時間をお金に換算する愚かさ・子育て

 時給、月給、年収。どれも時間をお金に換算する考え方です。さらにアメリカでは、所有している資産を表現するときに、「〜さんには〜ドルの価値がある」というような言い回しが使われます。つまり、その人物の価値=資産価値でズバリ言い切ってしまう表現が普通に使われています。

 もちろん、少し冷静に考えてみれば、あらゆる無限の可能性を内包している時間を単純にお金に換算することなんてできないことは明らかだし、ましてや、人物の価値をお金で表現するなんて言語道断です。でも実際には、この「言語道断」な価値観が現代社会の根底にあるため、お金を持っているお客さんには平身低頭し、労働の対価も時給、月収、年収で換算されています。

 時間は、人生において自由に使える数少ない資源であります。愛するものと過ごす時間、思索にふける時間、美しい自然に触れる時間、芸術を味合う時間、辛い経験を変容して乗り越えようとしている時間、何かを生み出している時間、何気ない日常の時間などなど…。一生は、このような一瞬一瞬をどのように過ごしたかということの積み重ね以外の何物でもありません。しかも、一体どのくらいの量の時間を与えられているのかは知らされていない、つまり、いつ死ぬか分からない条件の中で生きることを強いられているため、人生における時間の価値を計算することなど到底不可能なのです。このような「時間」という特別なものを、物質の交換手段に過ぎないお金に換算するというのは、本来全く噛み合わない換算をしているのです。

 時間をお金に換算する思考回路が出来上がってしまうと、「生きるためにはある一定額のお金が必要だ。→そのためには一定の時間をお金儲けの目的に使う必要がある。→お金のためには、やりたくないことも我慢してやるのは仕方ない。」という論理になんの不思議も感じなくなります。

 でも実際には、お金のためだけに時間を切り売りするのは、割りに合わない取引です。例えば、音楽的な閃きや、思索の閃きは、ほんの一瞬の出来事がきっかけになります。その一瞬が、一生を左右するほどの影響力をもち、場合によっては他者の人生にも影響を与え、ひいてはそれが仕事となり、収入にもつながる可能性があります。ところが、毎日何時間もやりたくもないことをお金のためにやってるという状態でメンタルエネルギーを浪費していると、残りの自由な時間はそこからの回復、娯楽、休息にあてられ、人生の時間のクオリティーはどんどん低下してしまいます。つまり、安く切り売りした時間の値段に合わせて、人生の時間全体のクオリティーも下がってしまうのです。そして、そんな低いクオリティーの時間からは、創造性に富んだひらめきが生まれるチャンスはますます稀になっていきます。創造性の枯渇した人生…。そんな人生に魅力を感じますか?

 「でも、子供も育てなきゃならないし、嫌でもお金を稼がないとやっていけないじゃないか!お前は好きなことを仕事にしている芸術家だからそんな理想論を言えるんだ。普通に働いているものは、もっと大変なんだ。」

 芸術家の直面している現代社会の現実の厳しさを、ナメたらいけません。音楽家という極貧の職業を維持しながらもなんとか三児を育てた経験から、子育ての大変さは理解しているつもりです。むしろ、定期的に給料をいただける仕事をしている方よりは、はるかに厳しい経済状態で子育てを完遂したと思っています。

 アメリカでは、子供のいる家庭でも共稼ぎの夫婦が多く、生活費の高い都市部では、下手をすると夫婦の稼ぎの半分は託児所や家政婦さん、家事をやらないことで余分にかかる外食やその他の諸経費で消えてしまいます。つまり、お母さん(あるいはお父さん)の稼ぎは、結局他人に子供を育てさせるための費用に全て消えていくことも珍しくはありません。「子供のために自分の人生を犠牲にするなんて時代遅れだ。経済的には意味がなくとも、夫婦ともに生きがいである仕事を続けることには意味がある。」そうかもしれません。しかし、せっかく産んだ子供をわざわざ他人に、しかもランダムに選ばれる他人に育てさせ、電子レンジ食品や出来合いのものを食卓に並べ、家族団欒の時間もあまり作れないという状況の中、子供と配偶者との距離感も大きくなり、いつしか家族が同じ屋根の下で暮らす他人同士になってしまう…。それが家庭を持った時に枝いていた理想の家族像なのでしょうか?

 そうなってしまわないように、妻は母親であることを最優先し、その役割の合間でできるフリーランスの仕事で少しばかり家計を助けつつ、学校でのPTAや理事会役員の仕事を引き受けて子供の養育にできるだけ関わる道を選びました。一方で、稼ぎ頭となった哀れなミュージシャンの夫は、家族に経済苦を強いながらも、その中で暖かく幸せな家庭を模索してきました。幸い、夫婦ともにお金のためにやりたくない仕事に従事するということをしなかったので、それなりに楽しくクリエイティブに子育ての困難を乗り越え、その結果、子供の成長と共に自分たちも成長し、家族としてお互いに特別な絆も築くことができました。大人となって巣立っていった子供たちは、いわゆる勝ち組の成功者となることはないかもしれませんが、自らの判断で自らの幸せを模索する一個の立派な大人として尊重しつつ、これからもずっと付き合っていけると思います。

 振り返ってみると、子育ては確かに大変でした。子育てに正解はありませんから、手探りの試行錯誤で遠回りをしながら、時間とエネルギーをかけなければなりません。良い教育も与えてやりたいし、いろんなものも買ってやりたいし、やりたいこともさせてやりたい。それにはある程度お金もかかります。でも、それが子供と過ごす貴重な時間を犠牲にして仕事を優先させることを正当化する言い訳になってしまうと、本末転倒です。

 実は、子供に幸せな時間を与えるためには、お金はかかりません。大人が心から楽しみながら一緒に時間を過ごすだけで十分です。むしろ、それ以外に本当の意味で子供を幸せにする方法はありません。大人が楽しくしていることが、子供も楽しくさせるのです。でも、いつも仕事に追われて心に余裕のない大人たちは、表面的に子供の遊びに付き合いながらも、切り上げるタイミングを窺いつつ心のどこかで白けた気持ちで仕方なくそこにいるだけだったりします。そんな嘘は、子供は敏感に感じてしまいます。 そこでなんとかご機嫌を取ろうと、おもちゃやゲームを与えて、お茶を濁してしまう。そんなことを繰り返していくうちに、子供と過ごす時間を、くだらないおもちゃやレクレーションで代用することが習慣化し、どんどん子供との心の距離は大きくなってしまいます。

 子供と一緒に心から楽しい時間を過ごすのは、実はさほど難しいことではありません。自分が子供だった頃の心を思い出して、その心で子供に接すればいいのです。言い換えれば、自分も子供になりきるということですね。大人気なく、馬鹿になって本気で遊べばいいんです。どんな大人でも子供だったことはあるので、必ず子供の自分を見つけることはできます。子供たちのエネルギーが、忘れ去られていた子供の自分を引き出してもくれます。

 小さなボロ屋暮で、子供たちは折り重なるように寝て、そこにさらに友達が泊まりにきて、もう訳がわからないカオスになる。夏休みには友人の子供も預かって、10名を超える子供が朝から夕方までウヨウヨしている。もちろん、そんな環境ではハープの練習をするのも大変です。でも、楽しかった!たとえ貧乏な生活でも、大人がそれを悲惨だと思っていなかったら、子供はボロ屋であろうが狭かろうが、全く気にしません。その瞬間に楽しみを見出し、幸せを謳歌するだけです。それを眺めていると、大人も元気になれるんです。

 子供が子供である時間は限られています。あっという間に、大人になってしまいます。親子として、今でしか経験できないこと、今でしか結ばれない絆があります。それは、どれだけお金積んでも得られないもので、時期を逃すと二度と手に入れるチャンスは無くなってしまいます。純粋な子供の心に触れることで、「この子のために、もっとまともな人間になる努力をしよう」という決意も与えられます。「もう少し仕事が落ち着いて経済的にも余裕ができたら、子供ともゆっくりすごそう。」そんなことを言っているうちに、チャンスはなくなってしまいます。

 「じゃあ、仕事を犠牲にして子供のために時間を作らないといけないのか…。」いやいや、案外とそうでもないのです。子供と幸せに過ごす時間のおかげで、仕事でも自ずと成果が上がってきますから、長期の収支で見れば何も犠牲にはなりません。何かを犠牲にして子育てをするという考えが、そもそも間違っているのです。子育てを義務、あるいは重荷と感じていると、仕事も家庭も全て歯車が合わなくなり、一緒に幸せになるチャンスを与えられた家族なのに、負のスパイラルで共に不幸に落ちてしまいます。

 子供という、無限の可能性を持った存在の成長を助けるのが子育てです。この素晴らしい創造のプロセスに比べれば、音楽家としての創作活動など色褪せて見えるほどです。子育て中の皆さんは、どうか今の特別な時間を心から楽しんでください。

 

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