火のある生活


 暦の上ではもう春なのに、まだ朝晩は冷え込むため、ほぼ毎日薪ストーブに火を入れてます。その度に、祖父の家で五右衛門風呂を湧かすという大人公認の「火遊び」を楽しんだ子供時代を思い出します。手早く安定した火をおこすには、薪の組み方、火の勢いを落とさない薪をくべるペース、空気を送るタイミングなど、色々とコツがあるのですが、これら基本的なことが子供の頃に自然と身に付いていたお陰で、薪ストーブの火おこしの日課にもすぐに慣れることができました。

 手早く火をおこすには、よく乾いた薪と、着火時にすぐに火が燃え移るサイズの小枝や細い薪を準備しておくことが大切です。森の中に住んでいるので、小枝集めに苦労することはありませんが、前もってこまめに乾燥した枝を集めておかないと、雨の日に泣くことになりますから、夏場から枝を集めて濡れないところに保管しておくようにしています。薪割りは楽ではありませんが、慣れてくると時代劇の剣客のようにかっこ良く一振りで割れるようになり、結構楽しいものです。

 もしかしたら、子供のときに日常生活で火を使わなくてはならないという状況(例えば五右衛門風呂やマキストーブなど)を体験をすることができた最後の世代は、我々昭和40年代生まれの世代なのかもしれません。考えてみるに、火をコントロールできる能力は、人類を他の動物とは異なる存在にしている決定的な要素ですが、実際に火をおこしそれを使って何かをするというような日課が生活から消え失せたことは、現在の先進国での生活が、人類の根源的な生活状況から遠く離れてしまったことを象徴しています。

 もちろん、人口の密集している都市でそれぞれの家庭が薪を使って火をおこしたら、煙でとんでもないことになってしまいますから、都市生活が基盤となっている現在の社会では、日常生活で火を使うことは非現実的です。それは分かっているのですが、子供達がスマホのアプリやコンピュータを驚くべき能力で使いこなせても、小さな焚き火ひとつおこすことができないというのは、いかがなものかと。このような社会の仕組みがずっと続くのであれば、火など扱えなくても何の不自由もなく生きていけるのだから、田舎のおっさんが心配するようなことでもないのかも知れませんが、でも、やっぱり何か大切な経験を欠いているような気がするのです…。

 

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