今、凡人にできることは?

 大量破壊兵器を世界中の大小様々な国が持ちたがり、環境問題は人類のコントロールできない様相を見せ、生きてゆく上で最もベーシックな水や食料の安全性を犠牲にしてまで経済性が優先され、物は捨てるほど有り余っているにも関わらず、世界のいたるところで貧しさが蔓延し、知識と情報が際限なく氾濫する中で、人にとって本当に大切なことに関しては無知が進んでいます。それに、今回のCovid-19のパンデミックで露呈した現代社会の構造的な脆弱性。そんな中で、「なんだか、世の中けっこうヤバいよなあ」という漠然とした危機感を抱いている方も大勢いるのではないでしょうか?

 

 しかし、その危機感もそれほど切羽詰まったものではなく、「なんだかんだと言いながらも、今日も旨い物食えたし、それなりに楽しいこともあったし、まあ、それほど大袈裟に考えなくても大丈夫なんだろうよ」という風に、「ヤバい」感じを黙殺し、何を変えるということもなく、日々過ごしてしまいます。まれに、身の回りで起きたことや話題のニュースがきっかけとなり、「ヤバい」という感覚がひときわ強く感じられることもありますが、それでも、「騒いだところで、自分のような凡人にできることは何もない。きっと、素晴らしい思想や政治力で世の中を変えてくれるようなリーダーが現れて、そのうちになんとかしてくれるだろう。」と自分では何もやらないことを正当化しつつ、来たるべき救世主にすべてを押し付け、尻をまくって責任放棄をしてしまいます。結局のところは、現在の生活習慣や人生観、価値観を見直して、世の中の改善に貢献できる新たな生き方を模索するのは、非常に骨が折れることなので、できれば自分では何もしたくないのです。そのかわり、平凡な自分とは違う素晴らしい能力を備えた少数の選ばれた救世主が、世界を大改革をしてくれることを期待しています。

 

 このような当事者意識の欠如した立ち位置は、一見すると自分を平凡と認めていることで謙虚さを装っていますが、実際のところは、謙虚さを隠れ蓑にした怠慢です。平凡だろうが非凡だろうが、それぞれが進めるだけ進まなくては、何も変わりません。天才一人が1000歩進めるよりも、凡人1000人が一歩ずつ進める方がずっと効率的です。エイブラハム・リンカーンは、「神は凡人を最も愛されているに違いない。そうでなかったらこれほどたくさん凡人をお作りにならなかっただろう。」というようなことを言ったそうですが、まさに凡人は数の上では天才を遥かにしのいでいるので、凡人たる個人が、自分の環境と能力の許す範囲でできることをすることによってこそ、世の中全体が大きく変わるのだと思います。

 多くの人類が「ヤバい」という感覚を覚えるということは、大勢の優れたリーダー的立場の人物がその危機感を積極的に発信し始めているからであるとも考えられます。身体の不快症状が、体が疾患による異常を警告してくれているサインであるように、多くの人類が世の中のあり方に不安という「不快症状」を抱き始めたということは、そこに対処すべき何らかの疾患があるからに他ありません。

 

 人体の場合、具合が悪くなるとまず働くのは病巣部の細胞や免疫機能です。そして、脳が不快感や具合の悪さを認識すると、脳が身体全体としての対応策を考え、必要な治療行為を施したり生活習慣を改善したりして、具合の悪い部位が自らを修復しやすい体内外の環境を整えようとします。それでも、最終的に自らを修復するのは、病巣部にいる当事者の細胞達です。世の中も同じように、優れたリーダー達は、社会構成員が自らのあり方を改善するために必要な社会環境を整えてくれるかもしれませんが、実際に変わらなければならないのは社会構成員自身、つまり我々凡人達です。

 

 では、個々がどう変われば良いのか?

 

 それは、おそらく外から明確な答えを与えられることはなく、一人一人が当事者として問題と向き合い、皆がそれぞれに自らの手で答えを見出してゆくものだと思います。

 

 

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