消費・浪費は良いことなのか?

 以前、買ったばかりのデジカメのレンズにキズがついてしまった時に、メーカーにレンズ交換の修理の問い合わせをしたところ「自社ではレンズの修理は扱っておりませんが、レンズ修理を請け負っている会社をご紹介できます」とのこと。ただし、「その場合は、カメラ自体のお値段よりも修理代の方がお高くなりますが、よろしいですか?」って.....よろしいわけないやろ!

 時代遅れの感覚なのかも知れませんが、修理したら使えるものを捨てて新しいものを買うことに、とても大きな抵抗感を感じるので、メーカーや販売店に修理の問い合わせや修理部品の取り寄せの相談をすることも多いですが、ほとんどの場合、電気製品に限らず、ちょっとした農具やクツ、カバンなどでも、「修理するより新品の方が安いでっせ(もちろん、英語で)」という回答です。そう言われて、こちらがどうするべきか悩んでいると、たいていは「同じ値段で新品が買えまっから、悩むことないでっしゃろ。(実際には英語で..)」と、買い替えを勧められます。まあ、お金のことだけ考えたらそうなのでしょうが...。確かに、このような状況であえて修理にお金を使う消費者はほとんどいないでしょうね。

 それでも、金銭的には、損を覚悟でできるだけ修理をします。業者を頼む余裕がないときは、自分で修理を試みます。そうやっているうちに、自動車や家周りのインフラ設備に関しては自分で修理できることも多くなりましたが、やはり全てを修理することは無理です。自分でも修理できない、業者を雇うこともできないとなると、結局のところ、ポイ捨ての風潮に乗っかってしまっています。

 消費が増えればお金が回る、お金が回ればGDPもあがる、GDPが上がれば豊かになれる..というような資本主義的な豊かさのモデルの理屈でいえば、ポイ捨てして新しいものを買うことはむしろ良いことなのかもしれませんが、そうすることで自分の大切な部分もポイ捨てしているような気持になります。

 環境問題の根本的な原因は、資源の過度の浪費にあると思っています。消費を奨励するような社会や国家のあり方は、このまま続けられるものではなく、完全に破綻してしまう前に新たな仕組みを見出すべきだと思っています。そのために、個人としては少しでもその片棒を担がない生き方をしたいと努力しているつもりでも、今の仕組みの中で社会の一員として生活している以上は、結局のところは、しっかりとその片棒を担いでしまっています。 生きるということは、本当に矛盾に満ちています。

 こんな自分の偽善に気づくと、ほとほと嫌気がさして 無力感に襲われることも多々ありますが、そこで開き直って「世の中こんなもんさ」と何もしないのは、無邪気に何も考えずただ浪費しているよりもタチが悪い。ほんの小さなことでも何かした方が善いに決まっていますから、矛盾に苦しみながらもできることを少しずつやるしかありません。

 

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