ひたすら感じれば、答えはそこにある

 音楽演奏とは、「美を表現するためには、どんな音を、どんな風に出せば良いのか?」という問いに対しての一つの解答を提示することです。

 クラシック演奏の場合は、「どんな音を」という部分に関しては過去の模範解答をそのまま借用することができるので、演奏者はもっぱら「どんな風に」という課題に集中します。作曲や即興を行う演奏家は、「どんな音を」という課題と、「どんな風に」という課題の両方に取り組むことになります。

 この課題を解き、聴き手に披露しても恥ずかしくない程度の解答(演奏)を見出す術を習得するために、音楽教育があります。現在の音楽教育では、知識や技術の蓄積に主眼が置かれています。しかし、これらの課題を解くにあたって最も必要な素養は、知識や技術ではなく、「聴く能力」です。残念ながら、音の聴き方を体系的に指導するような教育システムはなく、「聴く能力」は、音楽と長年接するうちに自然に身に付くもの、つまり「教えられない能力」、あるいは「才能」に属すると考えられています。しかし実際には、特別の才能がなくとも、意識的に音の聴き方を訓練し「聴く能力」を高めることは可能です。その具体的な方法に関しては、後日別の論説にて改めて述べることにして、ここでは「聴く能力」がどの様に音楽演奏に決定的な影響を与えるのか、ということについて、作曲と演奏を同時進行で行う即興演奏での経験からお話しをしてみたいと思います。

 即興演奏において最も難しい瞬間は、音楽を始める最初の瞬間と、音楽の自然な流れが止まりそうになった瞬間です。これらの瞬間に「どんな音をどんな風に演奏するか」を決定する際に、知識や技術を中心に解答を見出そうとすると、小手先のオモシロさと小賢しい音楽的装飾の香りのする嘘臭い音印象を生み出してしまいます。喩えるなら、本物の薔薇のエッセンスから作った香水を思わせるような心地よさを伴う本物の音楽ではなく、化学物質の組み合わせで人工的に作った「バラの香りトイレの芳香剤」から感じる違和感と不快感を伴う音楽になってしまうのです。

 音楽の流れを起動するときにもっとも大切なことは、兎にも角にも「聴くこと」です。今自分の出している音をただひたすら聴くのです。「次に何をどうしようかな」とか、「そろそろお客さんもこの雰囲気に飽きてくる頃だから、何か新しいことをしなくちゃ」などという雑念は、聴くことを妨げてしまいます。演奏の場でこのような思惑に囚われないことは非常に困難なので、「ひたすら聴く」という行為を完遂ためには、意識と意志の力を集中することが必要です。雑念に埋没することなくひたすら聴こうと努力をすると、次にやるべきことは自ずと浮かんできます。リズムを変化させる、和音を継続させる、早いパッセージを入れるなど、そこで浮かんできた音楽的なアイデアを採用し、実行すればいいだけです。もし「次何も浮かばないから、そこで音楽を終わりにする」という決断がひたすら聴いた末の答えであるなら、それもOKなのです。

 ひたすら聴けば、何をどの様に演奏すべきかが分かる?なんじゃそりゃ?それでいい演奏できるんだったら誰も苦労せんわ!

 まあ、確かに無責任なスピリチュアル系のおっさんの戯言に聞こえるかもしれませんが、実は脳科学的にも納得のできる現象なのです。

 音楽における和音、メロディー、リズムなどの要素は大脳皮質によって理解され、運動を実現するための具体的な業務は小脳によって行われます。小脳は、実際には大脳よりもはるかに多くの脳細胞を有し、非常に複雑な情報処理を行い、行動のアウトプットの実行役を演じています。しかし、小脳内で様々に業務分担された各部位は、縦割り構造で別個に働き、意志や意識という高次の脳機能を生み出すことはなく、ただロボットのように与えられた仕事を淡々と実行するだけです。即興演奏では、大脳と小脳が協働して音楽を生み出しています。まず、今自分が演奏している音楽をじっくり聴かないことには、大脳への情報のインプットが不十分となり、数分〜数十分に及ぶ音楽の全体的な文脈のなかで今の瞬間の正確な意味を意識することができません。そうなると当然、次に来るべき音の選択のための情報も不足し、意志も明確にならないわけです。小脳の機能は全く無意識に発動しますから、大脳からの意識と意志のインプットが不十分だと、その限られたインプットに応じた働きしかできません。つまり、大脳からの意識と意志を実現した「本当の薔薇の香り」ではなく、小脳内のロボットによって自動的に合成された「バラの香りトイレの芳香剤」でどうにかこうにか音楽を続けることになってしまうのです。逆に言えば、小脳は情報さえ与えてやれば忠実に、しかも見事に仕事を完遂する能力を持っています。ただ、決断する力はなく、言われたことをやるだけなのです。そのため、意識の機能を持つ大脳からしっかりとビジョンを伝えてやらなければなりません。そのプロセスの鍵となる第一歩が「意識的にじっくりと音を聴く」という行為なのです。

 この「じっくりと〇〇する」というメソッドは、聴覚だけでなく味覚、臭覚、視覚、触覚というすべての五感に関する行動においても有効です。

 例えば料理。レシピ通りに作っても、出来上がりはイマイチって経験はみなさんにもありますよね?食材を調理する時間と加減、食材を混ぜるタイミング、サービングする温度、食感などは、結局のところレシピでは分からない上に、用いる食材のクオリティーや味の好みに応じて調整される必要があります。このようなレシピでは教えてくれない微妙な要素を感覚的に調整できるためには、まず食材の匂いと味をじっくりと確認をして、脳にその印象をしっかりと落とし込むことが必要です。そうすれば、なんとなくどうやったら上手く行きそうか見えてきます。このように食材の匂いと味をじっくり吟味するプロセスを省略してレシピ首っ引きで料理をすると、たいていの場合は、「不味いわけではないけれども、ちょっとガッカリな結果」になることが多いですね。

 アーチェリーにおいても、良い結果を得るためには、弓矢を構える前にとにかくターゲットをじっくり見ることが大切です。そのときには、あまり色々と考えない方がいいですね。英語では、 doing with presence(存在を伴って行う)という表現がありますが、まさに「存在を伴ってひたすら見る」つまり「今自分は見ている」という自覚的な意識と、見ている対象に向けられている意識を同時に感じながら見ようとします。そうすると、脳は無意識の中で距離、角度、体との位置関係などを自動計算します。こうやってターゲットへのロックオンが完了したら、いよいよ体を動かします。動作の最初期は必要最小限の力で体がニュートラルな姿勢を保っていることに意識を向け、それに徐々に力が加わり標的に向けて矢を放てるポジションへと移動するという感覚を意識することが必要です。ここで色々と小賢しく考えてしまうと、大脳から送ってもらった視覚情報を受け取って素晴らしい仕事をしようとしている小脳の自動的な働きを邪魔することになり、良い結果を生むことはできません。リーダーとしての才覚はあるけど実務経験の浅い上司が、部下のやってることに細かく口出しすると、現場が混乱して仕事がうまくいかないのと同じく、脳においても、ふさわしい仕事をふさわしい部署に任せることが大切なのです。

 何かを「為す」ことばかりが強調される現代社会ですが、「為す」ためには、まず「感じる」ことが必要です。そして、「感じる」ためには「存在すること」が必要です。存在し、感じ、そしてようやく為すことができる。存在もせず、感じもせず、ただ為していたのでは、ロボットと変わりません。成果主義、効率主義の現代社会では、「存在して感じる」ことは疎かにされがちですが、その結果世の中に生み出されているものは、浅薄な喜び、病につながる快楽、自然環境との不調和など、「バラの香りトイレの芳香剤」のような上っ面のものばかり…。

「存在し、感じ、そして為す」という人本来のあり方に立ち返ることで、幸福な生へとつながる道を見出すことができるのではないでしょうか。


 

Leave a comment