生きる覚悟とは?

 新型コロナウイルスの流行によって、少なくとも一時的には世界恐慌の可能性が濃厚となり、音楽家としての活動のあり方も、根本的に見直す必要に迫られています。戦争や災害で全てを一瞬で失うことを想像すれば、今経験している変化は緩やかなものですから、これまで本当に命がけで日々生きてきたのであれば、屁でもひるように楽々と対応できてしかるべきものです。しかし、この程度の変化を迫られただけでも、焦ってオロオロと取り乱し、ともすると落ち込んでしまう自分を見ると、つくづく命がけの覚悟を持って生きていなかったことを思い知らされます。

 2005年のハリケーン・カトリーナ、2011年の東日本大震災、2016年の熊本大地震、2018年に故郷愛媛を襲った大豪雨災害など、身近に感じていたつもりだたのですが、やはり対岸の火事としてしか見えていなかったのかもしれません。

 ここ北カリフォルニアの内陸山間部も、災害の多い地域です。1997年にこちらに移住して以来、この近所でも、大小合わせると3年に一度くらいの頻度で火事が起きていて、1998年と2018年の山火事では、道路封鎖で立ち入り禁止の措置が取られ、3日間ほどこの地域が孤立しました。特に1998年の火事の被害は甚大で、妻は前の結婚相手が出張中に家財を全て焼かれ、赤ちゃん二人を抱えて身一つで避難したそうです。2017年の豪雨によるオロビル・ダムの決壊の危機に際しては、ここは高地のため避難をせずに済みましたが、下流住民18万人に強制避難命令が出る非常事態でした。大雪、嵐の脅威なども、ここで暮らすものの覚悟としてすでに織り込み済みで、1週間以上電気が止まったり、雪に閉じ込められて孤立しても、その間生きていけるだけの準備はしています。

 このような天災によってもたらされる苦難だけでも精一杯なのに、テロや戦争、競争相手を破綻させて自殺や失望に追い込む資本主義的サバイバルゲームなど、罪に問われない人災はもっと大きな規模で繰り広げられていて、いつその脅威に巻き込まれるか分かりません。それらに加え、遺伝子組み換えや農薬、化学肥料による食品の安全性の問題、現代的なライフスタイルによる生活習慣病、医療の進化に伴い耐性を増し進化するウイルスやバクテリア、環境破壊による環境毒性の上昇、気候変動など、個人の生命と社会の存続を危ぶませかねない要因はたくさんあります。

 このような状況では、現在当たり前に皆が依存している社会システムが機能麻痺となるシナリオは無数にあるため、どれだけ対応を準備をしても、完璧を期することは不可能です。たとえ社会全体が問題なく機能し続けていても、個人の身に降りかかる災厄というのもあります。たとえば、何かの事故で手の機能を失う、指を欠損するなどの事態が起こると、命を失うことはないとしても、ハープ演奏家としての生命はほぼ断たれてしまいます。病気、不慮の事故など、気をつけていてもそれらが起こる可能性を0にすることは不可能です。

 それらに対して完全に準備ができないとしたら、そのリスクの中で生きていく覚悟を決めるしかありません。自分としては、音楽家として生きてゆくことができなくなる状況になった場合に、一人の人間としても生きる望みを放棄してしまわないように、人生の目的や価値をハープ演奏家としての活動の周辺に集約させないように心がけています。

 自給自足ファームでいろんな分野のことを満遍なくやるライフスタイルを選択している一つの理由は、自分のアイデンティティーを特定の肩書き「ハーピスト」に集約させないためです。そうすることで、音楽に関わる枝葉末節の技能だけでなく、様々な活動の大元にある内的な能力、つまり感情の感受性、知性の考える力、肉体の適応力と強度、そしてそれらを統合する意思や意識、良心などの霊的な機能という、脳が破壊されない限り外的要因によっては奪われないもの、つまり、より本質的な人間としての資質の開発という目的を軸に、どのような状況にあっても生きる意義を見出すことができます。

 自分の意思ではどうすることもできない災害などの外的な要因によって失われてしまうものは、結局のところ、本当の意味では自分の所有しているものではない。そう考えれば、何かを失うことへの恐怖は随分と小さくなります。最後まで残るものは、自分自身の心のあり方。生きる覚悟とは、死ぬことを覚悟するのではなく、最後まで自分自身のあり方を護り抜く覚悟なのかなと思っています。

 

 

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