人生の勝ち組って?

 現代社会での「勝ち組」あるいは成功者と呼ばれる方は、ほぼ例外なくお金をたくさん持っています。

 でも、お金そのものは何らの価値も持っていません。実際にはお金を通じて交換される物品やサービス、経験にこそ価値があります。そのため、お金を介した豊かさというのは、お金が通用する社会で物品とサービスが行き届いた状態においてのみ実現が可能です。

 この条件の揃った社会では、お金があると、様々なサービスや物品を自ら産出しなくても良い状態になりますから、いわゆる「やりたいこと」にエネルギーと時間を集中することができます。そのため、皆が「やりたいこと」を職業として選択し、そこでの働きに応じてお金を得て、自分では生み出せない物品やサービスを買うという生活様式が成立します。つまり、個々が得意とする専門的な仕事を分業し、お金を介してお互いのサービスを交換し合うというシステムが構築され、社会全体としての効率性と安定性が確保されます。

 しかし、個のレベルでは、お金儲けに失敗するとすべてに不足するような貧しい生活に陥る危険性とも隣り合わせになります。一方でお金儲けに大成功すると、召使を雇って、家庭内の日常業務すらも他者に任せてしまうことができ、やりたいことと趣味以外には文字通り何もしなくても快適に生きることができます。つまり、お金という媒体を使って、完全に他者に依存して生きるという特権を得られるわけです。ただし、そのお金が通用するシステムの内部においてのみ有効な特権ですが…。

 このようなシステムで生きていると、「豊かな人生を送りたい」と言う願いは、ほぼ自動的に「お金をもっと稼ぎたい」という願望に置き換えられてしまい、現在お金を生んでいる職能にさらに時間とエネルギーを投資して、何とか収入を増やそうとします。そうすると、ますます「自分のにできること」は現在持っている職能の周辺に限られ、生活に必要な物品やサービスの他者への依存は深まり、豊かさを得るための切り札はお金しかなくなってしまいます。そうなると、何がなんでもお金を増やすことでしか豊かさを得る手段は無くなってしまいます。

 長年音楽家として生きるなかで、現代の社会システムで貧困であることの辛さは骨身に染みて味わってきました。自己探究の末に見つけた「やりたいこと」がすでに雇用先が多数存在している仕事ではなく、独自の音楽制作と演奏という特殊な仕事であったため、お金を稼ぐ道筋も独自に開拓しなくてはならず、そのために音楽以外のビジネス的な側面にも多大なエネルギーを吸い取られ、思ったほど音楽に集中できない状況にも陥りました。しかも、どれだけ頑張っても、生活に必要なものを手に入れられるに十分な収入に達することすら難しい。健康増進のために使える時間もなければ、家族に健康的な食品を供給したくても、高価なオーガニック食品には手が出ないから、どうしてもジャンクな食事が増えて体調も悪くなる。頻繁に故障する古い中古車の修理のたびに銀行口座に微々たる貯蓄も一瞬でスッカラカンに。リーマンショックの後は、クレジットカードも全て差し止められて借金もできない。そんな中、コンサートツアーを開始するための資金が不足し、子供の貯金をかき集めて航空券を買うこともしばしば。ツアー先から最初の仕送りをするまでは、家族はギリギリの生活をして耐えている。高額な民間健康保険には入れないから、病気になってもじっと自宅で療養するしかない…などなど。正直、死んだほうが楽だと思ったことが何度もありました。

 おそらく、社会保障制度が充実している日本では、これほどの貧困を経験することはあまりないと思いますが、これほどのどん底を経験すると、お金以外の方法で物質的豊かさを得る手段を考えるしかありませんでした。

 収入が限られているなら、無駄な支出を抑えるしかありません。しかしこれには限界があります。これ以上節約できないところまで切り詰めると、そこから先はサービスを自ら提供するしかありません。つまり、自給自足、 DIYをベースにした生活への移行です。料理、食品加工、自動車修理、土木建築作業、農作業、家周りや道具類のメンテナンス、ウェブサイト管理、レコーディング作業、ビデオ編集、写真加工などなど、なんでもやりました。こうなると、好きも嫌いもありません。やりたいこと、やりたくないことなどと贅沢も言ってられません。やらないと生きていけないからです。

 お金の量が幸せの量と比例するという常識からすると、このような生活を強いられている音楽家は、この上なく悲惨であると映るでしょう。しかし、他者への依存、すなわちお金による問題解決という手段から離れる努力をすることで、多種多様な技能が訓練され、期せずして音楽だけに従事していたら決して使わない能力を開拓する機会に恵まれました。その結果、自己開発の面で大いなる成果を得たと同時に、多岐にわたる様々な経験という、お金では手に入らないものを得ることもできました。

例えば…
●他者への依存が減ったことによって生存への自信と確信が増し、恐怖や不安が少なくなった
●様々な職能に触れることで、あらゆる職業への心からの尊敬を感じられるようになった
●全人間的な能力開発を強いられたおかげで、音楽の技能が向上した
●日常生活の中で心身の能力をバランスよく用いる習慣ができたおかげで、健康が増進した
●自然の厳しさと恩恵に触れる機会が増えた
●人間が生きるということの全貌への理解が深まった
●いろんなことをやればやるほど、新しいことの習得能力は加速度的に向上し、「一芸は諸芸に通づる」ということを実感しながら学びを楽しめるようになった
●様々な分野に触れることで、いろんなものへの目利きが効くようになった
●お金を介さない人間関係で仲間と助け合える喜びに恵まれた

 結論を言えば、自ら様々なことをやれる能力が向上したことで、期せずして音楽家としての能力も向上し、生きる幸せも見出すことができたのです。

 人は本来、社会的生物である以前に、自己完結的な生物でもあります。つまり、生活に必要なものは自ら調達できる基礎的能力を一通り備えて生まれています。そのため、物品やサービスの供給などの生存上の問題解決に際しては、本来「自らで解決する」か「専門家を雇って解決する」という2択から自由に選択できるようになっています。往年の名作テレビシリーズ「大草原の小さな家」のお父さん、チャールズのような立場をイメージしていただけるとわかりやすいかと思います。

 とは言いながらも、何事においても得手、不得手というのはありますから、社会分業という形態の中でそれぞれが得意なことに集中することで、種全体としては生存の効率を上げることが可能となります。しかし、社会分業が行き過ぎると、個の本来持ち合わせている全般的な生存能力の開発は犠牲になります。そうなると、問題解決に際しての選択肢から「自らで解決する」という可能性はほぼ消滅し、「専門家を雇って解決する」という選択肢のみになります。その結果、豊かさを求めるためには、お金が絶対不可欠となり、ますます広範な人本来の能力開発の機会は少なくなってしまいます。その上、職業に貴賎をつけて収入やステイタスによるピラミッド階層が作られ、皆が上を目指して競争し、勝ち組、負け組が別れる仕組みになっていますから、一度貧乏に身を落とすと、豊かさを手に入れることも、そこから抜け出すことは大変難しくなってしまいます。そのため、常に不安と恐怖を抱きながら一度手にした収入源を手放したくない一心で、やりたくない仕事、良心に反する仕事であっても続けざるを得ないという心理状態に追い込まれてゆきます。つまり、ある程度安定した収入を得ていても、幸せとは程遠い状態に置かれる可能性が高いのです。

 子供の頃から、いわゆる「成功した」大人たちから、「世の中甘くない。負けた奴らは努力が足りないからだ。努力して勝ったものがいい思いをできるのは当然のことだ。そういう厳しい競争の中からこそ人類の進歩もあるんだぞ。」と聞かされてきました。なるほど。では、そうおっしゃるあなたは、安い賃金で働いている「負け組」が生み出してくれるサービスや物品がなくても生きていけるのですか?もちろん、生きていけませんよね。何しろ、お金という媒体を使って、完全に他者に依存して生きるという特権を体現しているおかげで、人本来の生存能力はまだ赤子同然に未発達でしょうから。お金という紙切れの魔法が解けたら、ただの裸の王様かもしれませんよ。人類の進歩?社会の半数以上が幸せを感じられない状況が、人類の進歩の結果ですか?

 こんなことを言うと、負け組貧乏人の負け惜しみ、あるいは個人主義の偏屈オヤジの戯言と思われるかもしれません。しかし実際には、東京大学を卒業し勝ち組として生きられる可能性の高いコースにあったにも関わらず、貧乏と添い遂げるような人生を選択したことで人本来の幸せの可能性を見出してたことは事実ですし、自給自足の苦労を経験することで、むしろ社会分業のありがたさを身にしみて理解していますから、負け惜しみでも個人主義者でもありません。人間は社会の中でしか生きられないことを痛切に感じているからこそ、職業に貴賎をつけて貧富を巡って勝ち負けの競争するように仕組まれている社会が、いかに人本来のあり方から解離しているかも痛感するのです。

 もし今の社会のあり方に疑問を感じているのであれば、自分なりにより良い社会のあり方を真剣に模索し、そのような社会の一員であればどのように行動するかを考え、個としてそれを実践することでしか、社会の変化を期待することはできないと思います。もし、一生懸命に誠実に生きているにも関わらず貧乏に喘いでいるなら、それは人本来の生存能力を鍛えるチャンスかもしれません。生存のために必要な能力は全て神によって与えられていることを信じ、生活の中で自らの手で行えることのレパートリーを徐々に広げて、人本来の生存に近づく努力をしてみてはいかがでしょうか。

 心身に深く根差した経験は、生きている間には本当の喜びと幸せをもたらし、肉体の死後も自己の一部として残る可能性がある。そのかけがえのないものをお金のために犠牲にするのは、あまりにも割に合わない取引である。

 これが真理であるかどうかは証明できません。ただ、音楽という形のないものの神秘に人生を捧げるものとして、そう信じています。

 

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