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こんな時だからこそファーム

 音楽業界は、このコロナ騒動で真っ先に全面停止してしまったため、今は収入に結びつく演奏の仕事はありません。それでも、外出規制や物品の買占め、医療崩壊の危機の渦中にある大都市から遠く離れたファームに暮らしていると、ある意味、暮らしは安定しています。ニワトリはいつも通りに地面をつつき、ヤギものんびり草を食み、野菜もすくすくと育っています。食料もまあまあ自給できるし、普段から気楽に買い物に行ける場所ではないので、生活必要物資は常時ある程度備蓄してあり、水も井戸、下水も敷地内で独立処理しているので、7日〜10日に一度買いものに行けば、それほど急に暮らしに困ることもない。

 平時には、何の社会的価値もない自給自足田舎ファームですが、こうなってみると、ファームは社会的な要因での危機には強い。そう実感しています。この自給自足ファームの強靭性が、アメリカ人のこだわる自由と個人主義の根源にあるのかもしれません。開拓時代の政府は、広大な国土に散らばる個人を手厚くケアすることができなかったため、皆が各所で自衛も含めて自給自足をすることで、それに対応していたと考えられます。そのような状況下で、個人の自己責任による判断と行動が尊重される国民性が養われ、それが自由精神と個人主義を形作ったのではないでしょうか。
 
 パンデミックが終わっても、これから訪れる経済危機により、アメリカでは食うや食わずで家を失いホームレスになる家族も続出することでしょう。そういうときに、「困った時には、うちのファームに来てください。ファームを手伝ってくれるのであれば、仮の住まいと日々の食事を提供します。」と胸を張って言えるようになりたい。そういうファームがたくさんあれば、緊急事態の社会のセーフティーネットとして、立派に社会的な役割を担うこともできます。すぐには無理ですが、いつの日か、このファームをそんな場所に発展させたいと心から思うようになりました。

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"Amazing Grace"自宅待機が続いているので、自宅でいろいろビデオ撮ってます。

夏までコンサートはキャンセル/未定の状態で、しばらくコンサートで生演奏をする機会がないのですが、自宅で録画しながら演奏すると、むしろコンサートよりも高い緊張感を持って演奏することができます。この演奏は、アメージンググレースのテーマに沿って、全てを即興演奏しています。一刻も早いコロナの収束を願って…。

 

 

 

 

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生きる覚悟とは?

 新型コロナウイルスの流行によって、少なくとも一時的には世界恐慌の可能性が濃厚となり、音楽家としての活動のあり方も、根本的に見直す必要に迫られています。戦争や災害で全てを一瞬で失うことを想像すれば、今経験している変化は緩やかなものですから、これまで本当に命がけで日々生きてきたのであれば、屁でもひるように楽々と対応できてしかるべきものです。しかし、この程度の変化を迫られただけでも、焦ってオロオロと取り乱し、ともすると落ち込んでしまう自分を見ると、つくづく命がけの覚悟を持って生きていなかったことを思い知らされます。

 2005年のハリケーン・カトリーナ、2011年の東日本大震災、2016年の熊本大地震、2018年に故郷愛媛を襲った大豪雨災害など、身近に感じていたつもりだたのですが、やはり対岸の火事としてしか見えていなかったのかもしれません。

 ここ北カリフォルニアの内陸山間部も、災害の多い地域です。1997年にこちらに移住して以来、この近所でも、大小合わせると3年に一度くらいの頻度で火事が起きていて、1998年と2018年の山火事では、道路封鎖で立ち入り禁止の措置が取られ、3日間ほどこの地域が孤立しました。特に1998年の火事の被害は甚大で、妻は前の結婚相手が出張中に家財を全て焼かれ、赤ちゃん二人を抱えて身一つで避難したそうです。2017年の豪雨によるオロビル・ダムの決壊の危機に際しては、ここは高地のため避難をせずに済みましたが、下流住民18万人に強制避難命令が出る非常事態でした。大雪、嵐の脅威なども、ここで暮らすものの覚悟としてすでに織り込み済みで、1週間以上電気が止まったり、雪に閉じ込められて孤立しても、その間生きていけるだけの準備はしています。

 このような天災によってもたらされる苦難だけでも精一杯なのに、テロや戦争、競争相手を破綻させて自殺や失望に追い込む資本主義的サバイバルゲームなど、罪に問われない人災はもっと大きな規模で繰り広げられていて、いつその脅威に巻き込まれるか分かりません。それらに加え、遺伝子組み換えや農薬、化学肥料による食品の安全性の問題、現代的なライフスタイルによる生活習慣病、医療の進化に伴い耐性を増し進化するウイルスやバクテリア、環境破壊による環境毒性の上昇、気候変動など、個人の生命と社会の存続を危ぶませかねない要因はたくさんあります。

 このような状況では、現在当たり前に皆が依存している社会システムが機能麻痺となるシナリオは無数にあるため、どれだけ対応を準備をしても、完璧を期することは不可能です。たとえ社会全体が問題なく機能し続けていても、個人の身に降りかかる災厄というのもあります。たとえば、何かの事故で手の機能を失う、指を欠損するなどの事態が起こると、命を失うことはないとしても、ハープ演奏家としての生命はほぼ断たれてしまいます。病気、不慮の事故など、気をつけていてもそれらが起こる可能性を0にすることは不可能です。

 それらに対して完全に準備ができないとしたら、そのリスクの中で生きていく覚悟を決めるしかありません。自分としては、音楽家として生きてゆくことができなくなる状況になった場合に、一人の人間としても生きる望みを放棄してしまわないように、人生の目的や価値をハープ演奏家としての活動の周辺に集約させないように心がけています。

 自給自足ファームでいろんな分野のことを満遍なくやるライフスタイルを選択している一つの理由は、自分のアイデンティティーを特定の肩書き「ハーピスト」に集約させないためです。そうすることで、音楽に関わる枝葉末節の技能だけでなく、様々な活動の大元にある内的な能力、つまり感情の感受性、知性の考える力、肉体の適応力と強度、そしてそれらを統合する意思や意識、良心などの霊的な機能という、脳が破壊されない限り外的要因によっては奪われないもの、つまり、より本質的な人間としての資質の開発という目的を軸に、どのような状況にあっても生きる意義を見出すことができます。

 自分の意思ではどうすることもできない災害などの外的な要因によって失われてしまうものは、結局のところ、本当の意味では自分の所有しているものではない。そう考えれば、何かを失うことへの恐怖は随分と小さくなります。最後まで残るものは、自分自身の心のあり方。生きる覚悟とは、死ぬことを覚悟するのではなく、最後まで自分自身のあり方を護り抜く覚悟なのかなと思っています。

 

 

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KoMaGa TrioでのCD制作に向けたクラウド・ファンディングも残すところあと1週間!

KoMaGa trioのクラウド・ファンディングのキャンペーンもあと6日を残すこととなりました。目標の9000ドルに達成し、ファンドは獲得することができましたが、音楽活動が制限されているこの時期、皆さんからのファンドは大きな助けとなります。クラウドファンディングは寄付ではなく、先行オーダーでサービスや物品を購入するという形に近いですので、損はさせません!このバンドに興味のある方は是非ご参加下さい。

古佐小基史:ハープ/作曲

マイケル・マンリング:エレクトリック・フレットレス・ベース

クリス・ガルシア:タブラ、パーカッション

現在、各メンバーがバラバラに録音をして、あとでそれをミックスするという手法のリモート・レコーディングを行い、コロナ騒動の中でも着々と制作を進めております。この手法だと、田舎に住んでいてもレコーディングに参加できるので、田舎暮らしの音楽家の方、海外のアーティストとのコラボをしてみたい方にはオススメの方法です。

 


 

 

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今、凡人にできることは?

 大量破壊兵器を世界中の大小様々な国が持ちたがり、環境問題は人類のコントロールできない様相を見せ、生きてゆく上で最もベーシックな水や食料の安全性を犠牲にしてまで経済性が優先され、物は捨てるほど有り余っているにも関わらず、世界のいたるところで貧しさが蔓延し、知識と情報が際限なく氾濫する中で、人にとって本当に大切なことに関しては無知が進んでいます。それに、今回のCovid-19のパンデミックで露呈した現代社会の構造的な脆弱性。そんな中で、「なんだか、世の中けっこうヤバいよなあ」という漠然とした危機感を抱いている方も大勢いるのではないでしょうか?

 

 しかし、その危機感もそれほど切羽詰まったものではなく、「なんだかんだと言いながらも、今日も旨い物食えたし、それなりに楽しいこともあったし、まあ、それほど大袈裟に考えなくても大丈夫なんだろうよ」という風に、「ヤバい」感じを黙殺し、何を変えるということもなく、日々過ごしてしまいます。まれに、身の回りで起きたことや話題のニュースがきっかけとなり、「ヤバい」という感覚がひときわ強く感じられることもありますが、それでも、「騒いだところで、自分のような凡人にできることは何もない。きっと、素晴らしい思想や政治力で世の中を変えてくれるようなリーダーが現れて、そのうちになんとかしてくれるだろう。」と自分では何もやらないことを正当化しつつ、来たるべき救世主にすべてを押し付け、尻をまくって責任放棄をしてしまいます。結局のところは、現在の生活習慣や人生観、価値観を見直して、世の中の改善に貢献できる新たな生き方を模索するのは、非常に骨が折れることなので、できれば自分では何もしたくないのです。そのかわり、平凡な自分とは違う素晴らしい能力を備えた少数の選ばれた救世主が、世界を大改革をしてくれることを期待しています。

 

 このような当事者意識の欠如した立ち位置は、一見すると自分を平凡と認めていることで謙虚さを装っていますが、実際のところは、謙虚さを隠れ蓑にした怠慢です。平凡だろうが非凡だろうが、それぞれが進めるだけ進まなくては、何も変わりません。天才一人が1000歩進めるよりも、凡人1000人が一歩ずつ進める方がずっと効率的です。エイブラハム・リンカーンは、「神は凡人を最も愛されているに違いない。そうでなかったらこれほどたくさん凡人をお作りにならなかっただろう。」というようなことを言ったそうですが、まさに凡人は数の上では天才を遥かにしのいでいるので、凡人たる個人が、自分の環境と能力の許す範囲でできることをすることによってこそ、世の中全体が大きく変わるのだと思います。

 多くの人類が「ヤバい」という感覚を覚えるということは、大勢の優れたリーダー的立場の人物がその危機感を積極的に発信し始めているからであるとも考えられます。身体の不快症状が、体が疾患による異常を警告してくれているサインであるように、多くの人類が世の中のあり方に不安という「不快症状」を抱き始めたということは、そこに対処すべき何らかの疾患があるからに他ありません。

 

 人体の場合、具合が悪くなるとまず働くのは病巣部の細胞や免疫機能です。そして、脳が不快感や具合の悪さを認識すると、脳が身体全体としての対応策を考え、必要な治療行為を施したり生活習慣を改善したりして、具合の悪い部位が自らを修復しやすい体内外の環境を整えようとします。それでも、最終的に自らを修復するのは、病巣部にいる当事者の細胞達です。世の中も同じように、優れたリーダー達は、社会構成員が自らのあり方を改善するために必要な社会環境を整えてくれるかもしれませんが、実際に変わらなければならないのは社会構成員自身、つまり我々凡人達です。

 

 では、個々がどう変われば良いのか?

 

 それは、おそらく外から明確な答えを与えられることはなく、一人一人が当事者として問題と向き合い、皆がそれぞれに自らの手で答えを見出してゆくものだと思います。

 

 

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コロナの自宅待機で、ハープのYouTubeビデオシリーズを始めました.

コロナで演奏活動も休止中ですので、ハープの最先端の技術と演奏スタイルを紹介するHarp Explorerシリーズを週一回でアップし始めて、今回で7回目。ハープ人口の少ない日本向けに日本語で発信してもあまり見てもらえないと思いますので、英語での配信をしています。クラシックでは見ることのないハープのテクニックの解説と、実際の曲の演奏のセットで10〜15分くらいのビデオです。

撮影も自給自足。田舎に住んでいながらでもネット配信はできますからね。

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都会から田舎への移住に伴う意識改革(9)提案8:時計の時間でなく自然の流れに沿って生活する

都会から田舎への移住に伴う意識改革(9)
提案8:時計の時間でなく自然の流れに沿って生活する

 都会の生活では、季節による日照時間や温度の差異は、電灯とエアコンなどのテクノロジーによって均一化されているため、年間を通じて生活のペースをほとんど変えないまま、時計を基準として毎日のスケジュールが組み立てられています。

 社会全体の生産効率を考えると、このように、全ての基準を時計に集約し、年間を通じて同じペースで働くことが合理的です。特に、農林水産業などの季節の変化とともに仕事の内容が著しく変化する第一次産業に従事する人口比率が低い先進国型の社会においては、季節による変動を社会全体に反映させる必要性は小さいですから、この傾向は強化されることでしょう。
 
 しかし、普通の動物は、自然の流れの中で、それに合わせて活動リズムを変化させつつ生きていますから、人工的な時計とカレンダーに従って生きている人類は、体に多少の無理をさせつつ生活しています。田舎で長年暮らしていると、それが現代人のストレスや健康不良の一因となっているのではないかと感じられます。

 都会では、「夜、あまりよく眠れない」とおっしゃる方によく出会いますが、それも無理からぬことだと思います。都会の夜は、屋外でも本が読めるほど明るく、家の中も寝る直前まで隅々まで電灯に照らされ、しかも目の前にはテレビやコンピュータ、スマホのスクリーンが光かがやき、その中では活発な世界が24時間休みなく展開しています。自然に囲まれた田舎に住んでいても、コンピュータやスマホでの作業が多くなると、自然のペースに合わせて生活することは難しくなりますから、都会ではなおさら、電子機器で作業する時間帯には気をつけたいところです。

 田舎のファームでは、屋外で作業をすることが多いため、生活パターンが日照と天候によって大きく影響されます。一般に、雨天時や日没後にできる屋外作業は非常に限られていますから、作業の内容とペースを季節に応じて変化させ、天候と日照時間合わせて調整する必要があります。夏と冬の気候の差が極端なカリフォルニア内陸部を例にとって、季節による生活パターンの変動を見てみましょう。

 概して晴天が少なく日照時間も短い冬には、その限られた時間内に効率よくハードに働き、残りの時間は屋内でのんびりと過ごすというペースになります。また、気温が低く、重労働をしても体力の消耗が少ないので、短期決戦型のハードな仕事に向いています。しかし、雨がいつ降るかわからないために、着工から完成までに何日もかかるような土木建築作業をすることは難しく、道具や資材なども、作業が終わったら毎回全てを濡れない場所に片付けておく必要がありますから、冬には「効率が良く最後まできっちりとした仕事をする」ことが強いられます。

 一方、日照が長く雨の降らない夏には、涼しい朝と夕方の時間帯を中心に働いて、暑い午後の時間帯は、屋内や日陰でのんびり休息するパターンなります。長期を要するプロジェクトに向いていて、道具や資材をそのままにして何日間も持ち越せますし、作業可能な時間はたっぷりとあるので、ダラダラ仕事をしても大丈夫です。35〜40度の猛暑の中では、どちらにしてそれほどハードには働けないので、むしろ休みながらダラダラと働かないと、暑い夏を乗り切ることはできません。スペインや南イタリアなどでは、昼食時に飲酒をしながらランチを腹いっぱい食べて、夕方までお店や仕事を休んで「シエスタ」と呼ばれる昼寝タイムをとる習慣がありますが、北カリフォルニアの夏も、シエスタ的な長い昼休みのある生活リズムが適しています。

 このように、1年を通じて夏と冬の気候条件の差が大きな北カリフォルニアの自然環境の中で働いてみると、季節に合わせて働くペースを大きく変えることが、人体にとってごく自然な環境への適応であると感じられます。

 一般に、常夏の赤道に近い地域では、社会全体にのんびりムードが漂い、自分のペースでチンタラと働く傾向があり、高い緯度の冬が厳しい地域では、生産性効率の高い社会がきちんと組織化され、全体のペースに合わせて真面目に働く傾向が指摘されます。このような地域差は、夏と冬の差異の大きな北カリフォルニアでの生活で季節によって生活のペースが変動するのと同じく、環境への適応の結果であると思われます。

 注意深く自己観察を行うと、季節に応じた生理的な変化も感じられます。日照の長い夏には、睡眠時間が減って運動力が増えるため、体は絞られて体重は減少します。逆に、日照に短い冬には、睡眠時間が増えて運動量が減り、体重はやや増加傾向になります。

 夏は、朝5時にはすでに明るくなりつつあり、暗くなるのは夜の8時以降。朝夕は涼しくて活動に適した条件が揃っているので、早起きをし、正午からの数時間はのんびり過ごし、再び夕方から暗くなるまで活動をするのがもっとも快適なパターンです。時計を気にしないで1日を過ごすと、だいたいこのようなパターンになっていきます。

 冬には、朝7時でもまだ暗くて寒いので、外に出て活動を開始するのは朝8時ころ。夕方4時頃にはすでに薄暗くなり始めるので、道具の片付けや作業の後始末を始めて、暗くなる5時頃には屋内に戻ります。人体は、日が暮れてからある一定時間が過ぎると眠たくなる仕組みになっているようで、9時にはかなり眠くなり、シャワーやその他の就寝準備をして、10時半ころには就寝。

 本来は、このように自然の流れに従って生活のペースを変えることが良いのだと思います。さりながら、テクノロジーを活用した環境のコントロールにも利点があって、寒さや暑さ、雨や風、強い日差しや日没後の真っ暗闇などの様々な自然の脅威を緩衝し、より安定した生活環境を提供してくれます。ただし、自然環境からどの程度の距離をとるかということ関しては、バランス感覚が必要です。自然からの距離が広がれば広がるほど、自然の変動に適応する能力は低下し、生存のためにさらに自然からの距離を広げなくてはならなくというスパイラルに陥っていきます。

 田舎での生活では、このバランス感覚を養い、テクノロジーを上手に活用しながらも、人本来の生活リズムのなかで生活するように心がけたいものです。

 

 

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音楽の探求とそこで出会う奇跡

 科学的探求は、主に外界を感知する機能と思考機能を用い、観察と論理的な思考に基づいて現象を理解しようとする試みです。一方、哲学的・宗教的探求は、主に内面を感知する機能と感情機能を用いて、直感的に現象を理解しようとする試みです。音楽の探求には、この両方のアプローチが必要です。

 

 音楽の探求の対象は、美と感動です。作曲理論の研究やすでに名曲として評価されている作品の分析で、それなりに美しい音楽を作るために必要な知識と技術は手に入ります。しかし、この方法のみでは、「感動」を生む力を手に入れることは出来ません。

 

 ある程度音楽家として研鑽を積み、鑑賞者としても音楽の美と感動を味わい、優れた印象を嗅ぎ分けることができるようになったら、他人がどう思うか、一般的な音楽理論と照らし合わせて自分のやっていることが正しいかどうかなどの外に基準を置いた評価とらわれることなく、自らの直感に従って今の瞬間に出すべき音を見出す努力をすることが大切になります。このような努力の結果、自分自身が感動できるような音楽が自らの内から生み出された瞬間には、喜びと同時に、驚きを覚えます。そこでは、音楽を生み出した源泉は、実は自分自身ではないのではないかという奇妙な感覚を伴っています。むしろ、実際には何も生み出されていなくて、何かの拍子にでそこにすでにあったものにアクセスできたという感覚で、必然に導かれた偶然予想外の出来事に驚いてしまうのです。

 

 まるで、自分自身の意識と意志が、宇宙全体を司る大きな意識と意志(神と呼んでも良いのかもしれませんが..)につながっていて、そこにアクセスすることで自動的に何かが生み出されるかのようです。例えるならば、自分はちっぽけなコンピュータの端末にすぎず、そこからアクセスできる情報の大元は別にあり、方法さえ知っていれば、無限といえるほどの膨大な量の情報に自由にアクセスすることができます。

 

 これは、ナルシスト的に自分の主観的なものの見方に陶酔する、いわゆる「[芸術家肌」のアプローチとは真逆で、思い込みやこだわり、権威や知識から自由になり、できるだけ無垢な内的状態で芸術に向かい合うという努力です。このような努力を続ける結果、まれに、レオナルド・ダ・ビンチの絵画やバッハの音楽で経験されるのと同様な感動を生む表現を見出し、驚きを感じることもありますが、そのような時でも、「どうだ、オレ様はすごいだろう」とエゴを膨らませて傲慢になることもなく、むしろ、客観的な美が顕現するための媒体となれた幸運に感謝する気持ちが湧いてきます。

 

 毎日代わり映えしない、しがないおっさん芸術家の地味な日常です。朝から晩まで働き詰めで、貧乏暇なし。もう50歳になろうかという歳でも、有名でもなく、大きな演奏の機会もほとんどなく、レコードが飛ぶように売れるわけでもない。このまま、芸術家としては地味な人生を送り、最後は人知れずこの世を去ることになるのでしょう。

 

 しかし、このちっぽけな自分が、実は宇宙全体とつながっている小宇宙である。そして、この小宇宙を通じて大宇宙の神秘的な創造のプロセスを経験することができる。このことを思い起こしてみると、こうして普通に存在していること自体が、すでにありえない奇跡だと感じられます。実生活の様々な問題に振り回されて文句や愚痴ばっかり言っている時には、この大切なことを忘れてしまっています。そんなことではいかんと思っても、実生活の荒波の中では、奇跡への感謝と新鮮な驚きを保つことは、本当に難しい…。そんな時に、優れた芸術作品や思想に接すると、人が宇宙と繋がっていることを思い起こさせてもらえます。それゆえに、芸術が、人間生活にとって掛け替えのない存在となっているのだと思います。

 

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音楽における明暗

 人間は、オクターブ、ドからソ、ドからファ、ドからミ、ミからソなど、振動数の比率がより単純な整数の比になっている二つの音からなる和音を、「澄んだ音」と感じる一方で、ドからレ、ドからシ、ミからファなど、約分して小さな整数比にならないような二つの音からなる和音を「濁った音」と感じる聴覚を与えられています。「澄んだ音」「濁った音」を区別する能力は、視覚に喩えると光と影のコントラストを捉える能力に似ていると思います。優れた絵画は、色彩と明度のコントラストの調和によって視覚印象を造形しますが、音楽では音色と和音のコントラストにより音印象の構造物を構築します。

 

 大自然の中でも、生と死、成長と衰退、進展と停滞のような相反する力が、調和のもとに運行することにより、今目の前に広がっている自然の美しさが体現されているのです。きれいな、澄んだ音だけでは、音楽の美は生み出すことができません。明と暗、澄んだ音と濁った音が、調和の中で共存することで、音楽の美も生み出されるのです。

 

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健康とは?主観的で非科学的な健康論:音楽家の視点からの提言

 

 国家から保健師/看護師の免許をいただいている身としては、「客観的」で「科学的」な健康論を語るべき立場にあるのですが、今日はあえて音楽家の立場から「主観的」で「非科学的」な健康論を述べてみたいと思います。

 

 近代以降、音楽理論なるものが確立され、音楽が学問としても扱われるようになりました。大学で音楽を専攻し、学位を取得することも可能な時代となり、楽器の演奏に加え、読譜法、音楽理論、オーケストレーションなどを体系的に習得することが、もっとも正当でアカデミックな音楽との関わりとされています。しかし、アカデミックな理論に照らし合わせて「正しい」と定義される音楽であっても、それが必ずしも「良い音楽」とはなりません。音楽を聴いて「いいなあ〜!」と感じられるためには、それを生み出している聴き手に「感動」という主観的な現象が起きていなければなりません。作り手の立場においては、音楽を単なる音の組み合わせを超えて芸術へと昇華させるためには、自分の内的な世界と音楽として表出された音の世界を統合的に意識し、主観的な「感動」という「感じ」を経験しながら音楽を生み出していることが必要になります。

 

 長年音楽と関わるうちに、音楽が芸術に昇華するプロセスと、人体が健康体に昇華するプロセスには共通点があると感じるようになりました。音楽や人体自体は、科学的な立場から、物理/化学現象として客観的に把握することができますが、それだけでは把握できない「何か」が加わって、芸術や健康体への昇華が起こっていると思えるのです。そもそも、芸術性や健康というものは、自然界全体にとってさほどの意義はなく、人間にとってのみ意義のある特性です。とすると、科学で把握されない「何か」とは、人間自身の主観的な意志と意識ではないのか?そんな思いつきから、一つ文章を編んでみます。

 

 本来、健康とは、検査データや第三者であるドクターの所見で「客観的」に健康と判断されることにより定義されるようなものではなく、当の本人が、体内感覚、自己意識を通じて自らの感情機能、生命維持機能、思考機能、動作機能の全てが自分の意志と連動して十全に働いていることを自覚し、「あ〜、今日も元気だ!」という「主観的な感じ」により捉えられる心身全体の総合的な状態だと思えるのです。つまり、健康の本筋は、第三者によって科学的な手段を用いて客観的に描写される部分的な心身の状態に関するデータではなく、自己意識や体内感覚などのモニタリング機能により全体像として把握された複合的で主観的な「感じ」にあると考えています。

 

 自己の状態をモニタリングする機能は、身体中に張り巡らされた神経系と血管系によってネットワークされ、脳という中枢により統合され、それは、いかなる検査機器よりも高い精度で、自分のこころ、からだの状態を身体感覚や感情を通じてリアルタイムで自己(脳、意識の統合機能)にフィードバックしてくれています。これほどの精度で自分のこころ、からだを常時モニターリングできる機能が備わっているということは、不調や異常を察知した時には、それを改善するためになすべきことを本能的に判断できる能力、すなわちある種の自己調整/治癒機能も備わっていると考えるのが自然ではないでしょうか。そして、そのモニターリング機能と自己調整/治癒機能の精度が、肉体の老化とともに減退し、ある時点で生命維持ができなくなり死を迎える…。

 

 もしこの仮説が正しいとすると、ほとんどの病は、生活に大きな影響を及ぼし始める前に自己調整機能によって自然治癒できてしまうことになりますが、実際には、これだけ科学が発展して生活が豊かで便利になったにも関わらず、医療費で国庫が破綻寸前の状態になるほど病が蔓延しているわけですから、この仮説は誤りであるという論理も成り立ちます。しかし、もしこの仮説が正しいという前提から考察を出発すると、現代人の生存のあり方自体が人類としての自然な生存のあり方から逸脱しているために、モニターリング機能と自己調整/治癒機能が機能不全に陥り、そのために病が蔓延しているという論理も成り立ちます。

 

 ここでは後者の論理に立ち、考察してみたいと思います。

 

 個人的かつ主観的な経験として、意図的に自己意識を高めようとする内的努力をしながら、できるだけ自然に近い生活環境に身を置くことで、自己モニター能力が向上し、心身の異常のサインを早期に捕捉し、的確な予防と治癒のための行動を選択できる能力が高まるという実感を持っています。例えば、体が欲している食品への食欲を感じる、心身の状態に応じて姿勢の調整、体遣いの調整、呼吸の調整などが的確に選択できる能力が高まる、など…。おそらく、ヨガや気功などを実践している方は、これに似たような自己検証をお持ちでないかと思います。

 

 ほとんどの現代人が人生のほとんどの時間を過ごしている都市環境では、外からの刺激への反応と外向きの活動に注意力が向けられる状況が多く、自己の心身をじっくりと感じる時間が著しく少なくなる傾向にあると感じています。このような自然から乖離し、自己と向き合う時間の少ない環境では、自己モニタリング能力と自己調整/治癒能力は、本来あるべきレベルよりもかなり低いレベルで機能していると考えています。

 

 また、現代生活では、様々な科学的な検査、診断、治療など、第三者である医療者による客観的知見と介入が、健康的な生活を保障する上で「不可欠な要素」とされていて、社会全体での健康を考える場合には、真っ先に医療の発展と医療サービスの充実が議論されます。しかし、健康を維持するために第三者による介入が不可欠であるというような状態が、果たして人類のあるべき姿なのでしょうか?

 

 生命体として、自己の健康管理に第三者の介入を必要とする度合いが高くなれば、それだけ独立した個体としての生存力は低くなるわけですから、高度な医療にこれほどまでに依存している現代人の人体が、これまで生命体として地球環境で生き抜き、ここまでの発展を遂げた人類の本来あるべき機能を十分に発揮している状態にあるとは、とても考えられません。

 

 作曲や即興演奏の創造的力の源泉は、音楽家が抱く主観的な「感じ」そのもので、理論や知識はそれを形にする上での便利な道具にすぎません。ある仕事のために特別に誂えた便利な道具がなくても、その代用になる何かを使ってそのことをやるのが可能であるように、楽譜が読めなくても、音楽理論を知らなくても、それらの技術は単なる道具であるがゆえに、良い音楽を作る上で致命的な欠陥になることはなく、的確に働く音楽的な感覚とそれと連動する運動機能と、それをサポートする自分なりの方法論さえあれば、良い音楽を作ることは可能なのです。もちろん、そこに読譜能力や音楽理論などの一般化された「より客観的な知識」が加われば、「鬼に金棒」となるわけです。

 

 健康という状態に到達しようとする動機の源泉も、やはり自分自信をモニターすることで得ている「感じ」にあるのではないでしょうか。その健康な「感じ」から逸脱しないように、食習慣、行動習慣、精神活動のあり方、感情生活のあり方などを、自分なりの方法で本能的に的確に選択しているからこそ、健康な状態で生存できると思えるのです。そこに、第三者による客観的な所見や治療が「金棒」として加わることで、自己治癒力の範疇を超えた重篤な病、外傷、有害物質への被曝、伝染病など、健康を害する様々な外的要因にも対応できるようになり、より完全な健康を維持できる可能性が高まります。ここでは、あくまでも自己自身の「感じ」が健康生活のための主役、つまり「鬼」となり、第三者の客観的知見や介入は脇役、つまり「金棒」にすぎません。

 

 しかしながら、平均的な現代人の健康との位置関係は、この主客が入れ替わっています。つまり、金棒が鬼よりも重要視されているために、「自分では自分の健康状態を知ることはできない」「病になってしまったら、自分では治すことはできない」という前提で自分の健康と関わっているために、自己の感覚を導き手として自発的に生活習慣の改善や予防、早期対応に取り組むことないまま、生活に支障をきたすまで疾患を悪化させてしまい、そこからの治療は第三者任せ、つまり「先生にすべてお任せします」「とにかく治してください」という受け身の態度で医療機関にかかってしまいます。

 

 農家では、果樹に病気が出た場合などに、アドバイザーに相談することがあります。アドバイザーは農場に常駐しているわけではありませんから、自分が関わるワンポイントの短期間でその問題を解決できる方法を選択します。その場合、例えば、罹患した木をすべて伐採してそれ以上の拡散を防ぐ、化学薬品を散布するなど、短期間で根治的に問題を取り除く方法を提案せざるを得ません。この場合、農場主はせっかく育てた木を根こそぎ失うリスク、化学薬品による土壌の汚染などの副作用も覚悟しなくてはなりません。しかし、そこに長期間関わることにできないアドバイザーとしては、自分が責任を持てる範囲で問題を解決するための最善の選択をしたことになります。

 

 一方で、農場主自身がじっくりと腰を据えてある程度の長期的ビジョンで問題を解決しようとする場合には、自己責任で試行錯誤を覚悟した上で、こまめに罹患した部位を切除する、果樹の抵抗力を高めるために土壌の栄養状態を改善させる、微生物環境を整えるなど、短期で劇的な効果は期待できないけれでも、継続的に続けることで緩やかな改善が期待できる方法を選択することもができます。あるいは、そこにいて毎日しっかり果樹を観察し世話をできる立場であれば、病が病として顕現する前に予防や早期治療の対応が可能となり、そもそも病に至る以前に問題を解消できるかもしれません。

 

 健康との関わりにおいても、自分が「人体」という農場の農場主であるという自覚を持ち、家畜や作物の健康を維持するためには何が必要であるかを日々研究し、長期的なビジョンで家畜や作物が健康で育つ農場を運営したいものです。そして、問題が発生した時には、アドバイザー(医師)は立場上短期的に確実に問題を解決できる方法を提案する立場にあることを認識して、アドバイザーに治療を丸投げすることなく、健康を取り戻すための意思決定と行動に対しては、しっかりと自己責任を持つことが大切ではないでしょうか。 

 

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都会から田舎への移住に伴う意識改革(8)提案7:自分自身を知る

 

 都会生活に見切りをつけて田舎に移住する場合、注意しなくてはならない落とし穴は、住む場所を田舎に移すというだけでは、都会で感じていた欲求不満や憤懣が解消されないということです。おそらく、多くの方が「自分が都会の生活には合っていない」あるいは、「都会生活で経験する人間関係や生活上の制約などにうまく適応できない」という強い自己認識を経験し、田舎に住んでみようという決断に至るのだと思います。これは、自己知においては、大きな一歩ではあり、都会を離れるにあたっては非常に大きな努力をすることになりますが、これはほんの入り口にすぎません。移住すること自体に満足せずに、これまでの人生で知らず知らずに形成されてきた人格や反射的な思考パターン、これまでの生活環境で身についてしまっている行動パターンや習慣を知り、それらが自己の本質と乖離しているのか、あるいは近いものなのかを判断して、それらをできるだけ本質に沿うものへと自己改革する必要もあります。そうしないと、結局、都会でも不満を感じ、かといって田舎の生活もやっぱり物足りないということになってしまい、場所は変えてみたけれど、全く期待はずれだったということになりかねません。

 都会から田舎への移住は、「都会からの脱出」という側面と「田舎での新しい生活への挑戦」という両側面があることを覚悟することは大切です。そして、それは本当の意味で自分を深く知ろうとする努力への始まりでもあります

 「自分は一体何をしたいのか、よく分からない。」という感覚は、おそらく皆が人生のどこかのステージで経験することだと思います。仮に、人生における大きな理念と目標を見出すことができたとしても、日々の生活の中で小さな決断を下す際には、目先の利害や一時的な感情に流され、理念とは全く反する判断や言動をしてしまうことも稀ではありません。本当に自分が何をしたいのかを知り、そこからブレない確固たる自己を持つということは、それほど簡単なことではありません。

 自分自身を知るためには、自らの感覚と感性を用いて、自己観察を続けるしか方法がありません。カウンセラー的な第三者からのアドバイスや、占星術、数秘術、前世占いなどで示唆されることを参考にすることもできますが、それらはあくまでも補助的な自己知への手段にすぎません。直接に自分自身を知ることのできるチャンネルは、自分自身の内部で機能している感性と感覚しかありません。
 
 「古佐小基史」と名のついた人体と48年も一緒に暮らし、特に大きな不都合もなく毎日を生きているので、つい、「自分自身を知ってコントロールしながら、思い通りに自由に生きている」という感覚を抱いてしまいます。しかし、実際に日々の言動を決断する中では、本当の意味で、常に自己の目的意識と理念に沿った選択をできているかというと、正直なところ自信はありません。ほとんどの場合は、半分眠ったような状態で、いい加減な決断をしていて、大きく理念から外れるわけではないけれども、それに向かって最短距離を選んでいるとはとても言えないようなお粗末な状態です。車の運転に喩えるならば、左右のガードレールにガンガンぶつかりながらも、なんとか道路を外さずに走っているような状態で、決して車の能力を最大限に生かして、高速車線をぶっ飛ばしているわけではありません。

 仕事、健康、人間関係など、人生のあらゆる場面で遭遇する様々な問題は、実は、「自分自身のことをあまりよく知らない」「自分は本当には何をしたいのかよく分からない」「自分を思い通りに操ることができない」ということが根源的な要因となっていると考えています。

 現代的な社会生活をしていると、「自分自身を深く知る」ということよりも、社会に適応するために必要な情報や知識を学ぶことを優先させる傾向にあります。社会的な地位を築くためには、社会的に有利な職業や仕事の選択できるように勉強や技能習得の努力をし、それに自分を合わせていけば目標が達成されますから、自己知への努力を優先させる必要ありません。むしろ、自己知などという、その獲得にはやたらと時間と労力を要する割には成果がすぐに現れない面倒なことにかかずらわらないほうが、地位や収入などの外から見える成果を得るためには、近道です。しかし、「ステイタスの高い仕事」や「高額収入」「生活の安定」など、子供の頃から刷り込まれている社会的な成功者の立場を手に入れても、自分の本質に合わない職業や世界観を強要される社会的立場に自分を押し込めてしまっていたら、心の底からの幸せを感じることはできません。

 このように、本質と矛盾する活動に人生の時間とエネルギーの大部分を使うということは、自分という自動車を、わざわざバックで、しかもバックミラーだけを見ながら走らせているようなものです。自動車はバックでもそれなりに走行できますが、もともと、バックギアは高速で長距離を走るようには作られていないので、燃料を無駄に浪費し、ギアも遅かれ早かれ破損し、よく見えないで運転しているからあちこちぶつけて車体もボロボロ。そこで、しょっちゅう外装を綺麗にしたり、壊れた部品を取り替えるという修理をすることになります。しかし、根本的な問題は解決されませんから、心も体も疲弊し、様々な健康問題が湧いてきます。それを社会制度や高度な医療によって解決しようとしても、焼け石に水で、健康問題は少なくなるどころか新しい問題が次々に生まれて、状況はますます複雑になり、出口の見えないままトンネルは続いてゆく…。

 車後ろ向きに走らせている限り、何をやってもその車の本来の能力を引き出すことは不可能です。なんてことはない、自分自身を知り、ただ車を普通に前向きに進めれば、すべては解決するのでしょう。

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音楽づくりとは?

 

 世の中にはいろんな音楽制作のあり方がありますが、古佐小流には、音楽制作を以下のように定義しています。

 

 「音楽制作とは、日常生活の中で自然の創造の営みの仕組みを広く学びながら、音色、旋律、和声、リズムなどの音の印象の特性を学び、音とそれを聴いた時に呼び起こされる感情的な反応、思考、生理的な反応などの関連を学び、さらに実際に楽器や声を用いて意図した通りの音印象を生み出す技術を学び、それらの学びから得られた統合的な知識と*ビーイングにより、聴き手に望ましい反応を呼び起こす音印象を造り出す一連の活動である。」(*注;Being:ぴったり来る訳語がないのでカタカナ表記にしますが、英語の哲学的論文で見られる用語で、直訳的には「存在のレベル」。知識ではなく、極意や奥義などの深遠な智恵を理解できる能力。)

 

 音楽制作の努力は、製作者の思考力、感受性、運動能力、直観力など、内的な能力の拡張に非常に大きな影響を与えます。また、その音楽家により生み出される音印象は、人間の内的機能によって加工されている音印象なので、大自然のそのままの音印象に比べて、より人間に受け取り入れやすい形になっています。言い換えると、自然に存在する音エネルギーという生の素材が、音楽家により噛み砕いて消化され、創造的プロセスを経て、人間同士で交換できる音エネルギーに変換されて、芸術作品として提示されます。この意味では、音楽家の役割は、自然の生の素材を料理して、誰にでも食べやすい形に仕上げる料理人のようなイメージとも言えるかもしれません。

 

 このプロセスをもう少し噛み砕いて論述してみましょう。

 

 自然の創造の営みの仕組みを学ぶためには、人間社会も含む自然環境全体の営みに敏感であることが必要で、そのためには、五感とそれをどう感じているかをモニターできる感性を研ぎすます必要があります。また、音印象とそれによって呼び起こされる聴き手の内的な状態の変化の関連を学ぶためには、まず自分自身が聴き手として、音に対してどのような反応をしているかを自己観察し分析することが必要で、そのためには、自己に対して客観的になる努力が必要です。また、実際に楽器や声を用いて意図した通りの音印象を生み出す技術を学ぶためには、楽器演奏や発声の技術の習得に加え、肉体の動作機能と音印象を生み出そうとする意図・意識の連結を、より完全な状態に近づける努力も必要ですから、武道家やスポーツ選手と同じく、心技体の連携を深める訓練も必要です。さらに、それらの学びから得られた知識とビーイングが、演奏の瞬間に正しく調和のもとで作用するためには、時間とともに流れてゆく音楽とともに「今、この瞬間、ここに存在している」ことを継続的に意識できる内的な状態も必要です。そして、聴き手に望ましい反応を呼び起こす音印象を造り出すためには、音印象を受け取る聴き手への「愛」を感じる努力も必要になります。

 

 実のところ、このようなプロセスを経て生み出される音楽作品は、単なる副産物であって、このプロセスにより絶えず鍛えら開発されている音楽家の内的な能力こそが、音楽制作によってもたらされる主産物なのだと思っています。

 

 このような音楽制作の境地は、一生かけて取り組む音楽家としてのライフワークです。しかし、「それが完全できるようになってから音楽を制作するべきだ」というような潔癖を貫くと、古佐小ごときのレベルでは、死ぬまでに1音だって音を鳴らすことは許されませんから、音楽家としては、今現在の知識とビーイングを駆使して、現状でのベストの音楽を制作することになります。それを奢りや妥協から行うのではなく、自分のありのままの姿を謙虚に受け入れ、不完全な作品と自覚しながらも批判を覚悟で発表し続けるには、勇気と忍耐が必要です。この勇気と忍耐こそが、表現者であるために最も必要とされる素質なのかもしれません。

 

 一口に音楽と言っても、同一の聴き手が異なる音楽から受ける影響には「なんとなく気分が変わる程度の影響」から「人生観が変わってしまうほどの影響」まで大きな幅かあります。また、同一の音楽が異なる聴き手に与える影響の幅も、同様に「なんとなく心地よい」という程度のものから「魂が揺さぶられる感動」まで大きな幅があります。例えば、ティーンエイジャーにとっては気持のよいヒップ・ホップの音楽が、この中年のおっさんにとっては苦痛でもあるわけですから、実際には、この幅はプラスの側での変動にとどまらず、マイナスからプラスまで振れる非常に大きなものです。

 

 このような幅が存在することは、音楽制作に携わる音楽家の知識とビーイングには大きな幅があること、また、聴き手の音楽印象への感受性と印象の消化能力にも大きな個人差があることを物語っています。言い換えると、音楽を生み出す手段と目的、それを受け取る能力と音楽の使用目的に大きな幅があるので、音楽〜聴き手の反応系には、大きなバリエーションがあり得るのです。

 

 つまり、音楽家が現在の自分のビーイングと知識を駆使して誠実に音楽に取り組むならば、それに価値を見出してくれる聴き手はいるということになります。そのことを信じ、試行錯誤の中で音楽作りの経験を積むことで、ビーイングと知識が増し、より完全な音楽家へと近づいていけるのだと思います。また、それにより、より善き人への道も歩むことになるのでしょう。