戦争回避のためにやれることはあるのか?(後半)

戦争回避のためにやれることはあるのか?(後半)

(終戦の日を迎える8月。戦争に関する文章をシリーズで掲載しています。)

 

 ほとんどの国民が、自国が戦争に参加することを、馬鹿げたこと、不毛なこと、非人間的なこと、どんなことをしてでも避けるべきこと、と感じるにも関わらず、国家は時として戦争へと道を進んでしまうのはなぜでしょう?

 

 一般庶民としては、「バカな政治家や官僚、利己的で欲深い金持ちのせいで、自分達のような善良な庶民までも戦争に巻き込まれてしまう」という犠牲者意識を持ってしまうのですが、独裁制、民主主義、共産主義、社会主義、王制など、どのような体制の国家においても、戦争へと進んでしまった事例があることを考えると、戦争の責任を、単に国家体制、時の指導者や富裕層にのみあると考えることは、間違いだと思われます。

 

 プラトンの国家論は、「国家の性質というものは、それを構成する国民の性質を反映する」という前提で展開されています。国家は、それを構成する一人一人の国民があってこそ成り立つもので、人体が一つ一つの細胞があってはじめて成り立っているのと同じ状況です。細胞一つ一つに共有されている遺伝情報が、人体/人間としての性質を規定しているのと同様に、国家のあり方も、一人一人の構成員のあり方が反映された結果であるとする見方は、論理的にも納得できる見解です。特に、国民すべてに平等な権利と義務が与えられ、個人の消費行動が経済活動の方向性を大きく左右する資本主義と、国家の指導者を選挙によって選出する民主主義を併用している日本のような国家においては、一人一人の国民のあり方が、かなり明確に国家のあり方に反映される仕組みが備わっていると考えられます。

 

 国家間において、もし、お互いの良心を信頼することができれば、武力で威嚇しあって争いを抑止する必要もないのですが、それは容易なことではありません。一個人としての自分自信を省みれば、他人はもちろんのこと、場合によっては肉親、配偶者にたいしても、心の底から全面的に信頼することが出来ていないことに気づきます。他者の気に喰わない態度や言動には、しょっちゅう不快感を抱きます。いちいち面と向かって悪態をついたり拳を振るったりすることはないとしても、機会があったらどこかで愚痴をこぼしたり陰口を叩いてしまいます。「人類皆兄弟」と言いながらも、もしかしたら泥棒の被害に遭うかもしれないという不信感や恐怖感を払拭できず、家や車にカギをかけ、ネットでのセキュリティーを厳重にし、警察という犯罪取り締まりと抑止のための組織を頼りに思ってしまいます。地球環境の問題や人類のあり方についていろいろと考え、現状に憤慨しながらも、見ず知らずの人の豊かさよりも、自分と直接関わりのある人の豊かさを優先したいという傾向にはあらがえず、私財をなげうってまで全人類のために尽くそうとは考えられません。衣食住に困らない程度の豊かさでは満足できず、もっといろんな経験をしたり、いろんな物品を所有したいという欲求は頭をもたげ、なかなかに「足ることを知る」には至りません。「競争により進歩が生まれる」というスローガンのもとに、政治、農林水産業、生産業、商業はもちろんのこと、学問や芸術、医療の世界においてさえも競争が繰り広げられ、そこで成功するためのあらゆる「戦略」が編み出されている中で、生活に必要な糧を得るために、生き残りをかけて奮闘しています。

 

 これが、戦時ではない平常時の、ごく一般的な庶民、古佐小基史の「平和な日常」の内的状態です。

 

 こうやって書き出してみると、自分のことながら恐ろしくなるほどに、平安とは対局的なる内的な状態です。もし多くの皆さんの内的状態も、これに近似した状態にあるとしたら、平時においても不信感、恐れ、貪欲さ、利己心、競争心を常に発動して生活している個人の集合体として、国家が存立していることになります。そのような国家が、他国への不信感と恐れ、自国の利害を中心にする利己主義、政治経済において他国より優位に立とうとする競争原理をベースに運営されることは、むしろ当然のことです。そういった国家がびっしりと隣り合って並んでいる世界において、国家間でお互いに疑心暗鬼となり、軍拡競争や軍事衝突が起きても、全く不思議ではありません。

 

 このように考察してみると、結局のところ、戦争の根本原因は、外ではなく自分自身の内にあるのではないかと思えてきます。

 

 自国の政治や社会の仕組みを変え、軍事力や経済力を背景に外国の独裁者の言動を変えることに一生懸命に取り組み、一時的に外面的な平和を獲得することができたとしても、結局、一人一人の国民の内面で平安が得られていないとしたら、また同じ歴史の繰り返しになってしまうでしょう。

 

 では個人としては何ができるのか?自分なりに世界情勢を学び、平和への信念を持ってデモや言論などの啓発活動によって平和を訴えることもできますが、そのような活動が「闘争」の姿勢を帯びてくると、それで何か得た場合でも、それを闘争によって守り抜くという「平和のための闘争」という自己矛盾を生み、仮に社会の仕組みを変え、指導者を一掃することに成功しても、結果としては平和は達成されません。おそらく、人類が様々な政治形態、統治システムを変遷してきたにもかかわらず、戦争を放棄できない一つの理由は、平和のための闘争という自己矛盾をはらんだ手段での変革によって平和を得ようとしてきたからなのかもしれません。

 

 しかし、自分自身の中に見出される不信感、恐れ、貪欲さ、利己心、競争心を離れ、自己の内面の平安と隣人との関係においての平和を実現しようとする努力は、その気になれば、だれでも、いつでも、どこでも行うことができます。このような小さな個人的な内的努力が、ほんとうに、人類全体のあり方を変え、戦争という大きな外的な事象に何らかの影響を与えることができるのか?正直なところ、それを証明する術は知りません。しかし、内的な平安を獲得することが個人の幸福に寄与することは間違いありませんし、一人の心が平安に近づくことは、ほんのちょこっとではありますが、その分だけ確実に世界に平和を増やすことに他なりません。実は、それこそが、個人として責任を持って行える真の平和活動なのかもしれません。

 

 

 

 

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