健康とは?主観的で非科学的な健康論:音楽家の視点からの提言

 

 国家から保健師/看護師の免許をいただいている身としては、「客観的」で「科学的」な健康論を語るべき立場にあるのですが、今日はあえて音楽家の立場から「主観的」で「非科学的」な健康論を述べてみたいと思います。

 

 近代以降、音楽理論なるものが確立され、音楽が学問としても扱われるようになりました。大学で音楽を専攻し、学位を取得することも可能な時代となり、楽器の演奏に加え、読譜法、音楽理論、オーケストレーションなどを体系的に習得することが、もっとも正当でアカデミックな音楽との関わりとされています。しかし、アカデミックな理論に照らし合わせて「正しい」と定義される音楽であっても、それが必ずしも「良い音楽」とはなりません。音楽を聴いて「いいなあ〜!」と感じられるためには、それを生み出している聴き手に「感動」という主観的な現象が起きていなければなりません。作り手の立場においては、音楽を単なる音の組み合わせを超えて芸術へと昇華させるためには、自分の内的な世界と音楽として表出された音の世界を統合的に意識し、主観的な「感動」という「感じ」を経験しながら音楽を生み出していることが必要になります。

 

 長年音楽と関わるうちに、音楽が芸術に昇華するプロセスと、人体が健康体に昇華するプロセスには共通点があると感じるようになりました。音楽や人体自体は、科学的な立場から、物理/化学現象として客観的に把握することができますが、それだけでは把握できない「何か」が加わって、芸術や健康体への昇華が起こっていると思えるのです。そもそも、芸術性や健康というものは、自然界全体にとってさほどの意義はなく、人間にとってのみ意義のある特性です。とすると、科学で把握されない「何か」とは、人間自身の主観的な意志と意識ではないのか?そんな思いつきから、一つ文章を編んでみます。

 

 本来、健康とは、検査データや第三者であるドクターの所見で「客観的」に健康と判断されることにより定義されるようなものではなく、当の本人が、体内感覚、自己意識を通じて自らの感情機能、生命維持機能、思考機能、動作機能の全てが自分の意志と連動して十全に働いていることを自覚し、「あ〜、今日も元気だ!」という「主観的な感じ」により捉えられる心身全体の総合的な状態だと思えるのです。つまり、健康の本筋は、第三者によって科学的な手段を用いて客観的に描写される部分的な心身の状態に関するデータではなく、自己意識や体内感覚などのモニタリング機能により全体像として把握された複合的で主観的な「感じ」にあると考えています。

 

 自己の状態をモニタリングする機能は、身体中に張り巡らされた神経系と血管系によってネットワークされ、脳という中枢により統合され、それは、いかなる検査機器よりも高い精度で、自分のこころ、からだの状態を身体感覚や感情を通じてリアルタイムで自己(脳、意識の統合機能)にフィードバックしてくれています。これほどの精度で自分のこころ、からだを常時モニターリングできる機能が備わっているということは、不調や異常を察知した時には、それを改善するためになすべきことを本能的に判断できる能力、すなわちある種の自己調整/治癒機能も備わっていると考えるのが自然ではないでしょうか。そして、そのモニターリング機能と自己調整/治癒機能の精度が、肉体の老化とともに減退し、ある時点で生命維持ができなくなり死を迎える…。

 

 もしこの仮説が正しいとすると、ほとんどの病は、生活に大きな影響を及ぼし始める前に自己調整機能によって自然治癒できてしまうことになりますが、実際には、これだけ科学が発展して生活が豊かで便利になったにも関わらず、医療費で国庫が破綻寸前の状態になるほど病が蔓延しているわけですから、この仮説は誤りであるという論理も成り立ちます。しかし、もしこの仮説が正しいという前提から考察を出発すると、現代人の生存のあり方自体が人類としての自然な生存のあり方から逸脱しているために、モニターリング機能と自己調整/治癒機能が機能不全に陥り、そのために病が蔓延しているという論理も成り立ちます。

 

 ここでは後者の論理に立ち、考察してみたいと思います。

 

 個人的かつ主観的な経験として、意図的に自己意識を高めようとする内的努力をしながら、できるだけ自然に近い生活環境に身を置くことで、自己モニター能力が向上し、心身の異常のサインを早期に捕捉し、的確な予防と治癒のための行動を選択できる能力が高まるという実感を持っています。例えば、体が欲している食品への食欲を感じる、心身の状態に応じて姿勢の調整、体遣いの調整、呼吸の調整などが的確に選択できる能力が高まる、など…。おそらく、ヨガや気功などを実践している方は、これに似たような自己検証をお持ちでないかと思います。

 

 ほとんどの現代人が人生のほとんどの時間を過ごしている都市環境では、外からの刺激への反応と外向きの活動に注意力が向けられる状況が多く、自己の心身をじっくりと感じる時間が著しく少なくなる傾向にあると感じています。このような自然から乖離し、自己と向き合う時間の少ない環境では、自己モニタリング能力と自己調整/治癒能力は、本来あるべきレベルよりもかなり低いレベルで機能していると考えています。

 

 また、現代生活では、様々な科学的な検査、診断、治療など、第三者である医療者による客観的知見と介入が、健康的な生活を保障する上で「不可欠な要素」とされていて、社会全体での健康を考える場合には、真っ先に医療の発展と医療サービスの充実が議論されます。しかし、健康を維持するために第三者による介入が不可欠であるというような状態が、果たして人類のあるべき姿なのでしょうか?

 

 生命体として、自己の健康管理に第三者の介入を必要とする度合いが高くなれば、それだけ独立した個体としての生存力は低くなるわけですから、高度な医療にこれほどまでに依存している現代人の人体が、これまで生命体として地球環境で生き抜き、ここまでの発展を遂げた人類の本来あるべき機能を十分に発揮している状態にあるとは、とても考えられません。

 

 作曲や即興演奏の創造的力の源泉は、音楽家が抱く主観的な「感じ」そのもので、理論や知識はそれを形にする上での便利な道具にすぎません。ある仕事のために特別に誂えた便利な道具がなくても、その代用になる何かを使ってそのことをやるのが可能であるように、楽譜が読めなくても、音楽理論を知らなくても、それらの技術は単なる道具であるがゆえに、良い音楽を作る上で致命的な欠陥になることはなく、的確に働く音楽的な感覚とそれと連動する運動機能と、それをサポートする自分なりの方法論さえあれば、良い音楽を作ることは可能なのです。もちろん、そこに読譜能力や音楽理論などの一般化された「より客観的な知識」が加われば、「鬼に金棒」となるわけです。

 

 健康という状態に到達しようとする動機の源泉も、やはり自分自信をモニターすることで得ている「感じ」にあるのではないでしょうか。その健康な「感じ」から逸脱しないように、食習慣、行動習慣、精神活動のあり方、感情生活のあり方などを、自分なりの方法で本能的に的確に選択しているからこそ、健康な状態で生存できると思えるのです。そこに、第三者による客観的な所見や治療が「金棒」として加わることで、自己治癒力の範疇を超えた重篤な病、外傷、有害物質への被曝、伝染病など、健康を害する様々な外的要因にも対応できるようになり、より完全な健康を維持できる可能性が高まります。ここでは、あくまでも自己自身の「感じ」が健康生活のための主役、つまり「鬼」となり、第三者の客観的知見や介入は脇役、つまり「金棒」にすぎません。

 

 しかしながら、平均的な現代人の健康との位置関係は、この主客が入れ替わっています。つまり、金棒が鬼よりも重要視されているために、「自分では自分の健康状態を知ることはできない」「病になってしまったら、自分では治すことはできない」という前提で自分の健康と関わっているために、自己の感覚を導き手として自発的に生活習慣の改善や予防、早期対応に取り組むことないまま、生活に支障をきたすまで疾患を悪化させてしまい、そこからの治療は第三者任せ、つまり「先生にすべてお任せします」「とにかく治してください」という受け身の態度で医療機関にかかってしまいます。

 

 農家では、果樹に病気が出た場合などに、アドバイザーに相談することがあります。アドバイザーは農場に常駐しているわけではありませんから、自分が関わるワンポイントの短期間でその問題を解決できる方法を選択します。その場合、例えば、罹患した木をすべて伐採してそれ以上の拡散を防ぐ、化学薬品を散布するなど、短期間で根治的に問題を取り除く方法を提案せざるを得ません。この場合、農場主はせっかく育てた木を根こそぎ失うリスク、化学薬品による土壌の汚染などの副作用も覚悟しなくてはなりません。しかし、そこに長期間関わることにできないアドバイザーとしては、自分が責任を持てる範囲で問題を解決するための最善の選択をしたことになります。

 

 一方で、農場主自身がじっくりと腰を据えてある程度の長期的ビジョンで問題を解決しようとする場合には、自己責任で試行錯誤を覚悟した上で、こまめに罹患した部位を切除する、果樹の抵抗力を高めるために土壌の栄養状態を改善させる、微生物環境を整えるなど、短期で劇的な効果は期待できないけれでも、継続的に続けることで緩やかな改善が期待できる方法を選択することもができます。あるいは、そこにいて毎日しっかり果樹を観察し世話をできる立場であれば、病が病として顕現する前に予防や早期治療の対応が可能となり、そもそも病に至る以前に問題を解消できるかもしれません。

 

 健康との関わりにおいても、自分が「人体」という農場の農場主であるという自覚を持ち、家畜や作物の健康を維持するためには何が必要であるかを日々研究し、長期的なビジョンで家畜や作物が健康で育つ農場を運営したいものです。そして、問題が発生した時には、アドバイザー(医師)は立場上短期的に確実に問題を解決できる方法を提案する立場にあることを認識して、アドバイザーに治療を丸投げすることなく、健康を取り戻すための意思決定と行動に対しては、しっかりと自己責任を持つことが大切ではないでしょうか。 

 

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