貧困と恥じ:音楽家の目から見たアメリカ社会の富の配分についての一考

貧困と恥じ:音楽家の目から見たアメリカ社会の富の配分についての一考

 毎日の生活に追われていると、時折、貧困を恥ずべきことだと思ってしまいます。しかし、本当に、貧困は恥ずべきことなのでしょうか?

 音楽家として生きて行く道を選択した初期には、音楽をビジネスと考え、自己啓発やマーケティング、ミュージック・ビジネスなどの方法論を学んで実践した時期もありました。アメリカで開発された自己啓発的なメソッドでは、「自分が本当にやりたいと望むことをやれば、お金は後からついてくる」とか、「収入は自分が社会に提供しているものの価値に比例する」というようなフレーズを耳にします。自分も、このことをある程度このことを信じて、一生懸命いろんな形で音楽サービスを提供することを試みたのですが、結局のところ、お金を目的にするとマーケットに寄り添う形となりやりたいことが出来ず、逆にやりたいことを優先させるとなかなかお金にならないという矛盾に苦しむことになりました。

 例えば、大きな企業や政治団体などのパーティーで演奏すると、かなりのギャラがもらえます。そのかわり、ほとんど誰も演奏を聴いていませんから、やりがいは全くない。以前、某リベラル政党のパーティーで2時間ほどバンドで演奏したことがありました。規定の演奏時間が終わりイベント担当者に「約束の時間が来たので、ギャラを下さい」と言ったところ、彼はバンドが演奏していた2時間の間すっとおしゃべりに夢中だったらしく、「お前ら、本当に演奏してたのか?気がつかなかったけど..」と言われ、半ばいぶかしげにギャラを渡されたことがありました。その反対に、ほとんどチップだけしか収入が見込めないようなライブでは、本当に一生懸命に演奏を聴いて感動してくれる方にたくさん巡り会えます。しかし、このようなライブをたくさんこなしていては、経済的に疲弊してしまいます。

 この種の話は日常茶飯事で、音楽家仲間の間では、音楽を聴く気がないクライエントほど、高いギャラをくれるという経験則を皮肉って「ミュージシャンの方程式」と呼ばれています。このように、しばらく音楽家をやっていると、提供している音楽の芸術としての有用性と、それによって稼げる金額は連動していないことが経験的に明らかになってきます。

 なぜ、芸術家として質の高いサービスを提供しても、自分のところにお金が来ないのか?

 なぜ、一所懸命働いているのに、必要な時に必要なものが買えないほどの貧困を味わうことになるのか?

 自己啓発のメソッドに従えば、自分のサービスにそれだけの社会的価値しかないからだということにもなります。医療保険もない、壊れた車修理に出せない、次の家賃もままならない、電話も止められるというような経済的に切迫した状態で、貧困=社会的に役に立っていない=自分には存在意義がない、という一見合理的に見えなくもない考えにはまってしまうと、自殺などという考えまでが頭をよぎるようになります。

 しかし、「収入は自分が社会に提供しているものの価値に比例する」という考え自体が間違っているとしたらどうでしょう。

 世の中には、収入につながらないけれども価値のあるものがたくさんあり、むしろ、本当に人間を幸せにするもののほとんどは、値段のつけられないものであることに改めて気づく必要があります。例えば、友情や隣人同士の思いやり、家族愛、自然や芸術の美しさへの感動、正しい行いをする喜び、真理の探究など、お金がある無しに関わらず万人に平等に開かれている幸せがあり、お金を介さずにそれらに直接歩み寄ることで、貧困の中にも幸せを感じられます。貧困であっても、幸せを実感できるのであれば、多少のお金を稼ぐために不本意な競争をしたり、自分を大きく見せる努力をしたりすることでストレスや不安を抱え、不幸せになっているよりは良いのではないでしょうか。

 そもそも、現代のアメリカ社会において、提供したサービスに対して正統な対価が支払われる仕組みが機能しているのかということにも、疑問を持つべきです。自分だけでなく、ほとんどみんなが生活に困っていて、生活必需品を得ることに精一杯で、芸術に使えるお金などないのではないか、と。

 アメリカは、国民が平等の権利を持つ自由の国というイメージがありますが、少し調べてみると、富の分配に関しては、近年貧富の差がものすごいことになっていることが分かります。

 ここで少し具体的な数字を紹介します。

 アメリカ全体の富の40%を、人口の1%=最富裕層が所有しています。残りの60%の富を仲良く残りの99%の人達で分け合えているかと言うと、全くそんなことはなくて、上から2割の富裕層で、全体の93%の富を所有しています。つまり、自分も含めた残りの80%の人々で、全体の富の7%を自由競争により奪い合っている状況になっているのです。アメリカという国自体が裕福な国なので、わずか7%の富を8割の国民で分け合っていても、なんとか庶民の生活は回っていますが、国富がもっと小さな普通の国なら、このような富の再分配の不平等があると、餓死者が出て暴動が起こるような事態になっても不思議はないでしょう。世界第一の先進国を誇っているアメリカですが、この貧富の差は、発展途上国的並みのひどい状況といっても過言ではありません。

 人口の1/6が貧困層としてフード・スタンプと言われる食料の補助を行政(税金!)から受けています。失業者と普通に仕事をしていても貧困に苦しむ人が6人に1人の割合でいるのです!なるほど、生活必需品でないサービスを提供している芸術家が生活に苦しんでいることには、何の不思議もないわけです。

 経済学は専門ではないので、自分の解釈には間違いがあるかもしれませんが、もともとは、トリクルダウンという理論により、富裕層から富が貧乏人にまで行き渡ることを期待して、レーガン政権下において富裕層の減税や金融経済の自由化が行われたそうです。しかし、その期待とは裏腹に、貧富の格差が拡大し、トップ1%の富裕層がすべての株式やファンドの50%を所有する状態にまでなり、投資も国内ではなく新興国に流れ、お金は上に吸い上げられたまま下に落ちてこなくなり、政府財政も悪化しさらにFRBから借金をすることでますます金持ちを富ませ、国民の税金はFRBへの借金返済に吸い込まれ、貧富の差はますます広がりつづけているようです。

 プライベートイベントでの演奏の仕事を受けて、医師や政治家、実業家など、お金持ちのお宅に出入りする機会があると、その度に、彼らと自分の物質的な生活レベルの違いに驚かされます。日本で見られる貧富の差とは比べ物になりません。一番凄いお宅には、自宅に30人くらい座れる映写室(ミニ映画館)がありました。以前は、そうやって、破格のお金持ちが音楽家を雇ってお金を使い、トリクルダウンで音楽家に富を分配してくれていた富裕層がいたことも確かですが、2008年のリーマンショック以降、コーポレートイベントやプライベートイベントの仕事が激減し、富のしずくが下の方まで降りてこなくなったという印象を持っています。現在、アメリカ経済は好調と言われていますが、音楽ビジネスにおいては以前ほどの賑わいを感じませんから、この傾向は継続しているのかもしれません。

 国の富の7%を人口の80%の間で競争によって分配する社会に暮らしていて、貧困を恥と感じることはナンセンスだと理解していますが、習慣とは恐ろしもので、冷静さを失って自分の経済状態を眺めたときに恥の気持を感じることもあります。

 アメリカでは、ある人物に200億円の収入がある場合に、しばしば「彼には200億円の価値がある/He is worth 200 million dollars.」という表現が用いられます。この感覚で言うならば、多くの未だ無名の真摯な芸術家には、数万円の価値しかないことになります。このような、字義的に「人間の価値=収入額」ということを連想させる表現が普通に使われる社会においては、貧困を恥じと感じてしまうのも無理のないことかもしれません。このような表現が用いられる背景には、「人間の価値=収入を生む能力」という行き過ぎた資本主義的な人間観があるのでしょう。

 これだけ大勢の国民が貧困であるということは、物質的に見ると悲惨なことなのですが、このような状況で、多くの国民が物質的なものに依存することなく本当の幸せを感じられるライフスタイルを見出すことができたら、多量消費による環境問題などの危機が叫ばれている現代社会にとっては、そこから脱却するための新しい方向性を見出せるきっかけとなるかもしれません

 戦後、日本では何でもかんでもアメリカの方が優れているという前提で、アメリカの方法論を学ぶという空気が支配的だったと思います。 アメリカの音楽に憧れ、現在もアメリカでジャズミュージシャンとして暮らしている立場としては、この点に関しては偉そうなことは言えないのですが...。しかし、納税者としてアメリカ社会で暮らし、子育ても含めいろんな形で社会に関わってみると、明らかにすべての側面で歪みと無理が生じ、理想的な共同体ではなく、かなり病的な共同体になっていることが分かります。アメリカ人の70%が他人を信用していないという統計も目にしたことがあります。過度の競争社会の結果、社会構成員がお互いに対し疑心暗鬼になる傾向が強まったのでしょうか。

 日本人としては、アメリカに追従するのではなく、アメリカの失敗に学び、 共同体として2680年の実績を持つ日本流の社会のあり方の価値を再認識し、健全な発展を目指したいものです。

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