便利さの代償

 一昔前は、「音楽を聴きたいなあ」と思ったら、アンプの入力をフォノに切り替え、LPを盤面に直接指で触れないように注意深くジャケットから出してターンテーブルに乗せて、盤面を引っ掻かないように針をそ〜と落とし、20数分ごとにA面からB面にひっくり返さなくてはいけませんでした。その上、ちょっとホコリが付くとパチパチ雑音が入るし、ひどい時には針飛びをするので、ホワイトボードのマーカー消しみたいなホコリ取りの道具で定期的に盤面を掃除する必要もありました。針の交換やクリーニングも定期的に行う必要がありましたから、何かとメンテも大変でした。カセットテープはレコードよりは手軽でしたが、それでも赤のヘッドクリーナー液と青のローラーのクリーニング液を使って定期的に掃除をする必要がありましたし、古いカセットを再生すると、せっかくきれいにしたヘッドやローラーがすぐに汚れてしまう。磁化したヘッドから磁気をとるイレーサーなるテープ型のツールもありました。テープがローラーに巻き込まれる危険もあり、巻き込まれたテープを傷めないように取り出したつもりでも、再生すると音がクショクショとなってしまうし、そういう部分は再び巻き込まれる可能性も高く、そうなると大事なテープがオシャカです。オートリバース、自動頭出し機能が実用化された時には、その便利さに文明の進歩を感じたものでしたが、キュルキュルの頭出しがテープの寿命を縮めるので、結局その機能をオフにして使わなかったり…、まあ、色々とありましたね。ウォークマンが登場し、さらに便利になりましたが、早送りと巻き戻しをするとすぐに電池がなくなるので、鉛筆をアナにさしてくるくる手動での巻き戻しをやって電気を節約したものです。あっ、そうそう、ドルビーもCで録音したのをBで再生すると音がこもったり、テープもメタル、クローム、ノーマルの設定をしっかり確かめて録音/再生をしないと、音がおかしくなってしまうということもありました。

 これだけ面倒なことをやって、聴くたびに消耗するLPやテープという貴重な数少ない手持ちの音源を再生するので、自然と「よし、聴くぞ!」という気合をもって音楽を聴く姿勢になったものです。しかし今は、あまりにも簡単に音楽をかけることができるので、どこでもかしこでも「ながら」のBGMとして音楽が惜しげもなく浪費されていると感じます。

 このように、音楽に限らず様々な分野において、ここ数十年で面倒な手続きが必要となくなり便利になりました。料理、買い物、洗濯、バスや電車に乗る手続き、通信と連絡、風呂沸かし…、ここ数十年で様々な生活場面でもたらされた変化を考えてみると、実に驚くべきものです。全てが簡単で便利になりました。しかし人類は、この便利さのおかげで得た自由な時間とエネルギーを、その代償として支払っている膨大な資源消費と環境変容の代価として十分な価値のある有意義なことに向けているのでしょうか?便利さを乱用して、単なる怠惰や娯楽への耽溺に陥っていはいないか…。

 田舎暮らしで不便な生活をしていると、時間とエネルギーを様々なことに向けなくてはならず、音楽家としての活動量という単一の指標で見るならば、非常に効率の悪いライフスタイルを選択していることになります。しかし、この不便さが、音楽家/芸術家としての自分の能力向上や表現活動の足を引っ張っていると感じたことはありません。むしろ、音楽以外の時間に、音楽に向き合っている時と同じ程度の意識と注意力を払いながら日常生活を送らなくてはならない不便さがあってこそ、予測不能で自分自身以外に拠り所のない孤独な演奏場面において、自分の持てる技能を総動員して音楽に取り組む統合能力が鍛錬されていると感じています。これは、適度な不便さの賜物です。

 人類は、現代の便利さとの引き換えに、精神的な怠惰さの誘惑に引き込まれて、人間の最も重要な機能である「意識」と、生きていることを実感させてくれる源泉である「現在目の前にある現実に全身全霊で向き合う時間」を失いつつあるのではないかと思います。確かに、真剣な緊張感を持って普段の生活を行うことは楽ではありませんから、日常生活の活動を楽にやれる選択肢が増えること自体は決して悪いことではありません。しかし、それが度を超えて、人生の大半の時間を、現実から半分腰が引けたような中途半端な意識の状態で漫然と過ごすようになると、「なんとなく毎日がつまらない」「生きる目的が見つからない」「生きている意味がわからない」「何をやっても面白くない」と感じるようになります。引きこもりや鬱などの心の病が増えている背景には、すべてにおいてあまりにも便利になりすぎてしまった現代の生活様式があるのかもしれません

 ひと昔前は、水を汲む、火を起こす、食料を調達する、住居を整備するなど、生きてゆくための最低限のニーズを満たすのは大変で、今の時間を生きるのに精一杯だったと考えられます。現代の感覚からすると、ゆとりのないとてもみじめな状態のようにも思えてしまいますが、今を生きるのに精一杯であることは、必ずしも不幸な状態ではないと思います。生きる目的や人生の意味などという哲学めいた命題への答えを持ち合わせていなくても、現在この瞬間にそこで起こっていることに全身全霊で向き合っていれば、少なくとも退屈を感じたり、何をすべきかわからないというようなことで悩まされることはありません。むしろ、毎瞬を「生きている」というリアルな感覚が、不思議な充足感をもたらしてくれます。とにかく、できるだけ常に意識を呼び起こし、目の前にある現実とその瞬間の内なる世界で起きている出来事に真剣に向い合うことを続けていれば、それ自体が生きていることの意義と目的となり、その積み重ねの上に長期の人生の目標や生きがいなども見えてくるのではないでしょうか。

Leave a comment