生き物を飼うことに伴う死の受容


 現在、このファームにはヤギが10頭、豚1頭、ニワトリ60羽、犬8頭、猫5匹+生まれたての子猫4匹、人間2頭が暮らしています。

 これだけ生き物を飼っていると、動物の死に直面する機会も多くなります。先日も、急に寒さがぶり返した夜に、雨に濡れた子ヤギが低体温で具合を悪くするというアクシデントがあり、危うく幼い命を失うところでした。こういうトラブルに加え、食肉用に飼っている動物は屠殺によって命を奪うことになるので、ファームでは日常的に生死を直視することになります。

 ペットは言うに及ばず、肉用の動物であっても、飼っている動物を事故や病気で死なせると、なんとも言えない罪悪感と後味の悪さを経験します。命にはかならず終わりがあるという大前提を理解しているつもりでも、これを自然体で受け入れるのは容易ではありません。命との関わりにおいては、冷徹な割り切りか、あるいは、センチメンタルな過剰な反応のどちらかの極に触れてしまいがちで、両極に触れることなく血の通った感情を保ちつつ冷静に受けとめるというのは、なかなかに難しいものです。

 ファームを続ける限りは、自然死する動物、変死する動物、自らの手で命を絶って食料とする動物の命と向き合うことになりますから、これからも、この割り切れない気持ちとつきあうことになります。

 直接生き物の生死と関わっていなくても、食べ物が全て動植物の屍体であること、その屍の山の上に自分の命が成り立っていることを想起しすれば、食事という毎日のルーティーンのなかで生死に関して想いを致すことができます。「いただきます」「ごちそうさまでした」という習慣は、このことを忘れないようにさせるための先人の知恵なのかもしれません。

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