旧約聖書の出エジプト記にある神の名 “I AM”の考察

あけましておめでとうございます。

 

今年に入ってはじめての投稿は、聖書の文言に関する超長文の哲学的考察です。自らの頭の整理のために書いたものですので、スルー前提で投稿させていただきます。ただ、現象界が混沌としているこの時代に、大きなスケールで宇宙を考えてみることは心の安寧にもつながりますから、その刺激としてお読みいただくことには意味があるかもしれません。
 


旧約聖書の出エジプト記にある神の名 “I AM”の考察

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ホレブ山で神に呼びかけられ、「イズラエルの民を連れてエジプトより脱出せよ」という使命を託されたモーゼは、「そんな大役は引き受けられない」と断るが、神は常にモーゼとともにあることを約束し、彼を励ます。そこでモーゼは神に、「イスラエルの民に、誰によって遣わされたかを伝えるために、あなたの名前をお聞かせください」と頼んだ。すると神は、”I AM THAT I AM” とお答えになり、「イスラエルの民には、I AM があなたを彼らのためにお遣わしになったと伝えなさい」と告げた。
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“I am that I am” は直訳すると「私は、私であるということである」となるが、これでは全く英語でのニュアンスが表現できない上に、意味不明である。事実、カトリックの幼稚園と中学、高校に通い、聖書も何度か読んだが、つい最近までこの寓話の意味はさっぱり理解できなかった。

 一般的翻訳では、“I am ◯◯” は、「私は◯◯である」とされ、be 動詞の am は、I と ◯◯をイコールで結ぶ役割を果たすニュアンスで翻訳される。しかし、be 動詞の am は、実際には「存在している」というニュアンスをも表し、しかも日本語の「存在している」という言葉の持つ積極的行為のニュアンスは有しない。つまり、受動的も積極的もなく、ただ、そこに「ある」というニュアンスである。

 したがって、神の名として告げられた「 I AM」のニュアンスは、名がくるべき位置が空白のまま残された I am ◯◯の状態であり、まさに役割も肩書きも名前もない状態で、ただ「私はある」ということになる。これは、スピリチュアル系の教えでしばしば遭遇する「現在に存在する」「今という瞬間を生きる」「人が手にすることのできるものは、この瞬間だけである」「自己を思い起こす」というように表現されるニュアンスとも矛盾しない。

 自己意識を有する主体を指す I が be 動詞のこの絶妙なニュアンスを伴って “I AM” の形で用いられることで、日本語では「名のない状態の主体がそこにある」という文章になってしまう分量の情報を、わずかアルファベット3文字で表現することに成功している。さらに、オリジナルのヘブライ語では、このAMの部分にある単語は、過去、現在、未来のどの時間系でも用いることのできるものである。つまり、ヘブライ語バージョンでは、“ I was/am/wil be” の意味となり、時空を超えた存在であるというニュアンスをも含んでいる。しかも、名を尋ねられたら普通は名詞で答えるところを、あえて「 I AM」という文章で答えることで、神は自らを一つの名前で言い表せない存在であることを見事に表現した。

 このように、 “I AM” は、神がどのような存在であるかを表現する言葉として、実に秀逸である。しかも、英語を使っている限り、毎日何百回も “I AM” と口にし、また周囲の人からもそれが幾度となく口にされるのを聞くのであるから、その度に神を思い起こし、全てのもの(神とその被造物)と自分が切り離されてはおらず、一つのものとして融合した存在であるということを意識するきっかけを得ることができる。つまり、神との普遍的な繋がりの悟りという覚醒のための目覚まし時計としても、実に素晴らしい働きをするのである。その意味で、神はモーゼに約束したごとく、実際に日常の営みの中で常に人に寄り添い、覚醒を助けてくれているのである。

 この “I am that I am” の絶妙なニュアンスを、英語を母国語とする人はどのように受け取ってスピリチュアルな成長に結びつけるのだろう?そのプロセスを示す一例として、妻のテラの体験談を紹介する。

 精神的にも肉体的にも疲労が溜まり(原因は古佐小ではありませんよ〜。結婚前の話なので…)、非常に追い詰められた時期にあった彼女は、その状況において導きとなるインスピレーションを求め、運を天に任せ、一番近くにあった本をランダムに開けて最初に目に入った文章を読むことにした。しかし運悪く、そこにあった本はまったく彼女のお気に入りではないメハーババの本であった。そのため、あまり期待もせずに何気なくページを開いてみたのだが、意外なことに “ I am GOD” という言葉が強烈な印象を持って飛び込んできた。彼女はそれを見て、まさに  “I am GOD”、  つまり「私はすべて(神と神の被造物)」である」という理解が身体中に響き渡るような感覚に襲われ、周囲にあるもの全てを自己の一部として感じるような感情的状態を数日間経験することになる。「その時の意識状態では、テラという自己が消失して別の『神』という新たな主体が登場する感覚であったか?」という問いに対し、彼女は、「テラという自己意識が、通常の自己の限界を超えて果てしなく拡張して、すべてのものと融合する感じであった」と答えた。 “I am GOD” という言葉がこのような状態に彼女を導いた連想のプロセスは、以下のようなものであった。

 「メハーババは、彼自身のことを I という自己代名詞で呼ぶ。私も自分自身を I という自己代名詞で呼ぶ。世の中のすべての人は、自己を I という自己代名詞で呼ぶ。動物や植物は言うに及ばず、言葉を発していない石ころや土塊さえ、他の全てのものとは区別されて存在している限り、彼らなりの “ I am” の感覚を持っているのだろう。では、なぜ、このよう全体から区別され切り離された状態で存在するすべてのものが、なぜこの統一自己代名詞 I で自らを名乗るのであろうか?それは、結局皆が同じものであるからではないのか? 誰かが “I am GOD” と名乗るということは、 I で自らを名乗るのすべてのものがGODであることを意味するのではないか?すべてのものがGODであるならば、自分も含めてすべてのものがモーゼに “I am that Iam”と名乗りをあげた<神>なのだ。つまり、世界には独立して存在するものなど一つもなく、全てが一つなのだ!」

 以上のテラの体験談を受けて、さらなる考察を進める。

 自己代名詞 I が規定するものは、自己意識を持つもの、あるいは自己認識を持つものである。I AM は、通常であれば主語の属性を表す名や形容詞で終わるべき文章を、あえて属性を明確にせずに尻切れトンボに終わらせた文章である。このことによって「名によって規定されない状態」が表現される。しかし、よく考えてみると、名を尋ねるモーゼに対し、神が名詞を用いずに状態を表す文章で回答したことは、非常に不自然で、一見すると全く噛み合っていない会話のようにも思える。実際、日常生活の場面で名を尋ねられ、文章を自分の名として返したなら、即ぶん殴られるか、危ないおっさんと思われるのがオチである。しかし、このチグハクなやりとりによって、神は、<名>ではなく、I AM という<状態>こそが、すべての起源であると示唆した。しかも、この名であれば、皆が納得するだろうという保証をつけて、モーゼにこの返答をしたのである。

 では、ここからは、別の角度からの考察を加えてみる。

 一般に、個々の細胞よりは、数兆の細胞が集まった統一体である人体の方が存在のレベル(存在の価値や知性のレベル)が高いとされている。つまり、分割されたものよりも、統一されているものの方が高度な存在の状態にあると考えられている。

 一方で、人が自己を認識するためには、他のものと区別される自己という感覚と、身体という物理的限界が必要である。つまり、人はわざわざ自らを意識と身体に分割し、さらに細かな自己分割(古佐小基史、ハーピスト、父親、息子、看護師、保健師、ファーマー、夫など役割やアイデンティティーへの分割)をし、精神機能や特徴を心理学などでさらに分類化して、自己をできるだけ分析的に定義しようとする。言うなれば、「統一」とは真逆の方向に向かうのである。

 また、全てのものの始まりである神も、その内部に様々な宇宙を作り、さらにその中に星雲、太陽系、惑星系、惑星の世界、生命体の世界、生命体内の世界、原子や素粒子の世界という具合に、無限の自己分割を行う。統一された単一体である最高の存在状態を持っている神は、なぜわざわざそのような分割により自らを切り裂きく動機はどこから来るのであろうか?

 それは、人体が自らを分割することによって自己認識を得るように、自らの内部を様々な世界に分割することで、神も自己認識を得ようとしているからではないだろうか。自己と身体が別れているから、自己は身体を認識し、手と足が別れているから、それぞれの部位に対してさらに分割された自己認識が起こる。つまり、自己認識をする主体が存在するから、認識を深めるために必然的に自己分割という世界形成を生み、自己分割があるからこそ自己認識が成立する。この両者のプロセスを、この三次元界で感じられる時間の感覚で判断しようとすると、鶏が先か卵が先かというのと似た矛盾を含む。しかし、 “ I was/am/wil be” を同時に実現できる時空を超えた存在である神を話題にしているということを考えたならば、時間的にどちらが先かという議論をするのは無意味あり、そこには卵と鶏の矛盾は存在しない。つまり、自己認識をする主体が存在する」ということと「自己分割により主体が自己認識をする」という二つのことが同時並行的に存在し、そこに矛盾はないのである。

 テラは、この2つの状態が並列して存在することを、「自己認識への衝動」と表現し、この「自己認識への衝動」が宇宙を貫く意志、あるいは法則ではないかという提言をした。だからこそ、神が自らを認識するために、この物質的な世界において無数の被造物が造られ、その被造物たちも神の似姿としての自らの「自己認識への衝動」ゆえに、さらに自己の中に無数の分割された要素を生み、その連鎖は全宇宙、全銀河系、全太陽系、惑星系、地球、全ての生命体による生態系、全ての細胞、原子、素粒子というように無限の分割の連鎖を生む。このように考えると、まさに、「自己認識への衝動」が世界に存在する全てのものの生因になっていると思えるのである。

 しかし、このような「自己認識への衝動」の結果生み出された被造物には、「より統一された自己への帰還の衝動」も生まれざるを得ない。なぜなら、一番頂上に君臨する「神」にとっては、それよりも上位に存在する自己はもはや存在せず、自ら生み出した下位の世界が存在するだけであるから、自己分割による下向きの自己認識に徹することができる。つまり、自らを分割して様々なものを創造するのが、神の専念する仕事なのである。

 しかし、被造物には、それを創造した上位の自己と、自らが分割して生み出した下位の自己があるため、被造物の自己認識においては、上下の両方向性がある。つまり、神と同じように自己分割による下向きの自己認識をすると同時に、分割されている自己を統一するという上向きの自己認識もしなくては、被造物としての「自己認識への衝動」は満足させられないのである。そのため人は、物質世界においては自己を様々な役割で切り分け、全ての物や出来事においては科学的分析により現象を切り分け、様々な名前をつけて区別し、ひたすら分割のなかで自己探究をする一方で、精神世界においては、宗教や哲学を用いて宇宙を貫く普遍的法則と全てのものの起源を探究をする。その結果、物質的価値観と精神的価値観の対立という矛盾に満ちた混沌の世界に生きることを強いられるのである。

 このように見てみると、神の「自己認識への衝動」と人の「自己認識への衝動」は、その方向性において微妙に異なるものであるため、完全に神と人間を結びつける名としては役不足である。そう考えると、やはりその衝動のさらに根本にある “I AM” (ヘブライ語では“ I was/am/wil be”)という状態が両者を結び付けるものであると、改めて納得させられる。自己認識があるからこそ“I AM” の状態が可能で、“I AM”という状態が達成されているからこそ、自己認識が可能である。 “I AM” はヘブライ語では“ I was/am/wil be”を意味し、時空を超えた存在の状態を示唆することから、この二つの事象が同時に存在することにおいては、鶏と卵の矛盾は生じない。

 ここから先は言葉遊びの領域になるのだか、もう少し考察にお付き合いいただきたい。

 分割による下向きの自己認識は、そもそも神から発せられた衝動であるため、人が努力しなくとも機械的に起こる。しかし、上向きの自己認識は統一に向かうため、ある意味、神の自己分割の衝動に逆らう作業であるので、確固たる目的をもち、意志の力を用いて意識的に行われる必要がある。このような、より普遍的な世界への理解や自己の統一性のための努力は、「自己修練」などと表現される。宗教的修行やスピリチュアルなトレーニングでは、戒律や修行により徹底的に意識力と意志力を鍛えることが、自己修練として要求される。

 つまり、人が上向きの「自己認識への衝動」を満たすためには、確固たる目的を自覚した上での努力を積極的に行うことが前提になる。しかしながら、人生においては、なんのために生きているのかということを明確にするのは簡単ではなく、俗にも人生を「自分探しの旅」と呼ぶほどに自分自身を知ることは困難で、たとえなんらかの目的を決めたとしても、それが本当に神の意志に沿う使命であるのかどうかで悩むことになる。

 「目的」とは、英語で表記すると “AIM” である。この言葉をよくみると “I AM” で用いられているのと同じ3文字のアルファベットで構成されている。このことを詩的な情緒を持って受けとめると、モーゼに神が伝えた神の名 “I AM” がそっくりそのまま目的 “AIM” になっていることに、何か特別なメッセージを感じられる。
 
 この寓話的な象徴を以下のように解くとどうだろう。

 人が自ら設定する目的は、それがどんな内容であれ、「自己認識への衝動」から発せられる場合は常に神の顕現であり、そのような目的を抱きそれに向かって生きることは神の意に従う生き方であり、常に崇高な意義がある。下向きの「自己認識への衝動」も、神の衝動の顕現、あるいは神と共有する衝動であるが、そこには人の意志や意識は要求されない。つまり、人は確固たる“AIM”(目的)を設定しなくとも、神から発した強力な意志の流れに乗って、分割による下向きの自己認識は機械的に行える。それは、高地から低地に流れる川の流れに乗っていれば自動的に下流にたどり着けるようなものである。これも確かに、神の意にかなう生き方ではある。その意味では、自己分割という法則に従い、社会を階層に分断し、貧富の差や人種間の対立、政治闘争を激化させた史上最悪の独裁者であっても、神の意には反してはいないのである。

 その一方で、上向の自己認識は、人が目的意識を持って意図的に遂行するものである。ところが、神は自己認識の方向性が上向であるか下向きであるかについて、関心はない。そのため、上向きの自己認識への努力の意義は、それを行う当事者にとってどのような意味を持つのかという視点から評価されなくてはならない。この視点から見ると、自己修練の努力は、人が自然に抱く上方に向かう「自己認識への衝動」を満たすという意味において、彼にとっても、神にとっても意義深い崇高な行為である。つまり、“AIM”(目的)を必要とし、それを設定することで利を受けるのは、当事者の自分自身であるから、“AIM”(目的)の設定に際しては、いちいち神の御裁可を仰ぐ必要はないのである。

 人が設定する具体的な “AIM”(目的)には無数のバリエーションがあり得る。どれが誰にとって正しい目的であるかは、目的の内容からだけでは判断できない。ある人にとってはそれをやることで上向きの自己認識の役に立つ場合でも、他の人にとっては全く逆の効果を与える場合もあるからである。では、「正しい目的」を設定するためにはどうすればよいのか?非常に不十分な表現であることを承知であえて言うならば、上向の「自己認識への衝動」を思い起こすことで自然に湧いてくる具体的な行動欲求に従うだけで十分なのではないだろうか。自己認識の段階が神に近づけば、それに応じて自ずと欲求も変わってくる。すなわち、上向の「自己認識への衝動」がある限り、あれこれと考えることなく、自然な欲求に導かれて、自分のレベルにふさわしい目的が設定されるのではないだろうか。

 それゆえ、良心に従い、愛を実行し、公平無私の心の状態を目指し、自己がすべてのものとつながっているという一体感を感じようとすることを目的に設定し、そこから湧き上がる良識に従い日々の生活の中でやるべきことを誠実にコツコツと積み上げていく人には、神に導かれて正しい道を歩んでいるという確信に支えられた心の安寧と平安がもたらされるのだろう。

 以上で考察を終える。

 もしかしたら、“I am that I am”の深い味わいを直感的に経験できる方にとっては、このような面倒な思考による理解のプロセスは必要ないのかもしれない。しかし、筆者のようなタイプは、直感で経験したことを思考でも検証しないことには、心の底から納得し経験し尽くしたとは感じられないのである。このことは、直感と感覚での理解を重視するあまり思考活動を障害物であるかのように位置付けてしまいがちな昨今のスピリチュアル系の教えに対する苦言でもある。その一方で、哲学系の教えでは、思考活動による理解を強調するあまり、直感による理解の重要性を軽視してしまう傾向にある。要は、両者のバランスであると思う。

 考察の出発点として聖書の文言を用いたため、この考察内容をキリスト教への冒涜とお感じになった方もあると思うが、そのような意図は全くないことをどうか信じていただきたい。あくまでも哲学的な考察の起点として偉大な聖書の文言を拝借したに過ぎず、悪意は全くないことをご理解いただけると幸いである。

 長文に最後までお付き合いいただき、感謝します。

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