音楽家としての成功って何?

 若い頃に抱いていた音楽家としての成功のイメージはこんな感じです。

 「好きな音楽に全身全霊で打ち込み、高い評価と大きな報酬を得て、社会に必要とされているということを感じつつ、快適で便利な生活の中で音楽に専心している自分…(遠い目)。」

 現在は、このような成功を目指しても幸せになれないということをはっきりと自覚しています。

1)まず、音楽に全身全霊に打ち込む、という点がそもそも大間違いでした。

 どれだけすごい音楽であっても、たかが音楽。人生経験のごく小さな一部でしかなく、そこで得られる経験は限定的で、そこで全人間的な能力をバランス良く磨けるわけでもなく、そこで見出せる真理も広大な宇宙の真理の海に浮かぶ小島程度のものでしかありません。つまり音楽には、全身全霊をかけるほどの価値はない。音楽は、人生の主産物ではなく、副産物に過ぎないのです。音楽(おそらく芸術表現全般)は、感情、洞察、感覚、直感、創造への意欲などが調和的に発達した土壌に育つ無数の作物の一つにすぎません。素晴らしい音楽家を目指して努力すること真の価値は、音楽という果実自体ではなく、その根源となる土壌の豊かさを高めることにこそあります。土壌を豊かにするという意識を持つことができれば、人生全体を俯瞰的に眺める視点が強化され、様々な全人間的な成長のための努力をするようになり、その結果、自ずと音楽という果実も充実してきます。

 音楽で行き詰まりを感じた時に、さらに多くのエネルギーと時間を音楽に向かわせるのはナンセンスです。音楽は、全人間的成長段階を示すバロメーターに過ぎません。バロメーターが低い数値しか示さない時に、「メーターにどこかおかしなところがあるんじゃないか」と考えるのは馬鹿げでいます。実際にはバロメーターが計測しているもの、つまり人間的成長に問題があるということです。では、自分をこのような状態にとどめてている要因は一体何なのか?それを注意深く洞察し、要因とおぼしきものを発見したならば、環境や生活習慣、考え方、価値観などを変化させてみます。その結果、日常における充足感、健康感などが向上したら、土壌改善に成功しているサインです。その影響が果実(音楽)に現れてくるまでには、少し時間がかかりますから、その間は少しばかりの忍耐が必要です。ここで焦って以前のように猛練習や音楽への没頭によって成果を得ようとすると、せっかく変革した習慣や価値観が元に戻ってしまい、結局同じ苦しみの連環の中で苦しみ続けることになります。

 これは、若いころに1週間に70時間以上の猛練習をして自己満足に浸っていた「大馬鹿者」からのアドバイスです。「過去にそれだけの努力をしたからこそ、今の古佐小さんがあるんですよ」と言ってくれる方もいらっしゃるのですが、実際には、愚直な根性論に呪縛された間違った努力以外の何物でもありませんでした。実際に、そのような努力にしがみついていた時代は、精神と体を病んでいましたから…。


2)他者からの高い評価。これも、音楽において道を誤る主要因です。

 音楽家として幸せを感じるのはどんな時ですか? この問いへの回答としては、幸せの要因として、聴衆の反応に比重を置くパターンと、演奏家として主観的に経験している内的状態に比重が置くパターンに分けられると思います。その両極の回答を一般化してみると、以下のようになります。

●聴衆の反応に比重を置くパターン:「何を演奏するか、ということにはあまりこだわりはありません。自分の演奏を聴いてくださる方が喜んでくれることが、何よりの幸せです。」
●演奏家として経験する内的状態に比重を置くパターン:「自分の納得した音楽を納得したクオリティーで演奏すること、また、それができる自分自身の存在に満足感を感じます。もちろん、その喜びを共有できる聴き手がいるに越したことはないですが、聴き手の有無は、満足感や演奏への意欲には直接影響を与えません。」

 古佐小は、ハープ奏者としてのキャリアの初期にクラシックを演奏していた頃は、前者に近いパターンでしたが、その後即興演奏や作曲に活動の中心を移すに従い、後者のパターンに変化していきました。

 できるだけ早くプロとして収入につながる仕事を得るためには、社会で需要のある分野での演奏活動をしなくてはなりません。そこで演奏する内容は、オーケストラなら、オーケストラのために書かれたハープのパート、結婚式ならブライダル音楽、ホテルラウンジならライトクラシックやポップス、ジャズクラブならジャズ、クラシック系の室内楽なら定番の室内楽レパートリーなどなど、マーケットに合わせて自動的に決まってきます。

 「別に何の問題もないじゃない?」はい。以前はそう思っておりました。

 音楽家としての幸福の要因を聴衆の反応に求める方にとっては、確かに何の問題もありません。しかし、マーケットでの需要に従ってほとんどの意思決定をすると、演奏家として、純粋に自らの感性と意欲に従って演奏内容を決定することはできませんから、演奏時の内的状態に比重を置く音楽家は、この方向では遅かれ早かれ行き詰まってしまいます。

 「そんなことない。自分は長年室内楽をやっているけど、いつも自分で納得できるプログラムを組んで満足感を感じて演奏しているよ。」はい。自分も以前はそう感じておりました。なぜなら、歴史的に認められている音楽、大勢のお客に受け入れられる音楽には、絶対的な価値があるという前提を盲目的に信じていたので、それに違和感を覚えるのは「自分の感性が未熟であるからに違いない。もっと勉強をしなくては!」と自分に言い聞かせ、感覚的に違和感のある楽曲もそれなりに<納得して>演奏していたからです。

 でも、50歳も過ぎたおっさんになり、過去の偉大な作曲家と大差のない年数の音楽経験と人生経験を積むと、この世には、万人にとって普遍的な価値を持つ客観芸術と呼ぶにふさわしい作品は、ほとんど存在しないことに気づきます。結局のところ過去の偉大な芸術家も、自らの主観的な感覚に従い、最も客観的と思われる美を追求したにすぎず、その意味では素晴らしい道案内人ではあるけれども、最終解答を示しているわけではないのです。美の追求においては、過去の偉人の足跡を参考にしながら、自らの足で歩き回り、汗をかきつつ自らの感性にとって最も普遍的で客観的と感じられる美を見出すしかない。皮肉なことに、正しい努力をすればするほど人間的な成長が加速化するので、昨日意味のあったものが明日には無意味なものになっているという目まぐるしい変化が起こります。掴んだと思ったものが、しばらくすると消えてしまう…。あたかも砂漠で蜃気楼を追いかけているかのような虚しさの連続が、美の追求、あるいは真理の追求という道にはついてまわります。その苦しさから逃れんがために、今手にしている芸術で妥協する、つまり、そこで成長をやめてしまいたいという誘惑にも駆られます。しかしながら、芸術家の喜びは、この誘惑との厳しい戦いの中でしか姿を見せてくれない美と真理に触れる瞬間にあります。

3)大きな収入。これも幸せのために絶対必要な条件ではありません。

 他者からの評価、他者から支払われる報酬は、音楽演奏の動機にいとも簡単に忍び込んでしまいます。「でもそれがないと、音楽家として食っていけないだろ?」はい。その通りではありますが、評価や報酬は副産物であり、主産物ではありません。他者からの評価や報酬に目がくらむと、芸術家にとっての生命線である「自由」を切り売りすることになります。しかし、そうしないとプロの音楽家として生計を立てることは難しいのも事実です。自由の体現者として社会に希望を与えるべき立場にある芸術家が、自由を切り売りしないと食っていけない社会…。健全な社会とは言い難いですが、社会のあり方に不平不満を言う前に、芸術家自身の妥協がそのような社会的傾向を助長している可能性も謙虚に受け止める必要があります。

 音楽家の「大きな収入」というと、マイケル・ジャクソンのような億万長者をイメージするかもしれませんが、実際には、自由を優先させて音楽活動をするプロにとっての「大きな収入」は、サラリーマンの平均収入を下回る程度が上限だと感じます。自分の場合はもっと酷くて、時間的自由を確保するために特定の生徒に定期的に教えるということはしていませんし、オーケストラなどの組織に属して演奏するという活動も避けていますから、安定した収入すら確保するのは難しく、2ヶ月後の家計すら計算できないという状況が10年以上も続いています。でも、毎日自由に音楽の探究、美と真理の探究に時間とエネルギーを好きなように使えるという報酬を得て、家族との関係も良好で、幸せに暮らしています。

 「食うためには仕方ない。」現代社会でよく使われる自己正当化のセリフです。属している企業や組織から要求される仕事が自らの良心に背くものであっても、「これが仕事ですから、家族を養うためには仕方ありません。みんなそうやって自分の意見を飲み込んで、社会の一員として我慢して生きているんですよ。」芸術家が、自らの心に背いて何かをやる場合にも、やっぱり「なんだかんだ言っても、結局は食って行かなきゃいけないからね。」と正当化します。

 カトリック系の学校の倫理の授業で、神父さんから「良心の声を無視しているうちに、だんだんと良心の声が聞こえなくなる」と教わったことを思い出します。「食うためには仕方ない」というセリフが免罪符となる社会では、良心の声に上手に耳を塞ぐことができるようになることが、大人になることを意味するのでしょうか。

 「食うために、〜する。」冷静にこの言葉を眺めてみると、実はゾッとするほど動物的で本能的ではありませんか。食うことが目的で、やってることはその手段に過ぎない。「〜するために、食う。」この方がよっぽど人間的です。「食う」ということが、文字通りに「健康体を維持するために必要なものを手に入れる」ということであれば、食っていくために必要なものは、実際にはさほど多くないはずです。

 「食うこと」の奴隷にならないためには、自分にとって「食う」ということが本当には何を意味しているかを再評価する必要があります。
●本質的に不必要なもののために多くのお金と時間を使っていないか?
●やりたくもないことに従事することを「食うため」と正当化し、心と体にどれだけのストレスをかけ、そのために健康を害し、その治療や予防のためにさらにお金を稼がなくてはならない状況に自らを追い込んでいないか?
●どこからともなく湧いてくる恐怖心を和らげるために、過剰な物質的充足に走っていないか?その恐怖は、リアルなものなのか?幻想ではないのか?

4)音楽への専心は、不必要。

 日常すべての行動が、音楽活動の時と同じだけの注意力と意識を伴って行われるならば、生活全体が音楽となり、音楽での修練が生活全体の質の向上につながります。日常と音楽は、排他的関係にあるのではなく、むしろお互いを高め合う関係にあるべきです。平凡な日常生活も、ハープ演奏時と同等の意識と注意力を持って受け止められたなら、どれほど素晴らしい瞬間の連続になるでしょう。食事を意識的に楽しんでいる瞬間には、音という波動は発せられないかもしれませんが、喜びや幸せ、感謝というような心の波動を発することで、音楽よりももっと価値のある響きを奏でていることになるのです。

 


 

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