戦争回避のためにやれることはあるのか?(前半)

戦争回避のためにやれることはあるのか?(前半)

(終戦の日を迎える8月。戦争に関する文章をシリーズで掲載しています。)

 

 北朝鮮情勢、米中対立、中国の国境で起こる領有権をめぐる問題など、世界各地で戦争に繋がってもおかしくない緊張が続いています。

 

 それにしても、戦争とは一体なんなのでしょう?

 

 ほとんどの人類が戦争を望んでいないにも関わらず、有史以来、人類はこれまで戦争を続けてきました。そして、文明が進歩(?)するに従い、武器の威力は強化され、戦争の規模は拡大し、ついには人類を含む地上の生命体の多くを絶滅させてしまうほどの大量の武器を抱え込み、引き金に指をかけて睨み合っているという状態になってしまいました。

 

 戦争は、殺戮、暴力、資源の膨大な浪費、文化の破壊など、非人道的で野蛮な行為であるために、議論の余地もなく「戦争はダメだ!どんな理由でも戦争は絶対にいけない!」のひとことで片付けられてしまいます。そのため、戦争が起こるプロセスや根っこの原因について冷静に考える機会は、案外と少ないと感じます。

 

 敗戦後の日本では特に、戦争のことを冷静に話すことは難しかったと思います。自分が生まれ育った昭和40年代以降においても、日本が当事者として戦争に巻き込まれる可能性を想定した具体的な国防の議論をすると、右翼と言われかねない空気がありました。

 

 しかし、実際に国際情勢が切迫している今、戦争を感情論で拒絶し、頭から布団をかぶって見て見ぬ振りをできる状況ではなくなっています。一人一人が主権者として国家のあり方に責任を負っている民主主義においては、現在の世界情勢の中で当事者として戦争に巻き込まれる可能性を認識し、それを避ける手段、巻き込まれた時にどのように対処するかなどを、冷静に考えてみることも大切だと思います。

 

 とは言いながらも、戦争に関しては全くの未経験者で、これまでに体系的に研究をしたこともありませんので、ここでは特殊な専門知識や理論からではなく、ファームでの日常の生活の中で経験された気づきをもとに、戦争への考察を始めたいと思います。

 

 ファームを始めて以来、野生動物から家畜を守るため、彼らとのせめぎ合いは続いています。まずは柵を作り、「そこからこちら側には入って欲しくない」というこちらの意志を明確にした上で、柵を越えるのを決定的ためらわせることを期待して電気柵のラインを敷設します。これだけの備えをしても、野生動物たちは生存のために必死で食べ物を狙ってやって来ますから、最初の1年半のあいだにヤギを1頭、ニワトリを5−6羽失いました。この経験から、「柵のこちら側には入ってくれるな」というこちらの切なる願いは、野生動物には聞き入れてもらえないことを理解しましたから、こちらでも積極的な攻撃力を持つ番犬を飼い、彼らが柵に近づくことすらも抑止することにしました。こうなると、場合によってはこちらの犬が野生動物に危害を加えるような状況になることもやむなし、という覚悟が必要です。

 

 法的には、敷地内で家畜や作物を荒らす野生動物は、銃で撃って殺しても良いことになっていますが、さすがにそんなことはしたくないので、番犬を飼って抑止力とするわけです。もし、こちらの番犬が怪我をしたり、殺されたりするという状況になれば、さらに攻撃力の大きな番犬、堅固な柵の設置という具合に、家畜を守るための備えはどんどんと強力なものになっていきます。もし、群れで家畜を襲うコヨーテ、1頭での甚大な被害となり得るピューマやクマなどの動物の数が増え、どうやってもこちらの守りを破って襲ってくるということになれば、こちらから銃を用いて積極的に相手を狩りたてるということになり、命の失われる戦いへとエスカレートする可能性は大きくなります。

 

 これは、古佐小ファームと野生動物の間のせめぎ合いのストーリーですが、国家間のせめぎ合いでも、これと同じような構図があることに気づきます。

 

 公の見解として国境という柵を設置し、お互いが「こちらの領域に勝手に入って、ものを持っていったり使ったりしないで来れ」というメッセージを確認します。それでも、相手がそれを破って入ってくるかもしれないという不信感はなくならないので、許可なく入って来た相手を撃退出来る防衛力を備えます。もし相手の攻撃力が自分の防衛力を上回ると判断される場合には、さらに防衛力を強化することになります。しかし、こちらでは防衛力のつもりでも、相手からすると攻撃力と見なされるので、こちらが軍事力を強化すれば、相手も強化するということで、果てしな異軍拡競争の悪循環へと陥り、やがて膨らみすぎた軍事力は、それが守るべき国家や国民の生活と財政をも圧迫し始めます。

 

 そうなると、お互いにこのような軍拡競争が続けることは不毛であることが認識され、交渉を通じてフェアな軍縮を目指す努力が始められるのですが、「もし条約によって同じ程度に軍縮をすることになったとしても、本当に相手はそれを守って軍縮するだろうか?」「もしかして、こちらが正直に軍縮している一方で、しっかりと軍備を保持し、時期をみはからって、こちらの領土を奪いにやってくるのではないだろうか?」というような不信感はなくならず、結局のところ軍拡競争は止りません。たいていの場合は、不幸にも戦争となり、その多大な犠牲と虚しさを経験することで、戦後しばらくは、軍事力を背景にした国家間のせめぎ合いから遠ざかろうという方向性が維持されますが、世代が変わると、また元の木阿弥。時代とともに武器の破壊力はさらに強力になり、国家が養うべき国民の数と必要とする物資の量も桁違いに大きくなり、国家間の利害がぶつかる要因も増加し、そうやって、戦争の脅威は亡くなるどころか、ますます増大してゆきます。

 

 ファームでの野生動物相手のせめぎ合いでは、相手の攻撃力がある一定レベルを上回ることはありませんので、ある時点で攻守のバランスに達し、お互いに争うこともなく平穏な状況に至るのですが、人間同士の場合、野生動物の殺傷力のレベルからすると天文学的に桁の違う殺傷力を持つ強力な武器を持ち、それをさらに進化させ続けることができるために、軍拡によるせめぎ合いは、果てしなく続けられてしまいます。そして、仮にどちらかの国家が理性的に振舞っていたとしても、他方の国家が侵略を始めたら、自衛のために武力衝突ということになり、お互いに「国家を発展させる」「国家を守る」という正義を掲げて殺し合いをすることになります。

 

 このように考察してみると、不信感を抱いたまま、軍拡競争を続けながらお互いに銃口を向け合って戦いを抑止するという、現代的な平和維持のあり方は、壊滅的な戦争へと発展する可能性と常に紙一重の状態であると思われます。これが、現時点で人類が採りうる最良の戦争回避の方法だとしたら、残念です。社会動物としての人類は、まだまだ進化の発展途上ということなのかもしれません。

 

 (後半につづく…)

 

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