じています。面白いことに、ひらがなで書くと「自由」も「銃」もどちらも「じゆう」になります。はたまた、これは偶然の一致なのか?

 

 アメリカでは、犯罪のバックグランド・チェックをクリアーすれば、スポーツ用品店でも数万円で銃が買えます。釣り具コーナーの横に銃のコーナーがあって、カウンター行くと、店員のお兄さん、お姉さんがにこやかに銃を見せてくれる、というほどの手軽さです。農村部では、害獣撃退や狩猟、家畜の屠殺などのための生活必需品のような感覚で銃を常備している家庭が多く、近所から射撃練習の銃声がパンパン聞こえてくることも日常茶飯事です。現在同居している妻の86歳の祖父にとっては、人里離れた山で銃なしで生活するなどということは「ありえない」ことです。

 

 実際、田舎のファームでは、日常的に銃を使う状況が起きてきます。猛獣の撃退、肉用の家畜の屠殺や怪我や病気で苦しむ動物への安楽死などの他にも、例えば、近所の猛犬がファームの敷地内に侵入して家畜に危害を加えそうになった場合には、その犬を射殺する目的で発砲することは認められています。ちなみに、殺傷力のない空気銃などを撃って追っ払った場合には、犬の飼い主からペット虐待で治療費や慰謝料を請求されかねないという、ヘンテコリンなことになっています。殺すのはOKだけど追っ払うのはダメ、というのはおかしな話ですが...。

 

 このように、アメリカでは銃を持つ自由がありますから、善良な市民が自衛手段や生活の道具として銃を持てると同時に、悪党も簡単に銃を手に入れることができるわけです。そのため、銃による殺傷事件も多く発生しています。

 

 人口の密集している都市部では、「みんなが安心して暮らせるように銃を全面禁止すべきだ」という意見が正論に聞こえます。確かに、数キロ以内に派出所や警察署があり、ガードマンの見回りや防犯ベルなどの備えのある建物もたくさんあり、治安のための組織立った仕組みが運営されている都市環境では、市民を守る側に立っている警察のみが銃を持っていることで、効果的な治安維持が保証されます。

 

 しかし、農村部や山間部では事情が全く異なります。例えば、古佐小宅に銃を持った凶悪な犯罪者が逃げ込んで来たら、外部の連絡をできる暇もなくそのまま撃たれて死に、家族は乱暴をされ、その挙げ句に犯人はゆうゆうと逃げるおおせることができるかもしれません。 もし警報装置などによって運良く外部に連絡できたとしても、警察がここに到着するにはかなりの時間がかかりますから、犯人に殺意があれば結局自分も家族も警察が来るまでに殺されてしまうことでしょう。田舎では、銃声が決して異常な物音でもありませんから、たとえ日中に銃殺されたとしても、発見されるまでに相当な時間が経過してしまう可能性もあります。人口の密集していない地域ではこのようなシナリオが考えられるために、「自衛のためには銃を持つ自由が保障されるべきだ」という考え方も、十分に説得力のある正論になります。実際、自宅周辺でも、都市部から逃げて来た犯罪者が森に逃げ込み、警察のヘリやパトカー、場合によっては騎馬警官が山狩りのような捜査をすることもありましたし、ここからほど近いノース・サン・ホワンという地域は、カリフォルニアでもマリファナや覚せい剤の密造をやっている連中が多くて有名な場所ですから、やけくそになった逃亡者や麻薬でおかしくなった連中が銃を持って敷地内に飛び込んでくることも、決してあり得ないとは言い切れません。

 

 そのようなことが起こり得るシナリオとして想定される地域に住んでいる場合、銃を持つ自由という権利を行使して武装することは、決して過度に暴力的でも非人道的な選択でもありません。ただし、銃を常備することで、銃による生死に関わる事故や他者の命を奪うことでしか収束できない争いに巻き込まれる危険性を受け入れる選択を迫られます。

 

 このような、銃器の自衛手段としての意義やファームでの銃の有用性を考慮した上で、古佐小家としては、武器を持っていることで武器による脅威を呼び込んでしまう危険性の方が銃の有用性による利益よりも大きいと判断し、銃は常備していません。その代償として、最悪のシナリオが起きた場合には、なす術もなく家族ともども死ぬことになるかもしれないという結末を受け入れる覚悟もしています。ただし、実際に銃を常備していなくても、その事を知らない他者は、当然「この家には銃があるかもしれない」と考えます。つまり、誰でも自由に銃を持てる制度があるお陰で、暗黙の抑止力も働いています。

 

 合衆国憲法の2nd Amendment として知られる「市民の銃砲所持・携帯の権利」は、独立前の宗主国であったイギリスが独立戦争勃発時にアメリカ入植民の武器を没収しようとしたことへの反感が繁栄しており、この権利は、アメリカ国民が既存の政府が人権を侵害しようとした時には、それに対抗できることを保証するという意味合いも含まれています。つまりアメリカには、野生動物や犯罪者による脅威だけでなく、本来国民の幸福と自由を守るべき国家権力が脅威となった場合には、それからも身を守るという自己責任を引き受けることで、自由を実践できるという考え方が根付いているのです。

 

 近年は、学校での無差別発砲などの凄惨な事件もあり、銃の携帯の権利に関しては禁止を支持する声も多くなっているように思います。対テロの目的で警察の重武装化、テロに対しての官憲による捜査権の拡大に関しても賛否両論、活発に議論されています。また、刑務所の民営化に伴い刑務所の稼働率を上げるために、軽犯罪やこれまでは取り締まられなかったような理由での逮捕なども行われているという記事も、しばしばネットで見かけるようになりました。

 

 アメリカのこのような現状についていろいろと考えているうちに、自己の安全保障への責任と自由は、表裏一体の関係ではないかと考えるようになりました。つまり、自己の安全保障への「責任」を引き受けることで、自由という「権利」が保証され、逆に、自己の安全保障への責任を他者に委託する割合が大きくなるに従い、権利である自由はそれに比例して制限されてゆくという関係にある、という仮説を立ててみました。

 

 自由を行使するためには、自由な言動に伴うリスクを自己責任としてマネージメントする覚悟と能力が要求されます。リスク・マネージメントを権力に委託するということは、権力による規制に従う義務が生じ、生存に関しては権力への依存度が増し、その結果個人の自由は制限され、さらには社会全体への安全保障という大義名分のもとに権力による個人の自由への侵害の危険性にも曝されることを意味しています。

 

 個々人が自由奔放に好き勝手なことをできるという極端に野方図な状態も、権力によってすべての安全と安心が保証されているという極端に権力に依存した状態も、人間の幸福な生存状態であるとは思えません。「危機対処への自己責任と自由の行使」とその対極にある「安全保障の権力への依存と義務の行使」がバランス良く調和されることで、国民が幸福な生活を実現されます。危機対処への自己責任を放棄してを国家権力や政治家に丸投げすることは、権力による大衆のコントロールが強化される傾向を招き、権力への依存は従属・隷属へと進み、それにともない個人の自由は縮小をしてゆくことでしょう。

 

 幸いなことに、日本もアメリカも国民主権の民主主義が実践されている国家ですから、主権者である国民一人一人が真剣に考え、信念に基づいて言動することで、国家を少しずつ理想的な状態に近けることのできる人物を選び、かれらに権力を委託できる仕組みになっています。その一方で、政治や統治の専門家でない国民が、社会のあり方に関しての判断を誤り、不適切な選択をしてしまうリスクもあります。そのようなリスクを防ぐために、各個人が情報を集め思索をする努力を十分に行い、もし誤った判断をした場合には、その損失を一人一人が自己責任として受け入れるという厳しい覚悟があってこそ、国民の思想・信条の自由の認められた民主主義が成り立つのではないでしょうか。

 

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