(連載)田舎暮らしのための意識改革ー(10/最終回)雅(みやび)から雛(ひなび)風流へ

 長い連載にお付き合いいただき、ありがとうございました。今回で田舎暮らしのための意識改革シリーズも最終回です。

 

 田舎では、音楽演奏会や演劇、ダンス、絵画や写真の展覧会、講演会、洗練された飲食店での外食などの文化的なアクティビティに触れる機会は、都会に比べると非常に少なくなります。おそらく、自然に近い田舎での生活に概ね満足していても、文化活動が少ないということに関しては不足を感じる方も多いと思います。

 都会では日常的に接することのできるような文化的な経験を、田舎での生活で期待することは難しいのですが、田舎には田舎ならではの風流があります。ただ、それは、それを見出そうとする少しばかりの努力と、それを生活の中に取り入れる少しばかりの工夫が必要です。古来、日本人は、雅(みやび)と鄙び(ひなび)の両方にそれぞれの美を見出す心を持っています。田舎では、雅を期待することは難しくても、鄙びの風流を楽しむ機会は多くあります。

 例えば、ここでは美しい劇場で素晴らしい歌手とオーケストラによるオペラを観劇する機会はありませんが、馬の水桶を改造した風呂桶にお湯を張って、満点の星空を見上げながら露天の風呂に浸かり、ビールを片手に虫の鳴き声に耳を傾けることはできます。高級な花屋さんで生けてもらった見事なフラワーアレンジメントは手に入りませんが、季節に応じて咲く野花を摘んで、いつもフレッシュな切り花を楽しむことができます。世界的に有名な弦楽四重奏団の生演奏を聴く機会はないかもしれませんが、いろんな鳥の鳴き声、林を吹き抜ける風の音、恋を語りあうカエルの合唱、畑にこだまする虫の音、静けさに染み入るような雨音、遠くに響く狐やコヨーテの遠吠え、それに何よりも真の静けさを経験することができます。これら自然が与えてくれる芸術を楽しむ心があれば、あとはそれを楽しむ場面を自分で作ってやれば良いのです。

 大芸術家のレオナルド・ダ・ビンチは、自然にこそ芸術の根元を見出していました。彼曰く、
「理解するための最良の手段は、自然の無限の作品をたっぷり鑑賞することだ。」

「誰も他人のやり方を真似すべきではない。
なぜなら、真似をすれば自然の子供ではなく、自然の孫でしかない。
我々には自然の形態がたくさん与えられているのだから、直接自然に触れることが大事だ。」

 ただぼんやりと月を眺めるのは退屈だというのであれば、うまい肴で一杯やりながら月を眺めれば良いし、朝早くから表に出て美しい朝日を見るのは億劫ということであれば、美味しいコーヒーを飲むついでに朝日を眺め、今日何をしようかなあとぼんやりと考えればいい。こういうちょっとした工夫で、無限に与えられている自然の美に触れる機会を増やし、日々の生活の中で鄙びな風流を楽しむことができるのです。

 田舎での生活では、ともすると荷重な肉体労働と、現金収入の不足から大きなストレスを感じてしまいがちです。そのストレスで疲弊して、田舎での生活の負の部分にばかり目を向けて、都会での生活を懐かしむようなことになってしまうと、田舎暮らしを続けることは難しくなります。都会で手に入っていた経験は、どれだけ望んでも田舎では手に入りません。しかし、ダヴィンチが言うように、「自然の無限の作品」はたっぷりあるのです。その作品に気がつける心にゆとりがあれば、都会では手に入らない素晴らしい経験が待っています。何気ない自然の美しさ、日々の生活の小さな幸せを、当たり前のものとして見過ごすのではなく、それを味わうことで、慎しい生活の中でも物質的豊かさに影響をされない真の心の豊かさを見出すことができるようになるでしょう。そして、このような風流の心を身につけたなら、好きな時に一流演奏家の音楽会と贅沢なレストランでの食事を楽しめる都会での生活に負けないほどに、文化的な日々を送ることができます。

 

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