戦線の兵士の想い

 

 8月15日は、終戦の日であるとともに、ベトナム戦争の退役軍人である義父の誕生日でもあります。義父のことを思いつつ、終戦に想いを馳せながら、昨年、義父を訪ねてフロリダに旅行をした時に聞いた体験談を紹介いたします。

 

 義父は、仕事の引退を機にオハイオの自宅を処分し、環境の良い故郷のフロリダで引退生活を送ることとなり、この数ヶ月前に引っ越しをしたばかりでしたので、戸棚の設置やちょっとした水道工事などを手伝いながら、昼間から夜まで酒飲みの義父に付き合ってビール(以前はウイスキーだったのですが…)を飲みながら過ごしました。妻にとっても、お父さんと長い時間を一緒に過ごす機会は貴重で、久しぶりの親子水入らずの時間を楽しむことが出来たようです。

 

 義父は、ベトナム戦争の退役軍人で、アメリカ陸軍の強襲ヘリコプター部隊のパイロットでした。近年、ベトナム戦争の機密作戦に関しての情報も開示され、当時の状況を伝える様々な書籍も出版されていますが、義父も、当時は政府すらその存在を否認していた機密作戦、『ブラック・オペレーション』を遂行するSOGという特殊部隊に所属していて、「アメリカ軍は展開していないと」当時のアメリカ政府が国際社会に向かって断言していた地域での作戦にも参加していたそうです。SOGは、グリーン・ベレーなどを含む先鋭を集めた部隊と伝えられていますから、義父も、ヘリコプターパイロットとしては一流だったということになります。

 

 フロリダの新しい住居は、アメリカ海軍の所有地内にあり、周辺には軍の施設も多く、地域全体が基地の町といった雰囲気があるところです。そういう雰囲気が好きでここを選んだのかなと思ったら、陸軍の航空部隊に所属していた義父は、「海軍には逮捕されたことがあるので、あいつらは好きじゃない。ただ、いい条件だったのでここを選んだだけだ。」と義父。え? 海軍に逮捕されたって、いったい何があったの?

 

 当時、陸上では連日激しい戦闘が続いていて、その日も1週間ほどの激しい戦闘の後、疲労困憊した状態で、補給物資を海軍の艦船から輸送する任務のためにヘリコプターを操縦していました。ようやく着艦という段階になって、艦から無線で着陸地点の指示が出されましたが、海軍の専門用語だらけで、どこに降りたらよいのかさっぱりわからない。指示を言い直すように何度頼んでも、堅物の士官は同じことを繰り返すばかり。必死で戦っている陸軍の兵士からしてみると、安全な海上で後方支援をしている海軍にはただでさえムカついていたので、ヘリを艦橋の窓のすぐ前まで接近させて、その士官の顔を見ながら「何を言っているか分からないから場所を指差せ!」と伝えて、ようやく着陸地点が確認できたそうです。しかし、この態度に海軍士官は激怒。その士官は義父よりも階級が上であったため、携帯している銃が規定違反だとかなんとか、いろんな難癖をつけられ、他の乗組員が船内でのんびりとくつろいでいる間も、MPに逮捕拘束された状態で、灼熱の甲板で待機させられることになりました。敵との戦闘でクタクタの上に、友軍からもこの仕打ち。どうにも腹の虫が収まらなかった義父は、離陸すると、その船にヘリから催涙ガスをおみまいして飛び去ったそうです、もちろん、これはすぐに海軍の上層部に報告され、陸軍の司令官に抗議の連絡が入り、基地に戻るとすぐに司令官から呼び出されました。「何があったんだ?」と問われて、あったことを正直に伝えたところ、司令官は椅子から転げ落ちんばかりに大笑いして「グッド・ジョブ!」と喜んだそうです。

 

 補給物資の輸送に関しては、もう一つ面白い話を聞かせてくれました。

 

 暑いベトナムの戦場では、冷たいビールを飲みたくても十分な冷蔵庫もありません。そこで、補給品にビールがある時には、わざと遠回りをしてヘリのドアを開けたまま山岳地帯を飛んでビールを冷やしてから基地に戻ることもあったそうです。また、基地にあるビールを冷やす時には、「訓練」と称し、新米パイロットにビールを積んだヘリをドアを開けたまま高高度で1時間ほど飛んでこさせてたそうです。高高度で吹きっさらしで1時間も飛ぶのはかなり辛いのですが、上空に行けば長距離電話でアメリカの家族とも連絡が取れるということもあり、皆が交代でこの厳しい「訓練」にあたったそうです。

 

 当時のヘリコプターには、コンピュータによる自動制御のシステムもなかったので、「今の連中に比べたら、訓練も随分大変だった」そうです。「今も軍のヘリコプターの教官をしている友人によると、今のヘリコプター乗りは、自分専用のヘリをずっと使い続けるらしいが、俺には無理だ。同じヘリにばかり乗ってたら、退屈で死んじまうよ。そもそも、戦地ではいつも同じ型のヘリに乗れるとは限らないから、どんなヘリでも操縦できるようになっていないと、いざの時に役に立たんだろうに…。」

 

 「戦術や兵器も、ペンタゴンが思いついたものをすぐに実戦でやれと言われるからな。」例えば、ヘリコプターが編隊飛行する場合に、羽根が重なるくらいにお互いに接近して飛行すると、レーダーでは何機のヘリが飛行しているのか判断できなくなるそうで、「ドイツかどこかの戦術家が思いついたらしい」このアイデアを立証するために、夜間にエンジンのタービンからからわずかに漏れる炎の光を頼りに、この種の編隊飛行をやらされることになりました。夜間飛行では遠近感と平衡感覚が信頼できない状態となるため、計器を頼りに操縦する必要があり、単独飛行でも非常に危険だそうですが、7〜8機の編隊での超過密な飛行となると、どこかで接触が起きたら皆が巻き込まれて全滅ということもあり得るために、しばらくやってみたものの、このミッションは中止にしたそうです。

 

 当時の最新鋭兵器の無線操縦のミサイルも、開発されてすぐにヘリに実戦配備され、ただでさえ難しいヘリの操縦をしながら、高速のミサイルを右手でジョイ・スティックのようなものを使って目視で標的に当てるという至難の技を要求されたそうです。「最初は結構失敗したよ。でも1発50万ドルのミサイルを何発も無駄にするわけにもいかないからな…。今のミサイルは標的に向かって自動的に飛んで行くし、武器担当の搭乗員が一緒に飛んでくれるんだから、昔に比べたら楽だよな。」

 

 義父の所属していた第57強襲ヘリコプター部隊は、不可能なミッションを幾つもこなし、陸軍でも最も熟練したヘリコプター部隊として知られていたそうで、隊のモットーが “Try us” 「やれるもんなら、やってみろ」あるいは「俺たちを試してみろ」。こういう部隊だったから、無茶なミッションをあてがわれたのだと思いますが、隊員たちも、そういうチャレンジに」死地での生きがいを見出していたようです。もちろん、多くの搭乗員がミッションで命を落としたことはいうまでもありませんが…。

 

 ヘリコプターの椅子は、パイロットの命を守るために、下からの銃弾を通さない分厚い作りになっていたのですが、着弾によって命は落とすことはなくとも、椅子に当たった弾丸や椅子の破片が飛び散ってふくらはぎに刺さるそうです。戦闘中は夢中で気づかないそうですが、基地に戻ってみると足が血まみれということもあり、その場合には麻酔なしで磁石のような医療器具を直接傷にグリグリ押し当てて金属片を取り除く治療を受けることになります。

「麻酔なしで、大丈夫なんですか?」

「まあ、それまでにかなりビールも飲んでるからな。それでも、あれは痛かった。被弾することよりも、治療の方が辛かったな。」

 

 一緒に海軍の特殊部隊のテレビドラマを見ていた時には、CIAがアメリカ国内で部隊に指示を出しているシーンで、「CIAは国内でのオペレーションしかやらないことになっているから、出発前に国内で部隊に接触して指示を出すことは実際にはありえないよ。」とダメ出しもありました。CIA絡みのヤバいミッションをやってきたんだろうな…。そういえば、数年前に一緒に「ボーン・アイデンティティー」(マット・デモンが洗脳された兵士の役で出演している映画)を見たときも、「こういうことは、アメリカ政府は実際にやっているよ。政府がその気になれば、国民の知らないところで何でもできるからな。」と不気味なことも言っていました。

 

 このように、色々と軍隊での話をしてくれた義父ですが、凄惨な戦闘の話、敵を殺すことに関しての話は一切ありませんでした。義父にとって、ベトナムでの軍人としての経験が掛け替えのない人生の一部であり、そのことに誇りを持っていることは感じられましたが、それは、仲間と一緒に過酷なミッションをこなし、不可能を可能にして生き延びたことへの誇りと自信であり、敵を打ちのめしたり殺したりした強さを自慢するような奢りでは全くありませんでした。

 

 義父が、一人の戦友から当時の部隊の仲間宛に送られてきたクリスマスのメッセージを見せてくれましたが、そこにも同じような思いが汲み取れました。ミッションに向かって、生死をかけて仲間と一緒に不可能に挑戦した日々、そこで発揮された極限の能力、達成感、仲間との絆を懐かしむ内容でした。このミッションが、戦争という破壊的なものであったことは残念ですが、それは、その当時の社会情勢の結果であり、兵士たちには責任はありません。社会の期待に一生懸命答えようとするのは、健全な若者のあり方です。義父達も、徴兵によって社会から与えられた兵士という役割の中で、自分自身にチャレンジをしたにすぎないと思えるのです。

 

 戦場で生き延びた義父のような退役軍人が、その経験に誇りを抱くことを肯定すると、「戦争を賛美するのか!」と非難される方もいらっしゃると思いますが、それは的外れの非難です。若者が、社会から託されたミッション、たとえそれが戦争という最善とは言い難いミッションであったとしても、それを愚直に、真摯に全うしようとするのは健全なことであるし、それを通じて自分の極限に挑戦し、それを行ったことに社会の一員として誇りを感じることも自然です。彼らが罪悪感を抱く必要はありません。また、社会として、彼らに罪悪感を抱かせるようなプレッシャーを与えることは、あってはならないと思います。

 

 実際に、ベトナムから戻った軍人の多くが、社会から拒絶的な扱いを受け、心の傷を負ったまま、社会に適合できずに不遇な人生を送ったそうです。映画「ランボー」の一作目も、そういう時代背景が描かれています。義父も、今でも戦地の悪夢に悩まされていて、物音に対して過敏に反応してしまうこともあるのです。おそらく多くの退役軍人が、そのことに関して語ることはないとしても、それぞれに人道的な矛盾を抱えて生きているのだと思います。義父と接して、その部分に関しては、部外者は立ち入らないのが礼儀であると強く感じました。

 

 義父は、大学在学中に手違いで徴兵を受けました。すぐに徴兵取り消しを申請したのですが、「修正は可能だが、手続きにかかる数ヶ月間は徴兵拒否と見なされるから、その間は刑務所に収監された状態で待つことになる」と言い渡され、やむなく陸軍に入隊しました。まさに、国家の不当な命令によって戦地に行くことになったのです。そこで、子供の頃から飛行機に乗っていた経験から、ヘリコプターのパイロットを志願し、与えられた仕事であるパイロットとしての自分を磨き続けることの結果として、ブラック・オペレーションに参加する先鋭の軍人となり、その任務でおそらく多くの仲間を失い、また、多くの敵国民を殺傷することになりました。20歳そこそこの若者が、国家や国際社会の大きな流れの中で、義父のような選択することに、一体どのような罪があるというのでしょう。

 

 退役後は、トンネルを掘る会社の技術者として、冷戦時代のソ連や東ヨーロッパなども含む危険な地域にも長期間滞在し、地下数キロの深さでの炭鉱のトンネルやドーバー海峡のトンネル工事など、危険な現場で仕事をしてきました。東側の国では、機械の不具合があった時に、責任者として交換部品が届くまで監禁されたこともあり、シベリアでは、食料が足りなくて数ヶ月もキャベツだけを食べてしのいだこともあったとか…。おそらく、ベトナムで経験した危機に比べれば、屁でもなかったのでしょう。そこでも、仲間とミッションに向かって命がけで働くということに喜びを見出していたようです。

 

 ソ連や東ドイツで、敵国の退役軍人と一緒に仕事をすることもあり、お互いに軍人としての体験を共有していることで、深い友情が築かれたそうです。状況によっては戦線で銃を向けあった相手が、お互いを深く理解し合える一方で、国境越しに文明人として平和的なやりとりをしている連中が、お互いを理解できずに安全な場所から戦争を始めてしまうのは皮肉なものです。義父のような退役軍人が極限の死地で培った人としての経験力は、戦争が産み出した唯一のポジティブな産物なのかもしれません。

 

 日本では、戦争の話を家族から直接聞く機会はほとんどなくなりましたが、このフロリダ訪問では、戦争に関して、また戦線の兵士たちに関して、貴重な生の話を聞くことができ、色々と考えさせられました。戦争は悪い!その通りです。しかしその主張が、義父のような退役軍人の個人としての戦場での経験をも全否定するような形で表現されるのであれば、そこには思いやりと相手の立場への配慮が欠如しています。その配慮を欠いた主張こそが、まさに戦争を引き起こす原因となるエゴイズムの現れに他ならないと思います。

 

 義父は、数々の勲章を受けており、死後はアーリントン墓地への埋葬も認められていて、彼自身もそれを望んでいます。アーリントン墓地は、家族からしてみると、遠くてなかなかお墓参りにも行けない場所ですが、家族とは決して共有できない生死の狭間での経験を共有できる軍人たちが眠る場所で永眠したいという義父の想い…。それは大切にしたいと思っています。

 

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