無心である喜び

無心である喜び

 

 生きることに真面目であればあるほど、何事においてもその意義と目的を考えてしまいます。音楽家が、何をどのように、何のために演奏するのかを明確にして楽器に向かうのことは、むしろ褒められるべき正しい心がけですが、最近は何も考えずに、ただ無心に目の前のことに向かうのも悪くないと感じています。

 

 草木に目をやると、そこに存在し続けるということ以外の目的を持っていないかのように、そこで淡々と生きています。花を咲かせ、種を結び、枯れてまた新芽を吹く。もちろん、光合成によるガス交換、地中の有機生命体との関わりなど、全体の生態系の中での役割を担っているという見方も出来ますが、そんなことは、彼らが意識して作った目的ではなく、全体としての存在の関係性による相対的な目的に過ぎません。草木ですら、ただそこに存在するだけでも十分に美しく、そのことだけで十分に目的を果たしているとすると、人間が確固たる目的やゴールもないままに何かを行う時間、あるいは何もしないでぼうっとしている時間も、確固たる目的に向かって意識的に努力をしている時間と同様に、意義深いものに違いありません。

 

 音楽家は、向上心を持っていればいるほどいろんなチャレンジを自分に課し、常に心を張り詰めて音楽に向き合ってしまうのですが、時折無心に音楽に向かうことで、忘れかけていた音楽に対する無邪気な喜びを思い起こすことができるように感じます。これは、どんな職業においても同じではないかと思います。コンサートの準備や製作の仕事とは関係なく、純粋な興味から楽器を使っていろんなことを実験して遊んでいると、時間を忘れて夢中になってしまいます。そんな時には「ああ、やっぱり自分は音楽好きなんだなあ。」と、今更ながらに驚きを伴う新鮮な自己認識を得ることができます。

 

 何か具体的なことへの意欲も欲求も感じられないときには、しばらく無心でただ寝っ転がって空を見ていたって構わない。さっき食ったメシを消化するまでは、そうしているのが最も神の御意志にかなっていることかもしれません。そのうちに、心に何かが湧き上がってくる。それこそが、次に本当にやるべきこと、天命なのかもしれません。

 

 

 

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