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オーガニック・ミュージック講座のご案内(3月開講〜10月閉講)

 

 

オーガニック・フードのオルターとの協賛で、オンラインによる月一回90分、全8回の講座シリーズを来週末から開講いたします。参加された皆さんには、各セミナーのたびに、観賞用のオリジナルハープ演奏のハイクオリティ音源を2曲分を配布いたします。

 

「オーガニック・ミュージック」という切り口で、人本来の音楽のあり方を追求いたします。音楽という現象を医学、心理学、物理学、神秘思想など様々な角度から眺め、音楽創造のプロセス、音楽が人に及ぼす影響力、音楽からエネルギーを受け取るための方法論などについて、ハープの実演を交えながら解説をいたします。

 

 音楽を聴くのが好きな方、音楽についてもっと知りたい方、演奏家として音楽への哲学的、科学的理解を深めたいと思っている方、音楽によって生活を豊かにしたいと思っている方におすすめの講座です。音楽だけでなく、その他の五感を伴うすべての日常の経験に応用することができる普遍的な知恵を学べるセミナーになっておりますので、音楽とは縁の薄い皆さんにもお楽しみいただけると思います。

 

第一回 3/26 Do. 音を聴こう!
第二回 4/30 Re. 音楽とは?Part 1: 音から音楽への進化
第三回 5/28 Mi. 音楽とは?Part 2: 四次元にそびえる建築物としての音楽
第四回 6/18 Fa. 美とともにある生活 
第五回 7/30 Sol. 心の食べ物としての音楽
第六回 8/27 La. 七音階に隠された宇宙の神秘
第七回 9/24 Si. 音楽療法


第八回…

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432Hzチューニング:YouTubeでシリーズを始めました!

自然界で観察される周波数と同期しやすく、心身への癒しの効果も報告されている432Hzのチューニングを、昨年末から実験的に採用して検証を続けています。個人的な体感として、音の体・心への浸透性が高い、楽器の鳴り方がより深くて心地よい、精神状態に落ち着きと安定をもたらし演奏のテンポもややゆっくり目に設定されるなど、興味深い観察が得られています。 これから月末に向けて、432Hzのチューニングでの演奏をYouTubeで紹介していきます。

 

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社会生活での協和音、不協和音

 昨年以来、COVID-19の流行とその対策、新型mRNAワクチン、ワクチン義務化、ワクチンパスポート制度、などによる接種の強制と自由の制限など、見解と立場の対立を生み出す社会事象が相次いでいます。そんな中、自ら発する音が今の社会で奏でられている音楽に協和しない状態、つまり不協和音に悩まされ続けております。しかし、それとは反対に、今の状況で経済的にも潤い、社会のあり方も自分の理想の方向に向かって進んでいると感じ、むしろ居心地の良い協和音を楽しんでいる方も大勢いらっしゃると思います。

 このように、協和、不協和という概念は、絶対的なものではなく、相対的なものです。このことに関し、音楽の例を用いて考察をしてみたいと思います。

 例えば、ラ・シ・ド・レ・ミ・ファ・ソというAマイナーのスケールから作られたメロディーがあって、そこでAマイナー(ラドミ)という和音が鳴っていて、いい雰囲気の短調の曲が奏でられているとします。このときに、シのフラットという音を出すと、せっかくの雰囲気をぶち壊す不協和が生じます。しかし、この不調和の原因と思われるシのフラット自体が、不協和という要素を持っているわけではありません。AマイナースケールのメロディーとAマイナーのコードで構成されている音楽的文脈に対しては、Bフラットという音が不協和要素になるということです。Bフラットメジャースケール+Bフラットコードという文脈に対しては、Bフラットはこの上なく協和する音になるのです。

 これを社会での人間関係に置き換えて考えてみます。例えば、Cさんという方と人間関係において不協和を感じているとします。その場合、Cさんか自分のどちらかに不協和の要因があるという視点で捉えてしまいがちですが、ほとんどの場合は、その人間関係という文脈において自分とCさんという組み合わせが不協話な関係にあるというだけで、そのどちらかが特に悪いというわけではないのです。

 今の妻とは協和的な関係にありますが、そこに行き着くまでには、数名のガールフレンドと離婚した前妻との関係において、一緒に奏でていた曲を途中で強制終了しなくてはならないほどの不協和を経験しました。ただし、交際の最初から不協和状態を我慢して合奏していたわけではなく、ある時までは協和状態であったのが状況が変化して不協和になり、最終的に破綻したのです。つまり、一緒に演奏を始めた時点(交際初期)では、その二音は協和関係にあったのに、曲が進むにつれて曲にそぐわない不協和な関係になってしまったわけです。もともと同じ曲を演奏しているつもりでいたけれども、もしかしたら冒頭の部分が似ているだけの全く別な曲を演奏していただけなのかもしれないし、楽譜を読み間違えたのかもしれないし、転調しなければならないタイミングでしかるべきシャープやフラットへの変化を拒んだのかもしれません。不協和が起きたメカニズムがなんであれ、個別の音自体には不協和の責任はなく、組み合わせとそのタイミングが悪かったというだけなのです。

 長い人生、いろんな文脈で様々な人物、様々な出来事と不協和を感じることはありますが、そこで不協和関係にある相手や出来事を攻撃したり自己嫌悪に陥るのではなく、「今自分が演奏したい音楽の中に身を置いているのか」「自分が本当に出すべき波動の音を出しているのか」「自分の波動が協和して曲全体に貢献できる演奏に加わるには、どこに行けばいいのか」など、広い視点から今経験している不協和を俯瞰してみることで、周囲にとっても自分自身にとっても建設的な道が見えてくるのではないでしょうか。

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旧約聖書の出エジプト記にある神の名 “I AM”の考察

あけましておめでとうございます。

 

今年に入ってはじめての投稿は、聖書の文言に関する超長文の哲学的考察です。自らの頭の整理のために書いたものですので、スルー前提で投稿させていただきます。ただ、現象界が混沌としているこの時代に、大きなスケールで宇宙を考えてみることは心の安寧にもつながりますから、その刺激としてお読みいただくことには意味があるかもしれません。
 


旧約聖書の出エジプト記にある神の名 “I AM”の考察

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ホレブ山で神に呼びかけられ、「イズラエルの民を連れてエジプトより脱出せよ」という使命を託されたモーゼは、「そんな大役は引き受けられない」と断るが、神は常にモーゼとともにあることを約束し、彼を励ます。そこでモーゼは神に、「イスラエルの民に、誰によって遣わされたかを伝えるために、あなたの名前をお聞かせください」と頼んだ。すると神は、”I AM THAT I AM” とお答えになり、「イスラエルの民には、I AM があなたを彼らのためにお遣わしになったと伝えなさい」と告げた。
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“I am that I am” は直訳すると「私は、私であるということである」となるが、これでは全く英語でのニュアンスが表現できない上に、意味不明である。事実、カトリックの幼稚園と中学、高校に通い、聖書も何度か読んだが、つい最近までこの寓話の意味はさっぱり理解できなかった。

 一般的翻訳では、“I am ◯◯” は、「私は◯◯である」とされ、be 動詞の am は、I と ◯◯をイコールで結ぶ役割を果たすニュアンスで翻訳される。しかし、be 動詞の am は、実際には「存在している」というニュアンスをも表し、しかも日本語の「存在している」という言葉の持つ積極的行為のニュアンスは有しない。つまり、受動的も積極的もなく、ただ、そこに「ある」というニュアンスである。

 したがって、神の名として告げられた「 I AM」のニュアンスは、名がくるべき位置が空白のまま残された I am ◯◯の状態であり、まさに役割も肩書きも名前もない状態で、ただ「私はある」ということになる。これは、スピリチュアル系の教えでしばしば遭遇する「現在に存在する」「今という瞬間を生きる」「人が手にすることのできるものは、この瞬間だけである」「自己を思い起こす」というように表現されるニュアンスとも矛盾しない。

 自己意識を有する主体を指す…

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コロナ禍での集団狂気、マス・フォーメーション・サイコーシス

Mass Formation Psychosis マス・フォーメーション・サイコーシス

 マス・フォーメーション・サイコーシスとは、コロナパンデミックとワクチンを取り巻く狂信的で排他的な集団意識形成を説明する仮説として、mRNAの開発者でもあるRobert Malone(ロバート・マローン)博士によって最近示唆された社会的病態で、一種の集団催眠状態です。ナチスドイツで見られたような、熱狂的で強迫的な観念に取り憑かれた集団がコントロールを失い、そこに同調しないものたちへ対し異常に攻撃的となり、最終的には自己破壊的な方向に向かう集団心理のプロセスです。

 マローン博士とベルギーの心理学者の Mattias Desmet博士との対談で、マス・フォーメーション(サイコーシスという用語は、正式な心理学では付加されていないそうです)に関しての詳しい解説がありましたので、その内容をシェアいたします。
リンクはこちら:

https://rumble.com/vrxr3n-tpc-653-dr.-mattias-desmet-dr.-robert-malone-dr.-peter-mccullough-mass-form.html

 マス・フォーメーションとは、ここ200−300年の人類の歴史の中で特に顕著となっている大規模な集団的心理状態である。

 マス・フォーメーションが形成される前段階には、以下の要件が社会全体で広く観察される。

1)社会的孤立感、孤独感:これは近代以降の工業化やテクノロジーの発展に伴い強まってきた感覚で、現在米国では人口の60%が孤独感、孤立感を感じているというデータもある。近年すでにSNSなどのバーチャル世界の席巻により、リアルな人間関係が希薄になりつつあったところに、コロナパンデミックによるロックダウン、ソーシャルディスタンシングなどによってさらに孤立化が促進された。
2)生きることの意義と希望の欠如:パンデミック以前から、アメリカでは、人口のわずか13%しか自分の仕事に意義を感じることができず、65%は仕事を無意味だと感じている状態にあった。パンデミックにより、様々な活動や人生の計画が全てキャンセルされ、生きることの意義や希望がさらに希薄化した。
3)漠然としたやり場のない不安感 “Free floating anxiety”:固定された貧富の格差、環境問題、生活の不安定さなど、すでに多くの国民が多くの不安を抱いて生活していたところに、コロナという正体不明の伝染病による恐怖が襲いかかった。
4)やり場のないフラストレーションと怒り “Free floating frustration and anger”:3)の漠然としたやり場のない不安感に対して、同じくやり場のない漠然とした怒りとフラストレーションが強く感じられるようになり、それらが行き場のないまま蓄積されてきた。

 この4つの条件が揃ったところに、漠然とした不安要因を明確化し、やり場のないフラストレーションと怒りの矛先を明示するナラティブ(物語)が語られ、それらを解決する方策を提案するリーダーが現れると、そこを中心として彼らの間で急速に、しかも大規模な社会的結束が形成される(マス・フォーメーション)。それによって社会的孤立感が癒されるという報酬を味わった大衆は、取り憑かれたように現実の一側面のみに関するナラティブと解決策にさらに意識を集中し、他の意見や現実世界でのその他の問題をほとんど無視してしまうという催眠状態に陥り、リーダーに盲従するようになる。マス・フォーメーションの根元にはフラストレーションと怒りがあるため、この集団は、自分たちに賛同しない個人や集団に対しては激しい攻撃性を見せ、そうやって外敵を駆逐してしまったのちには、内部分裂による自己破壊的な方向に向かう。このような集団においては、大衆は与えられたナラティブと命令に集中して催眠状態になっているため、全体主義的リーダーは、いとも簡単に大衆の自由や権利などを彼らに知られることなく奪いとることができる。
 マス・フォーメーションで大衆をつなぎとめておくナラティブには、論理的整合性は必要なく、集団形成が進めば進むほど、ナラティブはどんどん内容のない馬鹿げたものになっていくが、そもそもこのような集団催眠に陥る利得は、集団の一員として社会的つながりを強く感じることで孤立感から解放され、自らの存在意義を感じることであるので、実のところナラティブの内容はさほど重要ではない。ナラティブは、多くの場合大手のマスメディアを通じて行われ、政府機関の専門家などが集団にとってのリーダーの役割を演じる。意外なことに、高い教育を受けているものがマス・フォーメーションに陥りやすく、その原因は明らかではないが、おそらくすでに社会的なシステムの中にしっかり組み込まれて生きており、権威や組織の目的に従うことにより収入やステータスが安定される立場にあるため、メインストリームのナラティブに追従しやすいとも考えられる。
 マス・フォーメーションは、非常に伝染性が強く、短期間に一気に広がる傾向が強い。マスメディアや個人間の直接的接触などがなくても、非常に短期間で大きな集団内(人口の30%くらい)でナラティブに特徴的な思想や言葉の使用が共有されるようになるという不思議な現象が確認されている。
 マス・フォーメーションに組み込まれにくい個人の特徴は同定されていないが、自らの精神の安定性を理念と批判的論理的思考に依拠している個人の方が、メインストリームのナラティブに飲み込まれることが少ないようである。

 すでに形成されてしまったマス・フォーメーションの催眠状態を脱するには、以下のことが必要であると考えられる。

1)マス・フォーメーションでナラティブとして語られ固く信じられてしまった虚偽に対し、真実をぶつけ続けること。
2)彼らと敵対、分断するのではなく、コミュニケーションを続けること。
3)彼らの信じているナラティブ以外に問題解決のオプションがあることを示すこと。
4)マス・フォーメーション以前の状態に戻ることをゴールにしないこと。その状態に置かれていたからこそマスフォーメーションに陥ることになったのであるから、そこに戻ることは彼らにとっての問題解決とはならない。未来の目標とすべき新しいノーマルをゴールとして提示することが重要である。
5)マスフォーメーションは攻撃的な集団なので、暴力的抵抗は対立と分断を悪化させる。あくまでも非暴力的な手段で彼らに抵抗する。

 

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ひたすら感じれば、答えはそこにある

 音楽演奏とは、「美を表現するためには、どんな音を、どんな風に出せば良いのか?」という問いに対しての一つの解答を提示することです。

 クラシック演奏の場合は、「どんな音を」という部分に関しては過去の模範解答をそのまま借用することができるので、演奏者はもっぱら「どんな風に」という課題に集中します。作曲や即興を行う演奏家は、「どんな音を」という課題と、「どんな風に」という課題の両方に取り組むことになります。

 この課題を解き、聴き手に披露しても恥ずかしくない程度の解答(演奏)を見出す術を習得するために、音楽教育があります。現在の音楽教育では、知識や技術の蓄積に主眼が置かれています。しかし、これらの課題を解くにあたって最も必要な素養は、知識や技術ではなく、「聴く能力」です。残念ながら、音の聴き方を体系的に指導するような教育システムはなく、「聴く能力」は、音楽と長年接するうちに自然に身に付くもの、つまり「教えられない能力」、あるいは「才能」に属すると考えられています。しかし実際には、特別の才能がなくとも、意識的に音の聴き方を訓練し「聴く能力」を高めることは可能です。その具体的な方法に関しては、後日別の論説にて改めて述べることにして、ここでは「聴く能力」がどの様に音楽演奏に決定的な影響を与えるのか、ということについて、作曲と演奏を同時進行で行う即興演奏での経験からお話しをしてみたいと思います。

 即興演奏において最も難しい瞬間は、音楽を始める最初の瞬間と、音楽の自然な流れが止まりそうになった瞬間です。これらの瞬間に「どんな音をどんな風に演奏するか」を決定する際に、知識や技術を中心に解答を見出そうとすると、小手先のオモシロさと小賢しい音楽的装飾の香りのする嘘臭い音印象を生み出してしまいます。喩えるなら、本物の薔薇のエッセンスから作った香水を思わせるような心地よさを伴う本物の音楽ではなく、化学物質の組み合わせで人工的に作った「バラの香りトイレの芳香剤」から感じる違和感と不快感を伴う音楽になってしまうのです。

 音楽の流れを起動するときにもっとも大切なことは、兎にも角にも「聴くこと」です。今自分の出している音をただひたすら聴くのです。「次に何をどうしようかな」とか、「そろそろお客さんもこの雰囲気に飽きてくる頃だから、何か新しいことをしなくちゃ」などという雑念は、聴くことを妨げてしまいます。演奏の場でこのような思惑に囚われないことは非常に困難なので、「ひたすら聴く」という行為を完遂ためには、意識と意志の力を集中することが必要です。雑念に埋没することなくひたすら聴こうと努力をすると、次にやるべきことは自ずと浮かんできます。リズムを変化させる、和音を継続させる、早いパッセージを入れるなど、そこで浮かんできた音楽的なアイデアを採用し、実行すればいいだけです。もし「次何も浮かばないから、そこで音楽を終わりにする」という決断がひたすら聴いた末の答えであるなら、それもOKなのです。

 ひたすら聴けば、何をどの様に演奏すべきかが分かる?なんじゃそりゃ?それでいい演奏できるんだったら誰も苦労せんわ!

 まあ、確かに無責任なスピリチュアル系のおっさんの戯言に聞こえるかもしれませんが、実は脳科学的にも納得のできる現象なのです。

 音楽における和音、メロディー、リズムなどの要素は大脳皮質によって理解され、運動を実現するための具体的な業務は小脳によって行われます。小脳は、実際には大脳よりもはるかに多くの脳細胞を有し、非常に複雑な情報処理を行い、行動のアウトプットの実行役を演じています。しかし、小脳内で様々に業務分担された各部位は、縦割り構造で別個に働き、意志や意識という高次の脳機能を生み出すことはなく、ただロボットのように与えられた仕事を淡々と実行するだけです。即興演奏では、大脳と小脳が協働して音楽を生み出しています。まず、今自分が演奏している音楽をじっくり聴かないことには、大脳への情報のインプットが不十分となり、数分〜数十分に及ぶ音楽の全体的な文脈のなかで今の瞬間の正確な意味を意識することができません。そうなると当然、次に来るべき音の選択のための情報も不足し、意志も明確にならないわけです。小脳の機能は全く無意識に発動しますから、大脳からの意識と意志のインプットが不十分だと、その限られたインプットに応じた働きしかできません。つまり、大脳からの意識と意志を実現した「本当の薔薇の香り」ではなく、小脳内のロボットによって自動的に合成された「バラの香りトイレの芳香剤」でどうにかこうにか音楽を続けることになってしまうのです。逆に言えば、小脳は情報さえ与えてやれば忠実に、しかも見事に仕事を完遂する能力を持っています。ただ、決断する力はなく、言われたことをやるだけなのです。そのため、意識の機能を持つ大脳からしっかりとビジョンを伝えてやらなければなりません。そのプロセスの鍵となる第一歩が「意識的にじっくりと音を聴く」という行為なのです。

 この「じっくりと〇〇する」というメソッドは、聴覚だけでなく味覚、臭覚、視覚、触覚というすべての五感に関する行動においても有効です。

 例えば料理。レシピ通りに作っても、出来上がりはイマイチって経験はみなさんにもありますよね?食材を調理する時間と加減、食材を混ぜるタイミング、サービングする温度、食感などは、結局のところレシピでは分からない上に、用いる食材のクオリティーや味の好みに応じて調整される必要があります。このようなレシピでは教えてくれない微妙な要素を感覚的に調整できるためには、まず食材の匂いと味をじっくりと確認をして、脳にその印象をしっかりと落とし込むことが必要です。そうすれば、なんとなくどうやったら上手く行きそうか見えてきます。このように食材の匂いと味をじっくり吟味するプロセスを省略してレシピ首っ引きで料理をすると、たいていの場合は、「不味いわけではないけれども、ちょっとガッカリな結果」になることが多いですね。

 アーチェリーにおいても、良い結果を得るためには、弓矢を構える前にとにかくターゲットをじっくり見ることが大切です。そのときには、あまり色々と考えない方がいいですね。英語では、 doing with presence(存在を伴って行う)という表現がありますが、まさに「存在を伴ってひたすら見る」つまり「今自分は見ている」という自覚的な意識と、見ている対象に向けられている意識を同時に感じながら見ようとします。そうすると、脳は無意識の中で距離、角度、体との位置関係などを自動計算します。こうやってターゲットへのロックオンが完了したら、いよいよ体を動かします。動作の最初期は必要最小限の力で体がニュートラルな姿勢を保っていることに意識を向け、それに徐々に力が加わり標的に向けて矢を放てるポジションへと移動するという感覚を意識することが必要です。ここで色々と小賢しく考えてしまうと、大脳から送ってもらった視覚情報を受け取って素晴らしい仕事をしようとしている小脳の自動的な働きを邪魔することになり、良い結果を生むことはできません。リーダーとしての才覚はあるけど実務経験の浅い上司が、部下のやってることに細かく口出しすると、現場が混乱して仕事がうまくいかないのと同じく、脳においても、ふさわしい仕事をふさわしい部署に任せることが大切なのです。

 何かを「為す」ことばかりが強調される現代社会ですが、「為す」ためには、まず「感じる」ことが必要です。そして、「感じる」ためには「存在すること」が必要です。存在し、感じ、そしてようやく為すことができる。存在もせず、感じもせず、ただ為していたのでは、ロボットと変わりません。成果主義、効率主義の現代社会では、「存在して感じる」ことは疎かにされがちですが、その結果世の中に生み出されているものは、浅薄な喜び、病につながる快楽、自然環境との不調和など、「バラの香りトイレの芳香剤」のような上っ面のものばかり…。

「存在し、感じ、そして為す」という人本来のあり方に立ち返ることで、幸福な生へとつながる道を見出すことができるのではないでしょうか。


 

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音楽において最も大切なものは?

 この問いに対しては、テクニックという方もいれば、インスピレーションという方もいると思います。皆さんはどうお考えになりますか?
 
 上にあげたものももちろん大切でありますが、最も大切なものは、Intention(インテンション)、すなわち「意図」であると思っています。

 では「意図する」とは、どういう作業なのでしょう?いろんな解釈がありえると思いますが、古佐小的には、「どのような結果のために、何を、どのようにしたいのかを明確にし、それを最大限の努力をもって実現する覚悟を決めること」であると理解しています。

 音楽においては、意図される内容のクオリティー、その継続時間、意図を実行する身体能力によって、表現される印象の質が変わってきます。どんな名曲をどれほど素晴らしく演奏しても、演奏者の意図に「失敗して恥をかかないように注意しよう」とか、「オレ様の凄さを見せつけてやる」などという衝動が紛れ込んでいると、音楽によって伝えられる最も高貴で精妙なエネルギー、つまり魂を揺さぶるような感動を生み出す波動は損なわれてしまいます。

 意図を持つことは、誰にでもすぐにできるのですが、それを継続させるのはなかなかに大変です。例えば、「聴き手の皆さんと平和・希望という感情を共有するために、一つ一つの音に心を込めて、自ら出している音が実際にそのような感情を呼び起こしているかを慎重に吟味しながら演奏しよう」という意図を持って演奏を始めたとします。しかし、ぼんやりしていると、演奏を始めて数小節後にはそんなことはすっかり忘れて、技術的にミスなく演奏をすることに全意識が持っていかれてしまいます。それどころか、知らない間に虚栄心が忍び込み、「お客に喜んでもらいたい」という偽善の仮面を被った「ひけらかし」が始まってしまいます。このような内面の迷走があっても、ほとんどの場合はお客は喜んでくれて、結果的には仕事としての演奏は成り立つことが多いため、このような内面的な混乱を黙認放置しても職業上の問題はありません。しかし、この内面的な迷走状態に妥協をしたら、音楽家としての成長はそこでおしまいです。

 意図の実行役、つまり実際の演奏を担当する身体の能力は、すでに確立された練習法やメソッドなどの機械的な訓練を積むことで右肩上がりに発展させることができます。しかし、そこをいくら強化しても、お客を楽しませるというレベルでのバリエーションを増やすだけで、その上に君臨する「感動を呼び起こす何か別のもの」には到達できないのです。そこに行くには、深い精神性に関わる高次元の成果を意図できる創造力と、その意図を持続できる意志力の強化が不可欠です。しかし、それらはまさに人としてのあり方そのもののに関わる根幹的な命題を含む課題であるがゆえに、機械的な訓練で強化することはできません。本当に望むことを「意識」し、それを「意志」によって実行する訓練を、無意識的、無意志的に行うことは不可能なのです。必ず、意識的、意志的に訓練が行われなければならないのですが、その意識と意志が弱いのがそもそもの問題なので、この種の訓練は、始めることすら非常に難しいのです。訓練を始めた初期には、ほぼ例外なく己の無力を思い知るだけです。しかし、忍耐強く継続すれば、ある時点から指数関数的な発達が期待できます。ガリギョロの骨皮筋夫さんであっても、忍耐強く筋トレを続ければ、少しずつマッチョになるのと同じです。

 意図される内容、つまり音楽によってどのような結果を期待するのかという点は、まさに音楽家自身の価値観や人生観が反映されます。音楽では、娯楽提供に対する報酬、自己顕示欲、他者への愛、神々への奉仕、社会への問題提起などなど、実に多様な目的が意図され得ますが、音楽家がどれだけ普遍性の高い目的を設定できるかによって、音楽によって表現される精神性の深さも決まってきます。

 ただし、崇高な意図があっても、知識と技術がそれを実現するだけの能力が伴っていない音楽家もいれば、逆に、やたらと知識と技術が優れているにもかかわらず、意図が薄っぺらであるために薄っぺらい音楽しか生み出せない音楽家もいます。つまり、意図の内容、それを継続させる力、それを実行する身体能力が、それぞれバランス良く発達し協調して働くことが重要なのです。

 このバランスの重要性に関しては、たとえ話を使って考察してみたいと思います。

 音楽家を馬車に喩えると、馬は感情、馬車は身体、御者は知性、中に乗っている主人が意識と意志を従えた「意図」です。町中の道に詳しい有能な御者が高性能の馬車とよく訓練された馬を運転していても、主人が「やってくれ」と言ったきり行き先については何も言ってくれないとしたらどうでしょう。御者は仕方なくランダムに街のあちこちを走り続けるしかありません。主人から気が向いた場所で「止めろ」という指示が出されるかもしれないし、この立派な馬車を街のみんなに見せびらかしたいというだけの理由で馬車を走らせ続けるかも知れない…。意図のない演奏というのは、まさにこの馬車と同じです。決まった目的地もなく、行き当たりばったりで、自己顕示欲を満たすためにただ走っているだけ。

 一方で、仮に馬車もオンボロ、馬もおいぼれ、御者もジジイで耳が遠くて主人の言っていることがよく聞き取れないとしても、主人が明確に行き先を知っていれば、多少のトラブルはあってもいつかは目的地まで馬車を走らせることが可能です。つまり、意図をしっかりと持つことのできる音楽家は、技量の良し悪しにかかわらず、目的を達成できる可能性が十分にあるのです。有能な御者、手入れされた馬車、訓練された馬、そして確固たる目的を持った主人。この組み合わせを目指すことが、芸術家としての自己修練なのでしょう。

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そろそろコロナ対策の根本的見直しが必要なのでは?

「同じことを繰り返しながら、違う結果を望むこと。それを狂気という。」

 これはアインシュタインの有名な言葉ですが、現状においてブースターショットやワクチンパスポートの早期実現を目指す政策は、まさに「狂気」と非難されても仕方のないものではないでしょうか?

  多くの皆さんが、自分自身の身を守るだけでなく、お互いの健康を守り合いたいという崇高な思いを抱いて治験中の実験的遺伝子治療薬である新型コロナ『ワクチン』の2回接種を終えたにもかかわらず、当初期待されていた感染予防効果も集団免疫効果も得られないまま、Covid-19ウイルスはデルタ、オミクロンと新たな名を冠しては何度も蘇り、『ワクチン』接種者にも「ブレークスルー感染」を引き起こし、感染の波は第5波、第6波とぶり返しています。そして、Covid-19が現在も、これから先も、継続的に人類の生命と生活に多大な脅威を与え続けるという政府機関やメディアの認識に基づき、各国では当初の計画にはなかった3回目、4回目と定期的に追加される「ブースターショット」と呼ばれる追加接種と、ワクチン未接種に限って適用されるさらに厳しい行動制限を可能にする「ワクチンパスポート制度」が導入されています。

 ある程度の行動制限や仕事上での差別を甘んじて受けるという覚悟があれば、現在のところ『ワクチン』接種するかしないかは、自由意志で選択することができます。おそらく、誰もがしっかりと情報収集をした上で接種、未接種を理性的に選択していると思いますので、ここではどちらの選択が良い、悪いという議論をするつもりはありません。ただ、『ワクチン』を主軸にした現行の公衆衛生対策が、昨年末〜今年前半に対策が施行された当初に想定されていた効果を得られなったということは事実です。その認識があるからこそ、さらなる対策として「ブースターショット」や「ワクチンパスポート」が導入されています。これらの追加策は、今までのやり方をより徹底的に押し進めるという中央一点突破作戦ですが、公衆衛生の観点から言えば、これまでのやり方が目的を達成していないという認識に至った今、未接種者の隔離、国民規模で『ワクチン』接種を徹底させることによる防疫、社会活動の制限という従来路線の方策を根本から見直す必要があると考えられます。

 生命と健康に関わる分野で、すでに莫大なお金をかけて大きな社会的リスクを対価に進めてきた政策の失敗を認め、謙虚に路線変更することは、おそらく官僚や政治家の皆さんにとってはそこでキャリアが終わってしまうほどの不祥事なのかもしれません。その苦しいお立場はお察しいたしますが、もしこのタイミングで謙虚な自戒と方向修正ができないのであれば、大東亜戦争において国家の自滅に向う惰性を止めることのできなかった当時の政府と何ら変わりません。国民は、『コロナパンデミック』を大きな社会問題と認識し、個人の自由をある程度犠牲にし、公共の利益のためにマスクを着用し、ソーシャルディスタンシング、営業時短、ロックダウンなど、これまで政府の提唱してきた方策に自らの意志で協力し、主権者たる責任を果たしてきました。今、公職にある皆さんがこれまでの失敗を謙虚に認め、真摯に国民のためになる施作を改めて提案してくださるのであれば、責任を追求されて袋叩きの目に遭うようなこともなく、引き続き国民の協力を期待できると思います。

 国民は、それぞれに悩み、苦しみ、生活にすら窮し、先の見えない日々の中、それぞれに個としてできることをやりながら必死に耐えています。子供たちは、遊びたくても遊べず、学校に行きたくても行けず、訳もわからないままに貴重な子供時代の経験のチャンスをどんどん失っています。このような皆の苦労が報われるには、個の努力をまとめるリーダーシップが必要です。それができるのは、すでに職業的にその立場にある公職者の皆さんです。国民の安全と幸せを守るという崇高な役割を買って出た政治家の皆様、自ら国民の公僕となる尊い道を選ばれた公務員の皆様、国民に真実を伝え権力のチェック機能を担う自由の守護神であるメディアの皆様。あなた方の良心と良識に期待いたします。

 

追伸:新型コロナ『ワクチン』への医学的評価に関して、一般メディアでは取り上げられない専門家の見解をまとめてあるビデオリンクをこちらに掲載してあります。6000名に及ぶコロナ患者を治療した経験と、様々な医学論文からの分析で、『ワクチン』の危険性を解説しています。YouTubeでは検閲のため削除される内容ですので、Rumbleにて配信されています。何を信じるかは個人の自由ではありますが、こういうプロフェッショナルな見解もあるという参考にしていただければ幸いです。

 

https://rumble.com/vqknzt-44634233.html

 

 

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健康は人本来の状態ではないのか?

 「どれだけ健康に気をつけているつもりでも、病気になることはある。」
 「生まれながらに障害を持つ者もある。」
 「誰もがいずれは健康を失い、死ぬ運命にある。」

 こう考えると、健康であるか否かは自分でコントロールできない事象であり、元気に生きられるかどうかは運を天にまかすのみ、という気持ちになってしまいます。実際、生活習慣にどれだけ気を付けて節制していても病気になる時はあるし、無頓着な生活をしていてもピンピンしている奴らもいる。どちらにしても病気が避けられないなら、コツコツと節制するよりも、太く短く野放図に人生楽しんだ方がいいんじゃないかと開き直りたくもなります。今や医学も進歩して、大概の病気は治るみたいだし、病気になってから治せばそれでいいじゃん。

 太く短く。それはそれで良いのかな。でも太く長く生きられる選択肢が選べるのであれば、その方が良いに決まっています。もし、健康という状態が、実は人が本来あるべき状態であるとしたら?あるいは、それが強運者にのみ与えられる特権ではなく、人本来の生き方をしていれば当然の権利として万人に与えられている自然な状態であるとしたら、人本来の生き方を見出すことができれば、太く長く生きる道もあるのかもしれません。

 このような希望を胸に、この論説ではあえて「健康は人本来の状態である」と主張してみたいと思います。

 まず、現代社会では、健康とはどのように判定されているのか?健康診断の結果で見られるように、「標準値」という健康体と想定される人体のデータと比べて、皆さんのデータがそれに近ければ健康、それから外れていくに従って健康が害された状態、つまり病気と判断されています。

 一方で、心身の所有者である本人にとっての健康とは、何なのでしょう? 健康診断の結果が良いからという理由で、健康感が湧き上がってくるわけではありません。なんとなく気分が良い、体が軽い、気力があるなど、主観的、感覚的に認知される心身の統合的な状態が肯定的であれば「おー、今日も元気だ!」と感じることになります。

 このように健康には、外側から計測されて数値化されるデータによって定義される側面と、当事者が主観的に認識する側面の両方があります。ところがこの両者は完全に一致することはなく、データ上は異常がないのに健康でないと感じている方もいれば、データはヤバヤバなのに、当人は案外と元気だと感じている場合もあります。

 計測データによる健康の判定と、主観による健康の判定。どちらがより本質的な健康の判定なのか?言い換えるならば、最新の医療器具や科学的検査のテクニックを用いて数値化される心身のデータが医者によって解釈された結果と、当事者の体の隅々まで張り巡らされた神経系や循環器系によって集められる情報を脳が処理することで生じる主観的感覚による判断を比べた場合、どちらがより正確に心身の健康状態を把握をすることができるでしょう?

 これについて少し考察してみましょう。
 
 現代の常識では、人間は自らの健康状態を自己モニターし、自動的に生活習慣や行動を最適化することができないとみなされています。その証拠に、健康であるためには定期的に健康診断や人間ドックを受け、第三者である医者によって健康状態を判断してもらうことが必要とされています。実際、少しばかりの不調で「たぶん、大したことのないだろう」と感じていても、自分の感覚を信用することは危険だと考え「念のためにお医者様に診てもらったほうが…」と病院に向かうことになります。

 とすると、やはり病院で計測、認定される健康こそがより本質的な「健康」の判断ということになるのでしょう。しかし、ここで素朴な疑問が湧いてきます。この地球の自然環境の中で、他の生物と同じく環境に適応して生存を続けてきた人類が、近代科学と医学の専門家の助けがなくては自らの健康を認知することができない、などということが果たしてあり得るのか?人本来のあり方としては、他の野生動物と同様に、自己の健康モニターリングと生存の確率をより高める行動を最適化する本能を備えていると考えるのが自然ではないのか?

 「でも、現実には自分の体のことなんてわからないことが多いし、気づいた時には病が進行して手遅れということもしょっちゅうあるじゃないか。」確かに、これが現代人の姿です。でも、そもそも現代人は、人本来の機能を十分に発揮して生きているのでしょうか?ほとんどの人類がすでに数世代にわたって自然から切り離された都市環境で生活している現在、平均的な現代人が地球の自然環境に適応するための人本来の機能をフルに発現していると考えることには無理があります。本能的に備わっている自己モニターリング機構と自動最適化機構は、不自然な人工的な環境での生活により、ほぼ機能停止していても不思議ではありません。つまり、食べ物、飲み物、呼吸する空気、音などへの知覚、身体内部の感覚などが全て鈍化していて、身心のモニターリングが十分にできないために、異常を感じた時にそれを是正するために必要な反応、例えば自然な欲求によって適度な休息/運動をする、生活習慣のメニューを体調に応じて取捨選択する、ある種の食品への食欲が亢進することで体に必要な食物を摂取するなどの最適化の機能も退化しているかもしれないのです。乱暴な言い方をすれば、現代社会の病んだ環境に数世代にわたって曝されている身体は、生命維持の機能に慢性的な障害を起こしている可能性があるということです。

 このことを特に強く感じた最近の経験をお話しいたします。

 古佐小ファームでは自然の方に限りなく近い形で肉、卵、ミルク、野菜を自給し、毎日屋外での肉体労働にも従事していますから、かなり健康的な生活を送っている自負はあったのですが、さらなる健康を目指し、11月に妻と一緒に食事制限を3週間の食事制限の実験をしてみました。全ての合成調味料(醤油やソース、ケチャップ、マヨネーズなど)、精製糖や甘味料、アルコール類、乳製品、穀物、豆類、糖分が濃縮された蜂蜜や乾燥果物を抜き、週に2回は動物の骨と野菜を材料にした出汁だけのミニ断食をするという食事法です。

 これだけの食材を避けながら美味しいメニューを作るのは大変でしたが、かえってクリエイティビティーが開花し、料理の腕前がさらにアップしました。写真はその一例です。料理人としてのレベルアップだけでも大きな成果と言えますが、それに加えていくつか特筆すべき成果がありました。


 まず、空腹という感覚が、必ずしも実際に体が食物を必要としていることのサインではないことがわかりました。実験以前の空腹感は、舌からくる空腹感、この実験で経験するようになったのは、お腹の底からくる本当の空腹感です。子供の頃を思い起こすと、腹の底から感じる空腹感が当たり前でしたが、大人になると、そういう気持ちの良い空腹感を経験することが少なくなっていました。腹の底からくる空腹感は、つまり、消化器系が「いつでも食べ物来いや!」な状態でスタンバってる感じが強いのですが、必要量を食べると「もういいよ」と満腹感が出てきて、食べ過ぎにならないのが特徴です。ちょうど腹8分目くらいで自然に止まる感じです。しかも、食欲の対象になる食品を体が欲しているものと一致している感覚を伴っているため、食べた時に一層美味しく感じられるのです。一方で、舌からくる空腹感の場合は、なんとなく「口寂しい」という感覚を伴い、実際には体が必要としていないときに必要のないものを摂取することを促す可能性が高く、そのため食べ過ぎにも繋がりやすくなります。

 また今回の実験では、すぐにエネルギーになる糖質を抜いてますから、血糖値が食後すぐに上がらないため、眠くなることはなくなりました。味の濃い調味料も使わないので、自然と食材への味をよりじっくり味わうようになり、味覚が向上しました。3週間の実験期間が明けて、再びいろんな調味料や飲み物、チースなどの加工食品を試してみたんですが、以前ほど美味しく感じることはなくて、実験期間が終わった後も、以前と同じ食事には戻ることはありませんでした。

 ミニ断食明けの日は、体が食べ物に対して特に繊細に反応する状態になっているため、特に意識しなくても自然と体の反応をモニターしながら注意深く食べるペース、食べるもの、食べる量などを調整するようになるのにも驚きました。体が敏感だと、よく噛んでゆっくり味わいながら食べようとする本能も働くんですね。

 具体的な体の変化としては、自分はそもそも肥満ではありませんでしたが、それでも腹筋の割れ目が見えるくらいまでにタイトになり、妻はお腹周りが10センチ痩せたと喜んでました。体調は、全般的に疲れにくくなり、便通もよく、体を軽く感じるようになりました。

 このプログラムが誰にとっても良いとは思いませんし、ずっと続けるようなものでもありませんが、この種の実験の最も重要なポイントは、これまでの習慣化された食パターンから一時的に離れることによって、日々の食との関係が見直され、リセットされた感覚に導かれてより調和の取れた方向に変化する点だと思います。具体的には、新しい食パターンにより、眠っていた食に関するモニターリングと本能的な食欲を伴う摂食調整機構が呼び起こされる感じがしました。それにより、食物が、実際に自分自身の一部になるということがリアルな感覚を持って経験され、体に取り入れるものに無頓着であることがもたらす健康被害の可能性の大きさを改めて実感することができました。

 ついでに、もう一つ別の体験談を。

 ハープ奏者としてかなり高度な身体操作をマスターした演奏家であることに加え、武道の鍛錬や日々の様々なDIYにより、これまでも身体操作に関してはかなり研究と実践を積んでいるという自負を持っていました。しかし、昨年から始めたアーチェリーを通じて、自分の体へのモニタリングと操作がどれほど不完全なものであるかを痛感しています。アーチェリーというこれまでに馴染みのない動作パターンに関しては、いまだに幼稚園児同然に不器用なのです。生まれて数ヶ月の子猫が、上手に木に上り、しなやかにジャンプし、驚くべき俊敏さと正確さを持って動き回れるのと比べて、人間の50歳のおっさんはなんとも情けない状態にあることか…。楽器演奏という運動を職業にしているプロの運動家もこの有様ですから、おそらく多くの皆さんも、慣れ親しんだ動作の範囲内でどうにかこうにか自己モニタリングと身体操作を実行できているレベルだと思います。

 マッサージセラピストの妻によると、ほとんどのクライアントは、特定の体の部位の力を抜くように指示をしても、自由に力を抜くことができないと言います。その部位を刺激し、ここの力を抜いてください、ゆっくり呼吸を吐きながら力を抜いてくださいなど、いくつか指示を出すことで、ようやく力が抜けるようになるそうです。つまり、経験したことのない動作に限らず、馴染みのある日常の動作に関しても、自己モニタリングと調整の機能が著しく鈍化していて、運動の最適化は行えていないということになります。

 健康に関しては、とかく医療行為やサプリなどの外からの働きかける手法ばかりが脚光を浴びるのですが、本当は、その前にまず眠った状態にある自己モニターリングと自己最適化の機能が本来の力を発揮できるようすることが大切だと思います。そうすれば、身体は自ずと本来あるべき健康を実現するためにふさわしい生活習慣へと導かれてゆくのではないでしょうか。

 

 

 

 

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音楽製作家と音楽演奏家の違い


 「音楽製作家と演奏家の違い?そんなものは微々たるものでしょ?」

 おそらく音楽に携わっていない方はそうお感じになると思いますが、実際には、両者の仕事の内容はかなり異なります。

 音楽制作家には、作曲家、即興演奏家などの職種があり、音楽演奏家には、クラシック演奏家、カバー曲や他者によって書かれた楽曲の演奏者などが含まれます。アレンジャーやジャズの即興演奏家は、ちょうどこの中間くらいでしょうか。

 音楽制作家と音楽演奏家の違いは、ガーデニングの専門家と切り花のフラワーアレンジメント(生花など)の専門家の違いに似ています。花を育てるガーデニングの仕事は農業そのものですから、ほとんどの時間とエネルギーは、花自体ではなく土、気候、生育条件などの環境の調整の仕事に向けられます。そのため、地味で泥臭い作業の連続で、そこでは成果がすぐに形に見えない努力が要求され、徒労に終わる努力も数知れず…。しかし、根気よく続けることで肥沃なガーデンを作ることができれば、あとはどんな種や球根を植えても花は育ち、いつもたくさんの花たちに囲まれて暮らすことができます。ただ、その花を直接ガーデンまで見に来てくれるお客は稀です。その稀なお客が、花の買い付けに来るフラワーアレンジメントの専門家です。彼らは、花が咲き誇るガーデンから気に入った花を切り取り、それを花のない場所、例えば都会の建物の中などに持ち込んで、そこで花と器、それを取り巻く空間との調和を考慮して花の美しさを演出します。彼らの仕事場は、往々にして泥臭さとは無縁の文化的でお洒落な環境で、自分の仕事を大勢の方に見てもらうことができ、仕事のほとんどの時間とエネルギーをお花自体の美しさに向けることができます。
 
 このように考えると、前者は農民的、後者は芸能人的といえます。農民は百姓とも言われ、文字通り100の多岐にわたる仕事をこなす必要があります。実際に農民もやってる立場から多少の自尊心も込めて「農業は脳業である」と吹聴しております。もし、お花自体の美しさを扱うことに集中し、お客の反応を身近に感じられる環境で活動したいのであれば、フラワーアレンジメントが向いているでしょう。逆に、地味な作業が好きで、生命を育てるという神秘的なプロセスに興味があるのなら、ガーデニングが向いています。

 今の自分の音楽家としての立ち位置は、お花畑のガーデニングが本業ですが、たまに切り花を売りに街に向かって軽トラックを走らせるおっさん、といったところでしょうか。お花を上手に育て、育ったお花たちに囲まれてられるということ自体が何よりの喜びなので、営業もあまりしない。ご時世柄もあり、相変わらずお花は売れてませんが、まあ、それでも幸せかな。

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時間をお金に換算する愚かさ・子育て

 時給、月給、年収。どれも時間をお金に換算する考え方です。さらにアメリカでは、所有している資産を表現するときに、「〜さんには〜ドルの価値がある」というような言い回しが使われます。つまり、その人物の価値=資産価値でズバリ言い切ってしまう表現が普通に使われています。

 もちろん、少し冷静に考えてみれば、あらゆる無限の可能性を内包している時間を単純にお金に換算することなんてできないことは明らかだし、ましてや、人物の価値をお金で表現するなんて言語道断です。でも実際には、この「言語道断」な価値観が現代社会の根底にあるため、お金を持っているお客さんには平身低頭し、労働の対価も時給、月収、年収で換算されています。

 時間は、人生において自由に使える数少ない資源であります。愛するものと過ごす時間、思索にふける時間、美しい自然に触れる時間、芸術を味合う時間、辛い経験を変容して乗り越えようとしている時間、何かを生み出している時間、何気ない日常の時間などなど…。一生は、このような一瞬一瞬をどのように過ごしたかということの積み重ね以外の何物でもありません。しかも、一体どのくらいの量の時間を与えられているのかは知らされていない、つまり、いつ死ぬか分からない条件の中で生きることを強いられているため、人生における時間の価値を計算することなど到底不可能なのです。このような「時間」という特別なものを、物質の交換手段に過ぎないお金に換算するというのは、本来全く噛み合わない換算をしているのです。

 時間をお金に換算する思考回路が出来上がってしまうと、「生きるためにはある一定額のお金が必要だ。→そのためには一定の時間をお金儲けの目的に使う必要がある。→お金のためには、やりたくないことも我慢してやるのは仕方ない。」という論理になんの不思議も感じなくなります。

 でも実際には、お金のためだけに時間を切り売りするのは、割りに合わない取引です。例えば、音楽的な閃きや、思索の閃きは、ほんの一瞬の出来事がきっかけになります。その一瞬が、一生を左右するほどの影響力をもち、場合によっては他者の人生にも影響を与え、ひいてはそれが仕事となり、収入にもつながる可能性があります。ところが、毎日何時間もやりたくもないことをお金のためにやってるという状態でメンタルエネルギーを浪費していると、残りの自由な時間はそこからの回復、娯楽、休息にあてられ、人生の時間のクオリティーはどんどん低下してしまいます。つまり、安く切り売りした時間の値段に合わせて、人生の時間全体のクオリティーも下がってしまうのです。そして、そんな低いクオリティーの時間からは、創造性に富んだひらめきが生まれるチャンスはますます稀になっていきます。創造性の枯渇した人生…。そんな人生に魅力を感じますか?

 「でも、子供も育てなきゃならないし、嫌でもお金を稼がないとやっていけないじゃないか!お前は好きなことを仕事にしている芸術家だからそんな理想論を言えるんだ。普通に働いているものは、もっと大変なんだ。」

 芸術家の直面している現代社会の現実の厳しさを、ナメたらいけません。音楽家という極貧の職業を維持しながらもなんとか三児を育てた経験から、子育ての大変さは理解しているつもりです。むしろ、定期的に給料をいただける仕事をしている方よりは、はるかに厳しい経済状態で子育てを完遂したと思っています。

 アメリカでは、子供のいる家庭でも共稼ぎの夫婦が多く、生活費の高い都市部では、下手をすると夫婦の稼ぎの半分は託児所や家政婦さん、家事をやらないことで余分にかかる外食やその他の諸経費で消えてしまいます。つまり、お母さん(あるいはお父さん)の稼ぎは、結局他人に子供を育てさせるための費用に全て消えていくことも珍しくはありません。「子供のために自分の人生を犠牲にするなんて時代遅れだ。経済的には意味がなくとも、夫婦ともに生きがいである仕事を続けることには意味がある。」そうかもしれません。しかし、せっかく産んだ子供をわざわざ他人に、しかもランダムに選ばれる他人に育てさせ、電子レンジ食品や出来合いのものを食卓に並べ、家族団欒の時間もあまり作れないという状況の中、子供と配偶者との距離感も大きくなり、いつしか家族が同じ屋根の下で暮らす他人同士になってしまう…。それが家庭を持った時に枝いていた理想の家族像なのでしょうか?

 そうなってしまわないように、妻は母親であることを最優先し、その役割の合間でできるフリーランスの仕事で少しばかり家計を助けつつ、学校でのPTAや理事会役員の仕事を引き受けて子供の養育にできるだけ関わる道を選びました。一方で、稼ぎ頭となった哀れなミュージシャンの夫は、家族に経済苦を強いながらも、その中で暖かく幸せな家庭を模索してきました。幸い、夫婦ともにお金のためにやりたくない仕事に従事するということをしなかったので、それなりに楽しくクリエイティブに子育ての困難を乗り越え、その結果、子供の成長と共に自分たちも成長し、家族としてお互いに特別な絆も築くことができました。大人となって巣立っていった子供たちは、いわゆる勝ち組の成功者となることはないかもしれませんが、自らの判断で自らの幸せを模索する一個の立派な大人として尊重しつつ、これからもずっと付き合っていけると思います。

 振り返ってみると、子育ては確かに大変でした。子育てに正解はありませんから、手探りの試行錯誤で遠回りをしながら、時間とエネルギーをかけなければなりません。良い教育も与えてやりたいし、いろんなものも買ってやりたいし、やりたいこともさせてやりたい。それにはある程度お金もかかります。でも、それが子供と過ごす貴重な時間を犠牲にして仕事を優先させることを正当化する言い訳になってしまうと、本末転倒です。

 実は、子供に幸せな時間を与えるためには、お金はかかりません。大人が心から楽しみながら一緒に時間を過ごすだけで十分です。むしろ、それ以外に本当の意味で子供を幸せにする方法はありません。大人が楽しくしていることが、子供も楽しくさせるのです。でも、いつも仕事に追われて心に余裕のない大人たちは、表面的に子供の遊びに付き合いながらも、切り上げるタイミングを窺いつつ心のどこかで白けた気持ちで仕方なくそこにいるだけだったりします。そんな嘘は、子供は敏感に感じてしまいます。 そこでなんとかご機嫌を取ろうと、おもちゃやゲームを与えて、お茶を濁してしまう。そんなことを繰り返していくうちに、子供と過ごす時間を、くだらないおもちゃやレクレーションで代用することが習慣化し、どんどん子供との心の距離は大きくなってしまいます。

 子供と一緒に心から楽しい時間を過ごすのは、実はさほど難しいことではありません。自分が子供だった頃の心を思い出して、その心で子供に接すればいいのです。言い換えれば、自分も子供になりきるということですね。大人気なく、馬鹿になって本気で遊べばいいんです。どんな大人でも子供だったことはあるので、必ず子供の自分を見つけることはできます。子供たちのエネルギーが、忘れ去られていた子供の自分を引き出してもくれます。

 小さなボロ屋暮で、子供たちは折り重なるように寝て、そこにさらに友達が泊まりにきて、もう訳がわからないカオスになる。夏休みには友人の子供も預かって、10名を超える子供が朝から夕方までウヨウヨしている。もちろん、そんな環境ではハープの練習をするのも大変です。でも、楽しかった!たとえ貧乏な生活でも、大人がそれを悲惨だと思っていなかったら、子供はボロ屋であろうが狭かろうが、全く気にしません。その瞬間に楽しみを見出し、幸せを謳歌するだけです。それを眺めていると、大人も元気になれるんです。

 子供が子供である時間は限られています。あっという間に、大人になってしまいます。親子として、今でしか経験できないこと、今でしか結ばれない絆があります。それは、どれだけお金積んでも得られないもので、時期を逃すと二度と手に入れるチャンスは無くなってしまいます。純粋な子供の心に触れることで、「この子のために、もっとまともな人間になる努力をしよう」という決意も与えられます。「もう少し仕事が落ち着いて経済的にも余裕ができたら、子供ともゆっくりすごそう。」そんなことを言っているうちに、チャンスはなくなってしまいます。

 「じゃあ、仕事を犠牲にして子供のために時間を作らないといけないのか…。」いやいや、案外とそうでもないのです。子供と幸せに過ごす時間のおかげで、仕事でも自ずと成果が上がってきますから、長期の収支で見れば何も犠牲にはなりません。何かを犠牲にして子育てをするという考えが、そもそも間違っているのです。子育てを義務、あるいは重荷と感じていると、仕事も家庭も全て歯車が合わなくなり、一緒に幸せになるチャンスを与えられた家族なのに、負のスパイラルで共に不幸に落ちてしまいます。

 子供という、無限の可能性を持った存在の成長を助けるのが子育てです。この素晴らしい創造のプロセスに比べれば、音楽家としての創作活動など色褪せて見えるほどです。子育て中の皆さんは、どうか今の特別な時間を心から楽しんでください。

 

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人生の勝ち組って?

 現代社会での「勝ち組」あるいは成功者と呼ばれる方は、ほぼ例外なくお金をたくさん持っています。

 でも、お金そのものは何らの価値も持っていません。実際にはお金を通じて交換される物品やサービス、経験にこそ価値があります。そのため、お金を介した豊かさというのは、お金が通用する社会で物品とサービスが行き届いた状態においてのみ実現が可能です。

 この条件の揃った社会では、お金があると、様々なサービスや物品を自ら産出しなくても良い状態になりますから、いわゆる「やりたいこと」にエネルギーと時間を集中することができます。そのため、皆が「やりたいこと」を職業として選択し、そこでの働きに応じてお金を得て、自分では生み出せない物品やサービスを買うという生活様式が成立します。つまり、個々が得意とする専門的な仕事を分業し、お金を介してお互いのサービスを交換し合うというシステムが構築され、社会全体としての効率性と安定性が確保されます。

 しかし、個のレベルでは、お金儲けに失敗するとすべてに不足するような貧しい生活に陥る危険性とも隣り合わせになります。一方でお金儲けに大成功すると、召使を雇って、家庭内の日常業務すらも他者に任せてしまうことができ、やりたいことと趣味以外には文字通り何もしなくても快適に生きることができます。つまり、お金という媒体を使って、完全に他者に依存して生きるという特権を得られるわけです。ただし、そのお金が通用するシステムの内部においてのみ有効な特権ですが…。

 このようなシステムで生きていると、「豊かな人生を送りたい」と言う願いは、ほぼ自動的に「お金をもっと稼ぎたい」という願望に置き換えられてしまい、現在お金を生んでいる職能にさらに時間とエネルギーを投資して、何とか収入を増やそうとします。そうすると、ますます「自分のにできること」は現在持っている職能の周辺に限られ、生活に必要な物品やサービスの他者への依存は深まり、豊かさを得るための切り札はお金しかなくなってしまいます。そうなると、何がなんでもお金を増やすことでしか豊かさを得る手段は無くなってしまいます。

 長年音楽家として生きるなかで、現代の社会システムで貧困であることの辛さは骨身に染みて味わってきました。自己探究の末に見つけた「やりたいこと」がすでに雇用先が多数存在している仕事ではなく、独自の音楽制作と演奏という特殊な仕事であったため、お金を稼ぐ道筋も独自に開拓しなくてはならず、そのために音楽以外のビジネス的な側面にも多大なエネルギーを吸い取られ、思ったほど音楽に集中できない状況にも陥りました。しかも、どれだけ頑張っても、生活に必要なものを手に入れられるに十分な収入に達することすら難しい。健康増進のために使える時間もなければ、家族に健康的な食品を供給したくても、高価なオーガニック食品には手が出ないから、どうしてもジャンクな食事が増えて体調も悪くなる。頻繁に故障する古い中古車の修理のたびに銀行口座に微々たる貯蓄も一瞬でスッカラカンに。リーマンショックの後は、クレジットカードも全て差し止められて借金もできない。そんな中、コンサートツアーを開始するための資金が不足し、子供の貯金をかき集めて航空券を買うこともしばしば。ツアー先から最初の仕送りをするまでは、家族はギリギリの生活をして耐えている。高額な民間健康保険には入れないから、病気になってもじっと自宅で療養するしかない…などなど。正直、死んだほうが楽だと思ったことが何度もありました。

 おそらく、社会保障制度が充実している日本では、これほどの貧困を経験することはあまりないと思いますが、これほどのどん底を経験すると、お金以外の方法で物質的豊かさを得る手段を考えるしかありませんでした。

 収入が限られているなら、無駄な支出を抑えるしかありません。しかしこれには限界があります。これ以上節約できないところまで切り詰めると、そこから先はサービスを自ら提供するしかありません。つまり、自給自足、 DIYをベースにした生活への移行です。料理、食品加工、自動車修理、土木建築作業、農作業、家周りや道具類のメンテナンス、ウェブサイト管理、レコーディング作業、ビデオ編集、写真加工などなど、なんでもやりました。こうなると、好きも嫌いもありません。やりたいこと、やりたくないことなどと贅沢も言ってられません。やらないと生きていけないからです。

 お金の量が幸せの量と比例するという常識からすると、このような生活を強いられている音楽家は、この上なく悲惨であると映るでしょう。しかし、他者への依存、すなわちお金による問題解決という手段から離れる努力をすることで、多種多様な技能が訓練され、期せずして音楽だけに従事していたら決して使わない能力を開拓する機会に恵まれました。その結果、自己開発の面で大いなる成果を得たと同時に、多岐にわたる様々な経験という、お金では手に入らないものを得ることもできました。

例えば…
●他者への依存が減ったことによって生存への自信と確信が増し、恐怖や不安が少なくなった
●様々な職能に触れることで、あらゆる職業への心からの尊敬を感じられるようになった
●全人間的な能力開発を強いられたおかげで、音楽の技能が向上した
●日常生活の中で心身の能力をバランスよく用いる習慣ができたおかげで、健康が増進した
●自然の厳しさと恩恵に触れる機会が増えた
●人間が生きるということの全貌への理解が深まった
●いろんなことをやればやるほど、新しいことの習得能力は加速度的に向上し、「一芸は諸芸に通づる」ということを実感しながら学びを楽しめるようになった
●様々な分野に触れることで、いろんなものへの目利きが効くようになった
●お金を介さない人間関係で仲間と助け合える喜びに恵まれた

 結論を言えば、自ら様々なことをやれる能力が向上したことで、期せずして音楽家としての能力も向上し、生きる幸せも見出すことができたのです。

 人は本来、社会的生物である以前に、自己完結的な生物でもあります。つまり、生活に必要なものは自ら調達できる基礎的能力を一通り備えて生まれています。そのため、物品やサービスの供給などの生存上の問題解決に際しては、本来「自らで解決する」か「専門家を雇って解決する」という2択から自由に選択できるようになっています。往年の名作テレビシリーズ「大草原の小さな家」のお父さん、チャールズのような立場をイメージしていただけるとわかりやすいかと思います。

 とは言いながらも、何事においても得手、不得手というのはありますから、社会分業という形態の中でそれぞれが得意なことに集中することで、種全体としては生存の効率を上げることが可能となります。しかし、社会分業が行き過ぎると、個の本来持ち合わせている全般的な生存能力の開発は犠牲になります。そうなると、問題解決に際しての選択肢から「自らで解決する」という可能性はほぼ消滅し、「専門家を雇って解決する」という選択肢のみになります。その結果、豊かさを求めるためには、お金が絶対不可欠となり、ますます広範な人本来の能力開発の機会は少なくなってしまいます。その上、職業に貴賎をつけて収入やステイタスによるピラミッド階層が作られ、皆が上を目指して競争し、勝ち組、負け組が別れる仕組みになっていますから、一度貧乏に身を落とすと、豊かさを手に入れることも、そこから抜け出すことは大変難しくなってしまいます。そのため、常に不安と恐怖を抱きながら一度手にした収入源を手放したくない一心で、やりたくない仕事、良心に反する仕事であっても続けざるを得ないという心理状態に追い込まれてゆきます。つまり、ある程度安定した収入を得ていても、幸せとは程遠い状態に置かれる可能性が高いのです。

 子供の頃から、いわゆる「成功した」大人たちから、「世の中甘くない。負けた奴らは努力が足りないからだ。努力して勝ったものがいい思いをできるのは当然のことだ。そういう厳しい競争の中からこそ人類の進歩もあるんだぞ。」と聞かされてきました。なるほど。では、そうおっしゃるあなたは、安い賃金で働いている「負け組」が生み出してくれるサービスや物品がなくても生きていけるのですか?もちろん、生きていけませんよね。何しろ、お金という媒体を使って、完全に他者に依存して生きるという特権を体現しているおかげで、人本来の生存能力はまだ赤子同然に未発達でしょうから。お金という紙切れの魔法が解けたら、ただの裸の王様かもしれませんよ。人類の進歩?社会の半数以上が幸せを感じられない状況が、人類の進歩の結果ですか?

 こんなことを言うと、負け組貧乏人の負け惜しみ、あるいは個人主義の偏屈オヤジの戯言と思われるかもしれません。しかし実際には、東京大学を卒業し勝ち組として生きられる可能性の高いコースにあったにも関わらず、貧乏と添い遂げるような人生を選択したことで人本来の幸せの可能性を見出してたことは事実ですし、自給自足の苦労を経験することで、むしろ社会分業のありがたさを身にしみて理解していますから、負け惜しみでも個人主義者でもありません。人間は社会の中でしか生きられないことを痛切に感じているからこそ、職業に貴賎をつけて貧富を巡って勝ち負けの競争するように仕組まれている社会が、いかに人本来のあり方から解離しているかも痛感するのです。

 もし今の社会のあり方に疑問を感じているのであれば、自分なりにより良い社会のあり方を真剣に模索し、そのような社会の一員であればどのように行動するかを考え、個としてそれを実践することでしか、社会の変化を期待することはできないと思います。もし、一生懸命に誠実に生きているにも関わらず貧乏に喘いでいるなら、それは人本来の生存能力を鍛えるチャンスかもしれません。生存のために必要な能力は全て神によって与えられていることを信じ、生活の中で自らの手で行えることのレパートリーを徐々に広げて、人本来の生存に近づく努力をしてみてはいかがでしょうか。

 心身に深く根差した経験は、生きている間には本当の喜びと幸せをもたらし、肉体の死後も自己の一部として残る可能性がある。そのかけがえのないものをお金のために犠牲にするのは、あまりにも割に合わない取引である。

 これが真理であるかどうかは証明できません。ただ、音楽という形のないものの神秘に人生を捧げるものとして、そう信じています。