音楽の探求とそこで出会う奇跡

 科学的探求は、主に外界を感知する機能と思考機能を用い、観察と論理的な思考に基づいて現象を理解しようとする試みです。一方、哲学的・宗教的探求は、主に内面を感知する機能と感情機能を用いて、直感的に現象を理解しようとする試みです。音楽の探求には、この両方のアプローチが必要です。

 

 音楽の探求の対象は、美と感動です。作曲理論の研究やすでに名曲として評価されている作品の分析で、それなりに美しい音楽を作るために必要な知識と技術は手に入ります。しかし、この方法のみでは、「感動」を生む力を手に入れることは出来ません。

 

 ある程度音楽家として研鑽を積み、鑑賞者としても音楽の美と感動を味わい、優れた印象を嗅ぎ分けることができるようになったら、他人がどう思うか、一般的な音楽理論と照らし合わせて自分のやっていることが正しいかどうかなどの外に基準を置いた評価とらわれることなく、自らの直感に従って今の瞬間に出すべき音を見出す努力をすることが大切になります。このような努力の結果、自分自身が感動できるような音楽が自らの内から生み出された瞬間には、喜びと同時に、驚きを覚えます。そこでは、音楽を生み出した源泉は、実は自分自身ではないのではないかという奇妙な感覚を伴っています。むしろ、実際には何も生み出されていなくて、何かの拍子にでそこにすでにあったものにアクセスできたという感覚で、必然に導かれた偶然予想外の出来事に驚いてしまうのです。

 

 まるで、自分自身の意識と意志が、宇宙全体を司る大きな意識と意志(神と呼んでも良いのかもしれませんが..)につながっていて、そこにアクセスすることで自動的に何かが生み出されるかのようです。例えるならば、自分はちっぽけなコンピュータの端末にすぎず、そこからアクセスできる情報の大元は別にあり、方法さえ知っていれば、無限といえるほどの膨大な量の情報に自由にアクセスすることができます。

 

 これは、ナルシスト的に自分の主観的なものの見方に陶酔する、いわゆる「[芸術家肌」のアプローチとは真逆で、思い込みやこだわり、権威や知識から自由になり、できるだけ無垢な内的状態で芸術に向かい合うという努力です。このような努力を続ける結果、まれに、レオナルド・ダ・ビンチの絵画やバッハの音楽で経験されるのと同様な感動を生む表現を見出し、驚きを感じることもありますが、そのような時でも、「どうだ、オレ様はすごいだろう」とエゴを膨らませて傲慢になることもなく、むしろ、客観的な美が顕現するための媒体となれた幸運に感謝する気持ちが湧いてきます。

 

 毎日代わり映えしない、しがないおっさん芸術家の地味な日常です。朝から晩まで働き詰めで、貧乏暇なし。もう50歳になろうかという歳でも、有名でもなく、大きな演奏の機会もほとんどなく、レコードが飛ぶように売れるわけでもない。このまま、芸術家としては地味な人生を送り、最後は人知れずこの世を去ることになるのでしょう。

 

 しかし、このちっぽけな自分が、実は宇宙全体とつながっている小宇宙である。そして、この小宇宙を通じて大宇宙の神秘的な創造のプロセスを経験することができる。このことを思い起こしてみると、こうして普通に存在していること自体が、すでにありえない奇跡だと感じられます。実生活の様々な問題に振り回されて文句や愚痴ばっかり言っている時には、この大切なことを忘れてしまっています。そんなことではいかんと思っても、実生活の荒波の中では、奇跡への感謝と新鮮な驚きを保つことは、本当に難しい…。そんな時に、優れた芸術作品や思想に接すると、人が宇宙と繋がっていることを思い起こさせてもらえます。それゆえに、芸術が、人間生活にとって掛け替えのない存在となっているのだと思います。

 

Leave a comment