健康は人本来の状態ではないのか?

 「どれだけ健康に気をつけているつもりでも、病気になることはある。」
 「生まれながらに障害を持つ者もある。」
 「誰もがいずれは健康を失い、死ぬ運命にある。」

 こう考えると、健康であるか否かは自分でコントロールできない事象であり、元気に生きられるかどうかは運を天にまかすのみ、という気持ちになってしまいます。実際、生活習慣にどれだけ気を付けて節制していても病気になる時はあるし、無頓着な生活をしていてもピンピンしている奴らもいる。どちらにしても病気が避けられないなら、コツコツと節制するよりも、太く短く野放図に人生楽しんだ方がいいんじゃないかと開き直りたくもなります。今や医学も進歩して、大概の病気は治るみたいだし、病気になってから治せばそれでいいじゃん。

 太く短く。それはそれで良いのかな。でも太く長く生きられる選択肢が選べるのであれば、その方が良いに決まっています。もし、健康という状態が、実は人が本来あるべき状態であるとしたら?あるいは、それが強運者にのみ与えられる特権ではなく、人本来の生き方をしていれば当然の権利として万人に与えられている自然な状態であるとしたら、人本来の生き方を見出すことができれば、太く長く生きる道もあるのかもしれません。

 このような希望を胸に、この論説ではあえて「健康は人本来の状態である」と主張してみたいと思います。

 まず、現代社会では、健康とはどのように判定されているのか?健康診断の結果で見られるように、「標準値」という健康体と想定される人体のデータと比べて、皆さんのデータがそれに近ければ健康、それから外れていくに従って健康が害された状態、つまり病気と判断されています。

 一方で、心身の所有者である本人にとっての健康とは、何なのでしょう? 健康診断の結果が良いからという理由で、健康感が湧き上がってくるわけではありません。なんとなく気分が良い、体が軽い、気力があるなど、主観的、感覚的に認知される心身の統合的な状態が肯定的であれば「おー、今日も元気だ!」と感じることになります。

 このように健康には、外側から計測されて数値化されるデータによって定義される側面と、当事者が主観的に認識する側面の両方があります。ところがこの両者は完全に一致することはなく、データ上は異常がないのに健康でないと感じている方もいれば、データはヤバヤバなのに、当人は案外と元気だと感じている場合もあります。

 計測データによる健康の判定と、主観による健康の判定。どちらがより本質的な健康の判定なのか?言い換えるならば、最新の医療器具や科学的検査のテクニックを用いて数値化される心身のデータが医者によって解釈された結果と、当事者の体の隅々まで張り巡らされた神経系や循環器系によって集められる情報を脳が処理することで生じる主観的感覚による判断を比べた場合、どちらがより正確に心身の健康状態を把握をすることができるでしょう?

 これについて少し考察してみましょう。
 
 現代の常識では、人間は自らの健康状態を自己モニターし、自動的に生活習慣や行動を最適化することができないとみなされています。その証拠に、健康であるためには定期的に健康診断や人間ドックを受け、第三者である医者によって健康状態を判断してもらうことが必要とされています。実際、少しばかりの不調で「たぶん、大したことのないだろう」と感じていても、自分の感覚を信用することは危険だと考え「念のためにお医者様に診てもらったほうが…」と病院に向かうことになります。

 とすると、やはり病院で計測、認定される健康こそがより本質的な「健康」の判断ということになるのでしょう。しかし、ここで素朴な疑問が湧いてきます。この地球の自然環境の中で、他の生物と同じく環境に適応して生存を続けてきた人類が、近代科学と医学の専門家の助けがなくては自らの健康を認知することができない、などということが果たしてあり得るのか?人本来のあり方としては、他の野生動物と同様に、自己の健康モニターリングと生存の確率をより高める行動を最適化する本能を備えていると考えるのが自然ではないのか?

 「でも、現実には自分の体のことなんてわからないことが多いし、気づいた時には病が進行して手遅れということもしょっちゅうあるじゃないか。」確かに、これが現代人の姿です。でも、そもそも現代人は、人本来の機能を十分に発揮して生きているのでしょうか?ほとんどの人類がすでに数世代にわたって自然から切り離された都市環境で生活している現在、平均的な現代人が地球の自然環境に適応するための人本来の機能をフルに発現していると考えることには無理があります。本能的に備わっている自己モニターリング機構と自動最適化機構は、不自然な人工的な環境での生活により、ほぼ機能停止していても不思議ではありません。つまり、食べ物、飲み物、呼吸する空気、音などへの知覚、身体内部の感覚などが全て鈍化していて、身心のモニターリングが十分にできないために、異常を感じた時にそれを是正するために必要な反応、例えば自然な欲求によって適度な休息/運動をする、生活習慣のメニューを体調に応じて取捨選択する、ある種の食品への食欲が亢進することで体に必要な食物を摂取するなどの最適化の機能も退化しているかもしれないのです。乱暴な言い方をすれば、現代社会の病んだ環境に数世代にわたって曝されている身体は、生命維持の機能に慢性的な障害を起こしている可能性があるということです。

 このことを特に強く感じた最近の経験をお話しいたします。

 古佐小ファームでは自然の方に限りなく近い形で肉、卵、ミルク、野菜を自給し、毎日屋外での肉体労働にも従事していますから、かなり健康的な生活を送っている自負はあったのですが、さらなる健康を目指し、11月に妻と一緒に食事制限を3週間の食事制限の実験をしてみました。全ての合成調味料(醤油やソース、ケチャップ、マヨネーズなど)、精製糖や甘味料、アルコール類、乳製品、穀物、豆類、糖分が濃縮された蜂蜜や乾燥果物を抜き、週に2回は動物の骨と野菜を材料にした出汁だけのミニ断食をするという食事法です。

 これだけの食材を避けながら美味しいメニューを作るのは大変でしたが、かえってクリエイティビティーが開花し、料理の腕前がさらにアップしました。写真はその一例です。料理人としてのレベルアップだけでも大きな成果と言えますが、それに加えていくつか特筆すべき成果がありました。


 まず、空腹という感覚が、必ずしも実際に体が食物を必要としていることのサインではないことがわかりました。実験以前の空腹感は、舌からくる空腹感、この実験で経験するようになったのは、お腹の底からくる本当の空腹感です。子供の頃を思い起こすと、腹の底から感じる空腹感が当たり前でしたが、大人になると、そういう気持ちの良い空腹感を経験することが少なくなっていました。腹の底からくる空腹感は、つまり、消化器系が「いつでも食べ物来いや!」な状態でスタンバってる感じが強いのですが、必要量を食べると「もういいよ」と満腹感が出てきて、食べ過ぎにならないのが特徴です。ちょうど腹8分目くらいで自然に止まる感じです。しかも、食欲の対象になる食品を体が欲しているものと一致している感覚を伴っているため、食べた時に一層美味しく感じられるのです。一方で、舌からくる空腹感の場合は、なんとなく「口寂しい」という感覚を伴い、実際には体が必要としていないときに必要のないものを摂取することを促す可能性が高く、そのため食べ過ぎにも繋がりやすくなります。

 また今回の実験では、すぐにエネルギーになる糖質を抜いてますから、血糖値が食後すぐに上がらないため、眠くなることはなくなりました。味の濃い調味料も使わないので、自然と食材への味をよりじっくり味わうようになり、味覚が向上しました。3週間の実験期間が明けて、再びいろんな調味料や飲み物、チースなどの加工食品を試してみたんですが、以前ほど美味しく感じることはなくて、実験期間が終わった後も、以前と同じ食事には戻ることはありませんでした。

 ミニ断食明けの日は、体が食べ物に対して特に繊細に反応する状態になっているため、特に意識しなくても自然と体の反応をモニターしながら注意深く食べるペース、食べるもの、食べる量などを調整するようになるのにも驚きました。体が敏感だと、よく噛んでゆっくり味わいながら食べようとする本能も働くんですね。

 具体的な体の変化としては、自分はそもそも肥満ではありませんでしたが、それでも腹筋の割れ目が見えるくらいまでにタイトになり、妻はお腹周りが10センチ痩せたと喜んでました。体調は、全般的に疲れにくくなり、便通もよく、体を軽く感じるようになりました。

 このプログラムが誰にとっても良いとは思いませんし、ずっと続けるようなものでもありませんが、この種の実験の最も重要なポイントは、これまでの習慣化された食パターンから一時的に離れることによって、日々の食との関係が見直され、リセットされた感覚に導かれてより調和の取れた方向に変化する点だと思います。具体的には、新しい食パターンにより、眠っていた食に関するモニターリングと本能的な食欲を伴う摂食調整機構が呼び起こされる感じがしました。それにより、食物が、実際に自分自身の一部になるということがリアルな感覚を持って経験され、体に取り入れるものに無頓着であることがもたらす健康被害の可能性の大きさを改めて実感することができました。

 ついでに、もう一つ別の体験談を。

 ハープ奏者としてかなり高度な身体操作をマスターした演奏家であることに加え、武道の鍛錬や日々の様々なDIYにより、これまでも身体操作に関してはかなり研究と実践を積んでいるという自負を持っていました。しかし、昨年から始めたアーチェリーを通じて、自分の体へのモニタリングと操作がどれほど不完全なものであるかを痛感しています。アーチェリーというこれまでに馴染みのない動作パターンに関しては、いまだに幼稚園児同然に不器用なのです。生まれて数ヶ月の子猫が、上手に木に上り、しなやかにジャンプし、驚くべき俊敏さと正確さを持って動き回れるのと比べて、人間の50歳のおっさんはなんとも情けない状態にあることか…。楽器演奏という運動を職業にしているプロの運動家もこの有様ですから、おそらく多くの皆さんも、慣れ親しんだ動作の範囲内でどうにかこうにか自己モニタリングと身体操作を実行できているレベルだと思います。

 マッサージセラピストの妻によると、ほとんどのクライアントは、特定の体の部位の力を抜くように指示をしても、自由に力を抜くことができないと言います。その部位を刺激し、ここの力を抜いてください、ゆっくり呼吸を吐きながら力を抜いてくださいなど、いくつか指示を出すことで、ようやく力が抜けるようになるそうです。つまり、経験したことのない動作に限らず、馴染みのある日常の動作に関しても、自己モニタリングと調整の機能が著しく鈍化していて、運動の最適化は行えていないということになります。

 健康に関しては、とかく医療行為やサプリなどの外からの働きかける手法ばかりが脚光を浴びるのですが、本当は、その前にまず眠った状態にある自己モニターリングと自己最適化の機能が本来の力を発揮できるようすることが大切だと思います。そうすれば、身体は自ずと本来あるべき健康を実現するためにふさわしい生活習慣へと導かれてゆくのではないでしょうか。

 

 

 

 

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