placeholder

アメリカの銃事情から…

アメリカの銃事情から

危機対処への自己責任と自由についての一考

 

 自由の国、アメリカ。銃の国、アメリカ。アメリカに暮らして20年になりますが、「銃」と「自由」は、表裏一体なものなのかもしれないと感じています。面白いことに、ひらがなで書くと「自由」も「銃」もどちらも「じゆう」になります。はたまた、これは偶然の一致なのか?

 

 アメリカでは、犯罪のバックグランド・チェックをクリアーすれば、スポーツ用品店でも数万円で銃が買えます。釣り具コーナーの横に銃のコーナーがあって、カウンター行くと、店員のお兄さん、お姉さんがにこやかに銃を見せてくれる、というほどの手軽さです。農村部では、害獣撃退や狩猟、家畜の屠殺などのための生活必需品のような感覚で銃を常備している家庭が多く、近所から射撃練習の銃声がパンパン聞こえてくることも日常茶飯事です。現在同居している妻の86歳の祖父にとっては、人里離れた山で銃なしで生活するなどということは「ありえない」ことです。

 

 実際、田舎のファームでは、日常的に銃を使う状況が起きてきます。猛獣の撃退、肉用の家畜の屠殺や怪我や病気で苦しむ動物への安楽死などの他にも、例えば、近所の猛犬がファームの敷地内に侵入して家畜に危害を加えそうになった場合には、その犬を射殺する目的で発砲することは認められています。ちなみに、殺傷力のない空気銃などを撃って追っ払った場合には、犬の飼い主からペット虐待で治療費や慰謝料を請求されかねないという、ヘンテコリンなことになっています。殺すのはOKだけど追っ払うのはダメ、というのはおかしな話ですが...。

 

 このように、アメリカでは銃を持つ自由がありますから、善良な市民が自衛手段や生活の道具として銃を持てると同時に、悪党も簡単に銃を手に入れることができるわけです。そのため、銃による殺傷事件も多く発生しています。

 

 人口の密集している都市部では、「みんなが安心して暮らせるように銃を全面禁止すべきだ」という意見が正論に聞こえます。確かに、数キロ以内に派出所や警察署があり、ガードマンの見回りや防犯ベルなどの備えのある建物もたくさんあり、治安のための組織立った仕組みが運営されている都市環境では、市民を守る側に立っている警察のみが銃を持っていることで、効果的な治安維持が保証されます。

 

 しかし、農村部や山間部では事情が全く異なります。例えば、古佐小宅に銃を持った凶悪な犯罪者が逃げ込んで来たら、外部の連絡をできる暇もなくそのまま撃たれて死に、家族は乱暴をされ、その挙げ句に犯人はゆうゆうと逃げるおおせることができるかもしれません。 もし警報装置などによって運良く外部に連絡できたとしても、警察がここに到着するにはかなりの時間がかかりますから、犯人に殺意があれば結局自分も家族も警察が来るまでに殺されてしまうことでしょう。田舎では、銃声が決して異常な物音でもありませんから、たとえ日中に銃殺されたとしても、発見されるまでに相当な時間が経過してしまう可能性もあります。人口の密集していない地域ではこのようなシナリオが考えられるために、「自衛のためには銃を持つ自由が保障されるべきだ」という考え方も、十分に説得力のある正論になります。実際、自宅周辺でも、都市部から逃げて来た犯罪者が森に逃げ込み、警察のヘリやパトカー、場合によっては騎馬警官が山狩りのような捜査をすることもありましたし、ここからほど近いノース・サン・ホワンという地域は、カリフォルニアでもマリファナや覚せい剤の密造をやっている連中が多くて有名な場所ですから、やけくそになった逃亡者や麻薬でおかしくなった連中が銃を持って敷地内に飛び込んでくることも、決してあり得ないとは言い切れません。

 

 そのようなことが起こり得るシナリオとして想定される地域に住んでいる場合、銃を持つ自由という権利を行使して武装することは、決して過度に暴力的でも非人道的な選択でもありません。ただし、銃を常備することで、銃による生死に関わる事故や他者の命を奪うことでしか収束できない争いに巻き込まれる危険性を受け入れる選択を迫られます。

 

 このような、銃器の自衛手段としての意義やファームでの銃の有用性を考慮した上で、古佐小家としては、武器を持っていることで武器による脅威を呼び込んでしまう危険性の方が銃の有用性による利益よりも大きいと判断し、銃は常備していません。その代償として、最悪のシナリオが起きた場合には、なす術もなく家族ともども死ぬことになるかもしれないという結末を受け入れる覚悟もしています。ただし、実際に銃を常備していなくても、その事を知らない他者は、当然「この家には銃があるかもしれない」と考えます。つまり、誰でも自由に銃を持てる制度があるお陰で、暗黙の抑止力も働いています。

 

 合衆国憲法の2nd Amendment として知られる「市民の銃砲所持・携帯の権利」は、独立前の宗主国であったイギリスが独立戦争勃発時にアメリカ入植民の武器を没収しようとしたことへの反感が繁栄しており、この権利は、アメリカ国民が既存の政府が人権を侵害しようとした時には、それに対抗できることを保証するという意味合いも含まれています。つまりアメリカには、野生動物や犯罪者による脅威だけでなく、本来国民の幸福と自由を守るべき国家権力が脅威となった場合には、それからも身を守るという自己責任を引き受けることで、自由を実践できるという考え方が根付いているのです。

 

 近年は、学校での無差別発砲などの凄惨な事件もあり、銃の携帯の権利に関しては禁止を支持する声も多くなっているように思います。対テロの目的で警察の重武装化、テロに対しての官憲による捜査権の拡大に関しても賛否両論、活発に議論されています。また、刑務所の民営化に伴い刑務所の稼働率を上げるために、軽犯罪やこれまでは取り締まられなかったような理由での逮捕なども行われているという記事も、しばしばネットで見かけるようになりました。

 

 アメリカのこのような現状についていろいろと考えているうちに、自己の安全保障への責任と自由は、表裏一体の関係ではないかと考えるようになりました。つまり、自己の安全保障への「責任」を引き受けることで、自由という「権利」が保証され、逆に、自己の安全保障への責任を他者に委託する割合が大きくなるに従い、権利である自由はそれに比例して制限されてゆくという関係にある、という仮説を立ててみました。

 

 自由を行使するためには、自由な言動に伴うリスクを自己責任としてマネージメントする覚悟と能力が要求されます。リスク・マネージメントを権力に委託するということは、権力による規制に従う義務が生じ、生存に関しては権力への依存度が増し、その結果個人の自由は制限され、さらには社会全体への安全保障という大義名分のもとに権力による個人の自由への侵害の危険性にも曝されることを意味しています。

 

 個々人が自由奔放に好き勝手なことをできるという極端に野方図な状態も、権力によってすべての安全と安心が保証されているという極端に権力に依存した状態も、人間の幸福な生存状態であるとは思えません。「危機対処への自己責任と自由の行使」とその対極にある「安全保障の権力への依存と義務の行使」がバランス良く調和されることで、国民が幸福な生活を実現されます。危機対処への自己責任を放棄してを国家権力や政治家に丸投げすることは、権力による大衆のコントロールが強化される傾向を招き、権力への依存は従属・隷属へと進み、それにともない個人の自由は縮小をしてゆくことでしょう。

 

 幸いなことに、日本もアメリカも国民主権の民主主義が実践されている国家ですから、主権者である国民一人一人が真剣に考え、信念に基づいて言動することで、国家を少しずつ理想的な状態に近けることのできる人物を選び、かれらに権力を委託できる仕組みになっています。その一方で、政治や統治の専門家でない国民が、社会のあり方に関しての判断を誤り、不適切な選択をしてしまうリスクもあります。そのようなリスクを防ぐために、各個人が情報を集め思索をする努力を十分に行い、もし誤った判断をした場合には、その損失を一人一人が自己責任として受け入れるという厳しい覚悟があってこそ、国民の思想・信条の自由の認められた民主主義が成り立つのではないでしょうか。

 

placeholder

田舎ので自給自足ービデオ6

(連載)「田舎暮らしへの意識改革」の参考資料として、ぴおちゃんねるからビデオをシェアいたします。畑の開墾とスプリンクラーの設置の様子をお知らせします。

 

 

placeholder

(連載)田舎暮らしのための意識改革ー(5)インフラはブラックボックスではなく知っておくべきもの

 道路、上下水道、家屋、電気、通信手段、交通手段などの様々なインフラ設備が複雑に絡み合った人工的な環境である都市。それは、大自然の前に見えない壁のように立ちはだかり、自然の脅威から人々の生活を守ってくれています。しかしこの壁は、同時に自然の恵みも遮断してしまうため、自然豊かな場所から数キロしか離れていない場所でも、街中にいると自然から遠く切り離されていると感じられます。

 田舎での生活といえど、現代文明の利器もふんだんに使いますから、かつての縄文人やアメリカ・インディアンほどには自然と密着した生活をすることはないのですが、都会での生活に比べれば、自然と人間を隔てる人工的な環境の壁が薄くなり、自然との距離感は近くなります。

 近代都市では、これらのインフラは都市生活者にとって、あって当たり前のもので、第二の自然環境と呼べるほどに生活に不可欠なものとなり、大災害などでインフラが崩壊しない限りは、普段そこに存在していることすらほとんど意識されることはありません。しかし、実際には、現代的なインフラの設置と維持/管理は、社会に蓄積された高度な知識と多大な資源、それに高度な技術を持つ労働力の投入があってはじめて可能になっています。このことは、田舎生活のなかで自らの手で身の回りのインフラ整備、例えば道路、雨水の排水路、ちょっとした雨よけの建物などを作ってみると痛感できます。インフラは、そこにあって当たり前のもの。この麻痺したような感覚は、天然資源が無尽蔵であるかのように野放図な浪費をする現代人のライフスタイルと、どこかで繋がっているように感じています。

 人里離れた田舎では、自然災害の脅威をまともに受ける危険性が高く、その度にインフラも危機にさらされます。しかし、家屋やその周辺設備の不具合に対応してすぐに飛んできてくれるサービス業者は充実していませんから、様々なインフラで起こる問題に自ら対処しなくてはならない場面が多くなります。そのため、身の回りのインフラを列挙し、どこにどのように敷設されていて、維持管理には何が必要であるかを一通り理解し、維持修繕に必要な資材をある程度蓄積しておく必要に迫られます。維持管理の作業まですべて自分でやれるようになるのは簡単ではありませんが、最低でも、インフラの概要を理解しておかないと、問題が発生した時に、その原因を診断することすら難しく、どの専門業者に何を相談すればよいのかすら分からないという、救いようのない状態に陥ってしまいます。

 必要にかられて、生活インフラの敷設、維持管理を自らの手で経験しているうちに、自分の専門分野(例えば、筆者にとっての音楽)では遭遇しないような種類のチャレンジに直面することで、幅広い問題に対応できる解決能力が鍛えられるという「ボーナス」がついてきます。これにより、専門分野だけに専念していたら見落としてしまいがちな人としての基礎的能力を向上させ、専門技術(ハープ演奏や作曲の技術)の向上にもつながりますから、音楽専門家として、大工仕事や土木工事に従事することは、非常に賢い時間と労力の投資になります。

 インフラ整備と聞くと、「自分にはムリ」と思われるかもしれませんが、自然に介入してより生存に適した環境に作り変えるという行為は、生来人間に与えられた本能的な環境適応能力の発現にすぎませんから、やり始めると自然とその本能にスイッチが入って、むしろ楽しくなってきます。

 このように、自宅での日常生活の範囲内で小さな身の回りのインフラに直接関わっていると、人間の生活に必要な物資、設備、環境とは何かを考える機会が多くなります。人間生活の基本的なニーズは、一家族が暮らすところでも、100万人が暮らす都市でも同じですから、経験を伴うこのような考察は、社会構成員として、社会の全体像を理解する上でも大いに役立ちます。政治家を目指すみなさんは、有名政治家の政治塾に入る前に、まずはこういう田舎生活を数年間経験してみるのも良いのではないでしょうか?

 

 

placeholder

(連載)田舎暮らしのための意識改革ー(4)金銭的報酬から精神的報酬へ

 普通の仕事では、日給、週給、月給、時給、年収などの形で、決められた時間内の労働と引き換えにお金を得られる仕組みになっています。アーティストの場合は、制作にかけた時間によって作品の価値が決まるのではなく、出来上がった作品に独自の値打ちがつけられるので、時間をお金に換算することはありません。田舎での生活には、どちらかというとアーティスト的なお金とのつきあい方が合っていると思います。

 アーティストにとっては、作品によってもたらされる金銭的収入は、報酬の一部に過ぎません。金銭的収入のほかに、創作活動を続けることでもたらされる自分自身の成長と進化、そのプロセスでの得られる様々な経験、日々の時間をアーティストとして過ごしていることへの満足感、作品に接した方々からの肯定的な評価など、「精神的報酬」も絶えず受け取っています。

 芸術製作がすぐにお金に直接結びつかないように、田舎での生活では、やっていることがすぐに金銭的収入に繋がることは稀です。むしろ、お金の姿を拝見しないまま終わってしまう活動の方が多いかもしれません。例えば、ファームのどこかで、潅木が密集して生えていて、その上に数年にわたって松の枯葉が積もっていると、これは、消防/防火の観点は、非常に危険な状態です。そのまま放っておいてもすぐに問題は起きないし、実際に火事になる可能性もさほど高くないかもしれませんが、もし火事になったら、そこから敷地内へと山火事が広がる致命的な火元となりますから、万が一に備えて撤去しなくてはなりません。

 通常、このような作業は重労働で、延べ数日間はかかります。このような場合に、働いた時間を時給に結びつけて金勘定をしてしまうなら、「一銭の金にもならないことで何日も必死で働いて、いったい何やってんだろ。」と虚しくなってしまいます。もっと現金に直接繋がる仕事に集中し、金を稼いで、人を雇ってやってもらおうという選択肢もありますが、なんでも金で解決しようとする姿勢は、都会生活での条件反射のようなもので、田舎の生活では、それがベストの選択でないこともしばしばです。そもそも、田舎に引っ越してきたのは、都会ではできない経験をするため。言い換えるならば、お金では買えない経験に満ちた生活をするためではないでしょうか?そのためには、特に田舎暮らしの初期段階においては、「田舎暮らしのおいしいところ」だけをつまみ食いするような態度ではなく、とりあえずはすべて経験してみるというオープンな態度が大切です。

 このような仕事を、自然の観察、新しい道具を使いこなすための新しい体遣いの鍛錬、生活環境をより快適なものに作り変える実践研究としてとらえ、心身の能力を意識的にフルに活用する機会として取り組むなら、これまで鍛えてこなかった能力の開発と、すでに発達させてきた能力をさらに進化させることに役立つことに気づきます。そして、そうやって自分の肉体と精神に刻み込まれた新しい能力は、お金とは交換できない真の財産ですから、長時間の厳しい労働に値する報酬を受け取っていることになります。

 田舎での生活には、慣れさえすれば誰にでもできる作業が満ち満ちています。学歴もあり、専門分野ではそれなりに実績をあげてきた「オレ様」が、そんなことに時間と労力を費やしていることが、バカバカしく感じられる時もあるかもしれません。しかし、意識的に取り組めば、どんな仕事の中にも必ず何かしらの発見があり、時には、専門分野の狭い価値観に意固地になっているエゴから解放され、自分自身の新たな側面を見つめる機会にもなります。自然の営みへのより深い理解、これまで単純作業だと思っていたことの難しさ、自分自身の不完全さの認識、それを謙虚に受け入れることの大切さなど…。これらは、人間として大切な気づきであり、まさにお金とは交換できない精神的報酬となります。

 今過ごしている時間からもたらされる経験こそが、人生を直接形作る材料であり、お金は、人生を間接的に影響する要素にすぎません。いまやっていることがお金に結びつくかどうかは気にせず、今という時を色眼鏡を通さずに経験できたら、地味な田舎生活の中にも、素敵な瞬間をたくさん見出せることでしょう。

placeholder

アメリカ大統領選挙後の混乱

 大統領選挙投票日からすでに1ヶ月以上が経過しましたが、選挙プロセスに不正の疑惑があるということで、トランプ大統領陣営や保守グループが裁判を起こし、それに並行して選挙結果の認定をめぐって公聴会の場で州議会にアピールを続けているため、12月14日の投票人による大統領選挙の投票が行われるかどうか分からないという前代未聞の状況です。  大手メディアは、「トランプは司法を自分の利益のために不当に乱用し、国家を混乱させ、国益を著しく損なっている。即刻負けを認めて政権交代の手続きを進めるべき」という論調で対して、ネットを中心とする保守メディアは、「アメリカ民主主義の根幹を揺るがすような大規模な選挙不正が民主党を中心とする勢力によって行われた。トランプ陣営は、この巨悪に戦いを挑んでいる」という論調です。そして、お互いを「民主主義を蔑ろにしている」と攻撃しあっています。    この全く相容れることのない意見の対立を軸に、国家分断の様相を呈しています。発信者であるマスコミや個人が、自信満々でこの両極に分かれる見解を出しているために、一般人は誰でも自分が信じたいニュース、信じたいもの裏付ける情報を見つけることができる状態です。そのため、情報過多で一体何が真実なのか判断するのが難しい状況となっており、この分断をさらに長引かせています。    ということで、できるだけ公聴会の中継や当事者のインタビューや演説などの一次情報に触れ、現状に関して個人的な見解を持つようにしております。もし、トランプ陣営が主張している規模の選挙不正が行われたのであれば、これまでの政治スキャンダルとは比べ物にならない大事件であるし、もしトランプ陣営が大統領の立場を利用して、これほどの大事件をでっち上げ、数百名の支持者に偽証までさせて司法までも巻き込んでいるとしたら、それも大スキャンダルです。いずれにしても、真実が明らかになれば大きな政変が起こることは間違いなく、1860年代の南北戦争、1960年代の公民権運動の時代のような流血も含む国家の混乱期を経験することになるかもしれません。    まず、誰が真実を訴えていて、誰が嘘を言っているのか?真実を語っている側が勝つのか、それとも嘘をついている側が力で白を黒に変えて勝利するのか?現状から将来を予測する事は難しいのですが、トランプ陣営が不正選挙があったという見解をアピールし、その検証を要求するのは合法的な権利ですし、もし民主主義国家で大規模な不正選挙がまかり通るとなると、まさに民主主義の崩壊です。最終的にどちらが勝つかは別問題として、性急に選挙結果を決定するのではなく、数ヶ月の政治的空白というリスクを負ってでも、選挙不正という犯罪が行われたのかどうか、行われたとしたらどの規模で誰によって行われたのか、それは個人的に行われたのかそれとも組織的に行われたのかということが明らかにされる必要があると思っています。    今後の司法判断や各州での議会の対応などを見守りたいと思います。
placeholder

YouTubeにてオンラインライブ配信しました!

先ほど、YouTubeにてオンラインライブ配信いたしました。48時間の限定公開(アクセスが多い場合は1週間に延長)ですので、ご興味があれば、月曜の夜9時までにご覧ください。

 

 

 

 

 

 

placeholder

(連載)田舎暮らし提言のための意識改革ー(3):お金による投資から知恵と労働による投資へ



 都会での生活では、生活に必要なサービスや物品は、それ相当のお金を対価として支払うことで手に入れることができます。お金があれば、ほぼ何でも手に入れることができる都会の生活環境はとても便利なのですが、その一方で、お金がないとほとんど何も手に入らないという厳しさもあります。そのため、都会で生活していると、何をするにも、まずお金が十分にあるかどうかをとっさに考えてしまいます。そして、お金がなかったら、やりたいことも欲しいものも、わりとあっさりと諦めてしまう習慣が染み付いてしまいます。つまり、お金の不足が、物質的な豊かさと人生経験の幅を制限してしまうことに直結します。

 田舎でも、生活に必要なサービスや物品をお金で購入することは必要ですが、お金を使わないでも、なんとかやりくりできる可能性は、都会に比べて大きくなります。もし、ファームの立ち上げに必要なすべてのことを、都会感覚でお金の投資で解決しようとすると、あっという間に費用が膨大に膨らんでしまいます。例えば、動物の飼育設備などは、本格的な建築資材を使って業者に敷設工事を受注したら、とんでもないコストがかかります。そんなことをしていると、出費がかさみ、その資金を得るためには「やっぱり都会で出稼ぎの仕事を探さなくっちゃ」ということにもなりかねません。そうなったら、本末転倒で、いったい何のために田舎に移住したの分からなくなってしまいます。

 こうならないためには、お金の投資ではなく、知恵と労働の投資によって成果を生む工夫が必要になります。

 古佐小ファームでは、土砂や木、石などの資源は豊富にあります。まずは、それらを最大限活用することを考え、自分では作れない材木や砂利などの加工材料にのみお金を投資します。しかし、お金を払って手に入れた材木や砂利も、そのままでは、単なる「可能性」すぎません。それが建物や道路という目に見える成果に変容するには、資源という材料に、自らの知恵と労働を投資する必要があります。

 ここで、古佐小ファームでのプロジェクトの中から、ぬかるみの粘土質の斜面に、120メートルほどの自動車が出入りできる道路を作る作業を例にお話しいたします。

 お金に物を言わせれば、おそらく3000〜4000ドルで、業者にすべての作業を依頼することも可能です。しかし、その場合には、ブルドーザーで土をかいて平らにしたところに直接砂利を敷くだけなので、雨で土がしめった状態で道路を走行すると、車の重みで砂利が泥に飲み込まれてしまって、再び路面に泥が露出してしまい、すぐにぬかるんでしまいます。そうしたら、その上に新たに砂利を追加しなくてはならず、数年のうちにさらに1000ドル、2000ドルのお金を使うことになります。

 もし、砂利を買える程度のお金(500〜600ドル)しか手元にない状況で、自動車が出入りできるような道路を作ることが必要となった場合には、どうするか?そこでは、結果を得るために知恵と労働を投資するしかありません。

 手間はかかりますが、まずはシャベルやクワ、ツルハシなどを用い、飛び出している岩があったらそれを掘り出し、くぼんでいるところは岩で埋めて、全体をある程度平らにします。次に、大小の石ころを集めて、表面の柔らかいところを中心に敷き詰めていきます。必要であれば丸太か何かで叩いて地面に十分めり込ませ、石がそれ以上めり込まなくなるところまで石を積み終えたら、一輪手押し車で砂利を運んで、その上に敷きつめます。そして、その上を何回か車で走行して固め、一雨来た後に、再びぬかるみかけている箇所を点検し、その部分を石と砂利で補修し、ぬかるみの原因となる水の動きを観察して、効果的な場所に水を逃すための水路を掘ります。これを数回繰り返していると、そのうち安定した路面が維持されるようになります。ここまでくれば、後は、ぬかるみや凸凹、水路の詰まりに応じて対処すれば良いだけです。これに必要な現金は、砂利代のみ。砂利は、大型ダンプ2杯分で550ドルくらいですから、業者に全てを任せる場合と比べると、おそらく費用は10分の1くらいで済むことになります。

 ただし、かなりの重労働ですし、時間もかかります。それに、地形や水の流れをよく考えて地ならしをし、石による路面補強をし、排水路を作らなくてはなりませんから、それなりに注意深い自然観察と計算も必要です。しかし、そうやって苦労の末に整備した道路の上を自動車が問題なく通行できたときの喜びは、何物にも代えがたいものです。こういう作業を通じて培った重労働にも耐えられる体力と、道路を自分で補修できるという自信は、田舎暮らしを続ける上で、大きな財産となります。会費を払ってジムでトレーニングすることを思えば、タダで体を鍛えつつ道路も作れてしまうので、実はとてもお得なのです。

 音楽制作や演奏を専門としていると、音楽という目に見えない形のないものばかりを対象に、体の一部の小さな運動機能の鍛錬に終始することになります。人間としてのバランスのとれた発達を維持する上で、道路のような実際に使えて目に見えるものを体全体を使って作ることは、とても健全だと感じています。実際、様々な芸術的なアイデアや、このような論文の内容のひらめきが湧いてくるのは、案外とシャベルとツルハシをふるっている時だったりするのです。

 田舎では、小さなコミュニティーでお互いの顔を見合わせて生活していますから、お互いに信頼関係の中で助け合える可能性も多くなります。人手を要する作業でお互いに手をかし合う、余剰な農産物などの食料を分け合う、道具や機器を共同購入したり貸し借りをすることで初期投資を抑えるなど、コミュニティーとしての努力で現金の出費を抑えることは可能です。ただし、小さいコミュニティーであるがゆえに閉鎖的な部分もあり、そこで人間関係がこじれると非常に大きな精神てストレスを生むことにもなりますから、人付き合いということに関しても知恵を働かせ、精神的な労働を投資することは大切になります。

 

placeholder

田舎での自給自足ービデオ3

連載シリーズ、田舎暮らしのための意識改革の参考資料として、ぴおちゃんねるで配信しているファームブログのビデオをご紹介しています。アメリカの片田舎での自給自足の生活の一部をご覧いただけます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

placeholder

無責任にキレイごとを言うぞ!

 最近、過去の天才の生き方を研究する中で、彼らの残した数多くの短い格言や名言に触れ、優れた短文のもつ偉大な影響力に感銘を受け、短文作成能力の向上のため、Twitterを再開しました。 
 
 短文の美点でもあり欠点でもあるところは、読み手としては文章のインパクトによる感動が大きいため、その言葉が生み出される背景にある思想信念を深く理解することなく満足してしまうというところだと思います。また、短い言葉で多くを伝えるには、比喩や対比、語呂などの詩的な要素を盛り込まざるをえないため、読み手による解釈の余地が大きくなり、正確な情報伝達は難しくなります。

 しかし、この刹那的な感動と受け取り手の解釈の余地が大きいという点は、音楽の特徴と全く同じですから、短文は、ある種の芸術作品と考えるのが妥当です。詩や短歌、俳句などは、まさに芸術としての短文を追求した形態なのでしょう。

 手始めに、音楽芸術に関するツイートを1日一つあげていますが、短文のため言い切り表現が多くなることで、今の自分には手の届いていない理想や目標も、あたかも自分がすでに理解して実行できているかのような印象を与えてしまう文章になってしまいます。つまり、短文にすると「お前が言うか?」的なツッコミをされそうな綺麗ごとが多くなるのです。

 以前は、このような自分の背丈に合わない綺麗ごとを言うのは無責任だし、何よりもそれは自己欺瞞と虚栄の現れであると考えていました。しかし、現在の自分にできること、できていないことをある程度真摯に自覚できる五十路のおっさんとなった今、理想と現実のギャップを取り沙汰にするような野暮はやめて、綺麗ごとを言ってもいいんじゃないかなと思うようになってきました。完璧を期するあまり、かなり深く理解できていることを、誰とも分かち合わずに死んでしまう方が無責任ではないか、と。

 過去の偉人の名言も、目標とすべき理想を示唆してくれる綺麗ごとだからこそ、勇気と感動を与えてくれるのだと思います。音楽だって同じです。自分は、自分が演奏している音楽と同じ程度の調和と美を備えている存在ではないけれど、そうなりたいという理想の世界を音楽で表現するからこそ、聴くに値する作品となるのではないでしょうか。

 と言うわけで、Twitterではキレイごとを言いますヨ。

 

 

Motoshi Kosako/古佐小基史@motoshikosako 

#音楽演奏 の瞬間に、知識と技能が正しく調和のもとで作用するためには、音楽の進行とともに容赦無く押し寄せる時間の激流に翻弄されないようにどっしりと現在に腰を落ち着け、過去/未来との文脈でやるべきことを冷静に選択できる精神状態を作ることが大切です。

2020年12月01日 07:02

 

Motoshi Kosako/古佐小基史@motoshikosako 

どれだけ頑張っても、一人の #音楽家 が達成できることなどたかが知れています。でも、そのささやかな音楽活動を価値あるものにする秘訣は、#マザー・テレサ が教えてくれています。曰く、「私たちは、大きなことはできません。小さなことを大きな愛をもって行うだけです。」

2020年11月30日 10:05

 

Motoshi Kosako/古佐小基史@motoshikosako 

#感動 を生む #音楽 演奏には、楽器演奏や発声の演奏技術に加え、肉体の動作機能と音印象を生み出そうという意図・意識の連携が不可欠で、武道家やスポーツ選手と同じく、演奏中の雑念を廃し、心技体の統合を深める訓練も必要です。

2020年11月30日 08:30

 

Motoshi Kosako/古佐小基史@motoshikosako 

#音楽家 として、音印象とそれによって呼び起こされる内的な状態の変化との関連を学ぶためには、まず自分自身が聴き手としてどのような反応をしているかを客観的に自己観察し分析できるようにならなくてはなりません。そのためには、余計な知識や先入観を捨てる必要があるのですが、それが難しい。

2020年11月29日 18:35

 

 

 

 

 

placeholder

(連載)田舎暮らしのための意識改革ー(2)シングルタスク型の生活からマルチタスク型の生活へ


 都会生活では、専門とする職業に従事することで、生活に必要な全てのサービスや資源を得るための「万能交換券」である通貨を手に入れます。そして、通貨を全く得られない活動、あるいは専門の職業と同じような効率で通貨を稼げない活動は、趣味や娯楽とされ、それらの活動には、余暇の時間をあてることになります。このように、都会生活では、基本的には、一つの専門業務を高度に遂行できれば、生活するために必要な通貨が入手できるようになっており、社会が現状どおりに機能している限りにおいては、生活は保障されます。そのため、その他の職種に属する知識や技術に関して全くの無知無経験でも、なんの不自由もなく生きていくことができます。これは、社会の一員として専門とする単一の業務にのみ従事していれば社会生活が保障される「シングルタスク」型の仕組みです。

 しかし、利用できるサービスの種類が限られ、質の高いサービスを受けにくい田舎では、家屋などのインフラ整備やメンテナンスに関する大小様々な問題を、自分自身で処理しなくてはならない場面にしばしば遭遇します。実際、そうしないと田舎での生活は不便きわまりなく、結局、その不便さに嫌気がさして田舎での生活をさっさと諦めてしまうことになりかねません。

 しかしながら、様々な分野で起こる全ての問題の対処法を事前に学び準備しておくことは難しいので、問題に直面するごとに、不便を感じながら実践と試行錯誤を通じてその対処法を学ぶことになります。そうしているうちに、都会ではそれぞれが専門化した一つの職業として成り立っているような様々な分野での実務の知識と技術の概要を、おぼろげながらも理解できるようになり、様々な状況への適応能力が鍛えられます。その結果、都会の「シングルタスク型」の生活に特徴的な「他者の知識と技術への高度な依存状態」から、生活の様々なニーズの多くの部分を自分自信で満たすことができる「マルチタスク型」へと転換が可能になります。これには、意識的努力、忍耐、時間と労力の投資、それに失敗の苦しみなどの精神的葛藤を伴いますが、その見返りとしては、自立した生命体として生きてゆく能力が向上し、生きることに関する深い自信を腹の底や脳髄の奥から感じられるようになります。

 都会では、本業が忙しい時に、やったこともないような水道管の修理や屋根の修理を自分でやってみようと考えることは稀です。そもそも、そんなことをする時間的ゆとりも労力もないし、普通は道具だって持っていません。本業で稼いだお金を使って、業者に依頼して問題解決をしてもらうのが最も賢い選択です。何が起きても、本業が収入をもたらしてくれている限りにおいては、それに専念していれば業者を雇える金があるので、全く問題ありません。

 しかし、田舎では、サービスの提供を必要な時に受けられる保障もありませんし、そもそも、本業が大きな収入に結びついていないことも多く、業者を雇う金銭的なゆとりのない場合も多々あります。これは、とても不便な状況ではありますが、必要は発明の母とも言われるように、シングルタスク型生活からマルチタスク型へと転換するプレッシャーとしては、むしろ望ましい状況です。DIYで様々な課題を自力で解決する努力をしばらく続けていると、いろんな分野での問題解決能力が鍛えられ、対応力も作業効率も向上しますから、結果として生活での出費を節約することにもつながります。

 マルチタスク型の生活で様々な仕事を経験すると、何事においても楽で簡単な職業などなく、特に一流のレベルまでマスターするとなると、その難しさを身にしみて理解できるようになりますから、分野に関わりなく顧客のために常に間違いのない仕事を提供するプロとしてビジネスを成り立たせる専門家を、心から尊敬するようになります。しかし同時に、自分自身のニーズをなんとか満たす程度のサービスを提供できるレベルに達することは、実はそれほど難しくないことも分かってきます。もし失敗したら、後から直せばいいし、不完全でも、後でフォローアップし、そういう試行錯誤をしているうちに、ある程度の仕事はできるようになってくるものです。特に、現代はネットで文書、写真、動画、イラストなど様々な形態の情報が瞬時に手に入りますから、意識的に情報収集し、それを注意深く実践に移すことで、実に多くのことを学ぶことが可能になっています。

 このように、マルチタスク型の生活で、様々な仕事を少しずつでも経験してみると、「職業に貴賎はない」という真意がより深く理解されます。社会に必要なあらゆる職業の専門性の価値にランク付けをし、収入という単一の価値観で安易に人の価値を判断する現代社会の傾向は、シングルタスク型の生活をしているからこそ起きてくるのではないでしょうか。このような気づきを得ることで、田舎の移住に伴う収入減と社会的ステイタスを失うことに「都落ち」という悪いイメージを抱いてしまう都会的な価値観から解放され、田舎での生活の本当の価値を実感できるようになります。