音楽づくりとは?

 

 世の中にはいろんな音楽制作のあり方がありますが、古佐小流には、音楽制作を以下のように定義しています。

 

 「音楽制作とは、日常生活の中で自然の創造の営みの仕組みを広く学びながら、音色、旋律、和声、リズムなどの音の印象の特性を学び、音とそれを聴いた時に呼び起こされる感情的な反応、思考、生理的な反応などの関連を学び、さらに実際に楽器や声を用いて意図した通りの音印象を生み出す技術を学び、それらの学びから得られた統合的な知識と*ビーイングにより、聴き手に望ましい反応を呼び起こす音印象を造り出す一連の活動である。」(*注;Being:ぴったり来る訳語がないのでカタカナ表記にしますが、英語の哲学的論文で見られる用語で、直訳的には「存在のレベル」。知識ではなく、極意や奥義などの深遠な智恵を理解できる能力。)

 

 音楽制作の努力は、製作者の思考力、感受性、運動能力、直観力など、内的な能力の拡張に非常に大きな影響を与えます。また、その音楽家により生み出される音印象は、人間の内的機能によって加工されている音印象なので、大自然のそのままの音印象に比べて、より人間に受け取り入れやすい形になっています。言い換えると、自然に存在する音エネルギーという生の素材が、音楽家により噛み砕いて消化され、創造的プロセスを経て、人間同士で交換できる音エネルギーに変換されて、芸術作品として提示されます。この意味では、音楽家の役割は、自然の生の素材を料理して、誰にでも食べやすい形に仕上げる料理人のようなイメージとも言えるかもしれません。

 

 このプロセスをもう少し噛み砕いて論述してみましょう。

 

 自然の創造の営みの仕組みを学ぶためには、人間社会も含む自然環境全体の営みに敏感であることが必要で、そのためには、五感とそれをどう感じているかをモニターできる感性を研ぎすます必要があります。また、音印象とそれによって呼び起こされる聴き手の内的な状態の変化の関連を学ぶためには、まず自分自身が聴き手として、音に対してどのような反応をしているかを自己観察し分析することが必要で、そのためには、自己に対して客観的になる努力が必要です。また、実際に楽器や声を用いて意図した通りの音印象を生み出す技術を学ぶためには、楽器演奏や発声の技術の習得に加え、肉体の動作機能と音印象を生み出そうとする意図・意識の連結を、より完全な状態に近づける努力も必要ですから、武道家やスポーツ選手と同じく、心技体の連携を深める訓練も必要です。さらに、それらの学びから得られた知識とビーイングが、演奏の瞬間に正しく調和のもとで作用するためには、時間とともに流れてゆく音楽とともに「今、この瞬間、ここに存在している」ことを継続的に意識できる内的な状態も必要です。そして、聴き手に望ましい反応を呼び起こす音印象を造り出すためには、音印象を受け取る聴き手への「愛」を感じる努力も必要になります。

 

 実のところ、このようなプロセスを経て生み出される音楽作品は、単なる副産物であって、このプロセスにより絶えず鍛えら開発されている音楽家の内的な能力こそが、音楽制作によってもたらされる主産物なのだと思っています。

 

 このような音楽制作の境地は、一生かけて取り組む音楽家としてのライフワークです。しかし、「それが完全できるようになってから音楽を制作するべきだ」というような潔癖を貫くと、古佐小ごときのレベルでは、死ぬまでに1音だって音を鳴らすことは許されませんから、音楽家としては、今現在の知識とビーイングを駆使して、現状でのベストの音楽を制作することになります。それを奢りや妥協から行うのではなく、自分のありのままの姿を謙虚に受け入れ、不完全な作品と自覚しながらも批判を覚悟で発表し続けるには、勇気と忍耐が必要です。この勇気と忍耐こそが、表現者であるために最も必要とされる素質なのかもしれません。

 

 一口に音楽と言っても、同一の聴き手が異なる音楽から受ける影響には「なんとなく気分が変わる程度の影響」から「人生観が変わってしまうほどの影響」まで大きな幅かあります。また、同一の音楽が異なる聴き手に与える影響の幅も、同様に「なんとなく心地よい」という程度のものから「魂が揺さぶられる感動」まで大きな幅があります。例えば、ティーンエイジャーにとっては気持のよいヒップ・ホップの音楽が、この中年のおっさんにとっては苦痛でもあるわけですから、実際には、この幅はプラスの側での変動にとどまらず、マイナスからプラスまで振れる非常に大きなものです。

 

 このような幅が存在することは、音楽制作に携わる音楽家の知識とビーイングには大きな幅があること、また、聴き手の音楽印象への感受性と印象の消化能力にも大きな個人差があることを物語っています。言い換えると、音楽を生み出す手段と目的、それを受け取る能力と音楽の使用目的に大きな幅があるので、音楽〜聴き手の反応系には、大きなバリエーションがあり得るのです。

 

 つまり、音楽家が現在の自分のビーイングと知識を駆使して誠実に音楽に取り組むならば、それに価値を見出してくれる聴き手はいるということになります。そのことを信じ、試行錯誤の中で音楽作りの経験を積むことで、ビーイングと知識が増し、より完全な音楽家へと近づいていけるのだと思います。また、それにより、より善き人への道も歩むことになるのでしょう。

 

 

 

Leave a comment