新たな資源としてのサイバー空間のリスク(2)

 

 生身の生き物としての人間には、動物としての体臭もあれば、それぞれに話し方、振る舞い、表情、顔つき、体つきなどに個性があり、そういう肉体からにじみ出る印象全体によって全人間的なコミュニケーションが成立しています。アメリアのような多種多様な人種、文化、思想、信条のが混じり合っている環境で生活していると、顔つきが気に入らない、わきが臭い、口が臭い、話し方が鼻につく、立ち居振る舞いが好きじゃないといったような表面的な好き/嫌いの反応を乗り越え、本質的な深い部分での人間関係を結ぼうとする相互努力が、人種や文化、生育環境などの表面的な違いを越えた真の意味での同胞愛や信頼関係を産むためには不可欠であることを痛感させられます。

 しかし、サイバー空間でのつきあいでは、顔つき、体つき、話し方、声、立ち居振る舞い、表情、体臭、その人から漂う雰囲気などは排除されていますから、ある意味、より純粋な心の交流を妨げる要素は少ないと言えるかもしれません。しかし、遺伝的につながっている最も近い個体同士であるお父さんを「加齢臭」で毛嫌いをしたり、親子間でのを日常のやりとりをうっとうしいと感じる状態がさほど異常とも感じられないような社会状況にあって、サイバー空間で人種や文化の異なる数多くの人間とのグローバルなつながりが広がったとしても、それを本当のつながりと呼べるのでしょうか?

 家族同士では、始終お互いに動物的な部分から知性的な部分までをさらけ出して一緒に暮らしているため、その中でお互いを尊重できる関係を築くことは、決して簡単ではありません。イタリア人との最初の結婚では、考え方の違い、文化の違いの壁を乗り越えることができず、結局離婚することになってしまいましたから、この難しさは身を持って経験しております。このように、努力が実らず結果として失敗に終わったとしても、そのような生身の人間同士のつきあいの中で快・不快の両方を経験しながら人間関係のスキルを磨くことは、社会的動物である人間が生き抜くために課せられた必須課題であり、試行錯誤から学ぶことで少しずつ人間としての器量が上がってきます。

 生活スペースを共有していると、朝起きたばかりの息や汗をかいたあとのワキの臭さは我慢がならないかもしれないし、トイレの使い方が気に入らない、態度が気に食わない、立ち居振る舞いがいちいち鼻につく、イビキがうるさいなど、お互いに不快に感じることは際限なくはあるでしょう。家庭という場は、そのような生身の人間としての有様を拒絶することなく、人間の自然なあり方のバリエーションとしてお互いを受け入れ、そのような表面的な違いを超えてお互いへの愛を実践する努力を学ぶ場であります。子供達が家族に対してそのような愛を自然と実践することができるようになるには、両親の結婚関係においても、そのような努力がなくては話になりません。自分の離婚の経験を正当化するわけではありませんが、夫婦間でお互いを尊重する方向で努力するという目的を共有できない場合には、家庭を継続することは非常に難しいと思います。キリストが「まず隣人を愛しなさい」と説かれたように、同じ家に暮らす血の繋がった家族こそが、最も自然に愛を実践しやすい対象なはずです。しかし、親子や家族同士の間ですらお互いへの愛情を育めないとしたら、どれだけサイバー空間でグローバルなつながりが広がったとしても、他の民族や他の生き物達と調和のもとに暮らせる望みなどは、全くないと思えるのです。

 サイバー空間という資源によってもたらされた便利さによって、仕事の効率が圧倒的に上がり、家族や友人とのリアルな人間同士の付き合いのために使える時間が増加したのであれば、人類はこの新しい資源を上手に活用していると言えるでしょう。しかし、現状では、リアルな人間同士の付き合いの機会にも、スマートフォンでメールや意思疎通のやり取りをしなくてはならない状況が多くなり、全体としてはサイバー空間でのつながりを広げるためにリアルなつながりが犠牲にされているように感じられます。家族間での人間関係などには目もくれず、友人やサイバー空間上でのつながりに多くのエネルギーを割く子供達が増え、もしかしたらその親たちも、そうなってきているのかもしれません。携帯電話やスマートフォンの普及で、オフィスや自宅にいなくてもコミュニケーションが可能となり、便利さが増した一方で、町を歩いているとき、電車に乗っている時、買い物をしているときなどに経験できる一期一会の不特定多数の人間同士のつながりは、むしろ稀薄になっているように感じます。このような日常生活で偶発的に出会う相手との短いやり取りや人間同士のふれあいも、社会にとっては不可欠な大切な要素だと思うのですが…。

 たとえ、サイバー空間でグローバルなつながりが無限に広がったとしても、それが生身の人間同士での「愛」を実践するために必要な人的資質に取って代わり、世界に調和と平和を生み出していく原動力となるとは到底考えられません。サイバー空間での世界で活発に世界平和を唱えながら、日常生活で空間と時間を共有する隣人との人間関係を大切に感じることできないのであれば、それは偽善的、独善的な自己満足にすぎません。

 今後、ますますサイバー空間の活用が広がってゆく中、少し立ち止まり、この新しい資源とどのように付き合ってゆくかを考える必要があると思います。

 

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