世界の大きな流れの中での個人のありかた


 ニュースを見れば、環境破壊、資源の浪費、貧富の格差、食品安全性の問題、医療の進歩にも関わらず次々と現れてくる新手の健康問題、世界各地での独裁的な指導者の横暴、紛争、戦闘、民族弾圧、テロ、大小様々な犯罪などなど、毎日、気持ちを暗くさせられる記事が溢れています。政治においては、金と経済が至上の価値観であるかのごとくに崇められ、精神性や人徳、正義は軽視され、ジャーナリズムにおいては「言論の自由」の名の下に玉石混合の様々な思想や見解、真偽がごちゃまぜとなって説得力を持って語られ、情報は氾濫し、人類の置かれた現状を公正に判断しようにも、一体何が正しいことなのかがさっぱりわからない。

 こういう苛立ちを感じることはありませんか? 

 そんな中でも、個人としてできることを真剣に考え、博愛と慈愛の理念を大切にし、お金よりも精神性を優先させ、自己にとって環境にとっても健康的なライフスタイルを実践しながら日々一生懸命に生きようとしている方は少なくありません。それにも関わらず、世界全体を見ると、ますます望ましくない方向への流れが強まっているようです。

 様々な社会問題を深く考えれば、そこでその時代に生きている自分にも責任の一端があることは明白で、当事者として行動を起こさなくてはならないと思うのですが、怒涛のごとく流れる大河のような世界において、個人などというちっぽけな存在は、一粒の水滴にすぎません。自分にできることなど、全体には何も影響を与えないという絶望感。どのように生きてみたところで、結局のところ、最悪の独裁者や利己主義者の連中と同じところに流れ着く運命なのではないか?それだったら、ストイックに良心に従って善を目指して生きるよりは、問題には目をつぶり、目先の快楽を求めて放埓に面白おかしく生きる方が得なのではないか?

 実際には、独裁者ほどの悪徳に染まることはないとしても、「まあ、今日明日は急にどうということもないだろう。そのうち誰かがなんとかしてくれるんじゃないかな」という怠惰な希望を胸に、自分は何もしないままに無責任に日々を過ごしてしまっているうちに老齢となり、「自分はもうすぐ死ぬから関係ないや」と結局最後まで何もしないままに死んでしまうという消極的な悪を犯す可能性は大いにあります。

 このような状況の中では、世の中の劇的な変化を期待してしまいます。例えば、圧倒的なカリスマ性を備えた天才的なリーダーの出現、自然災害や宇宙人来襲などの外圧によって人類全体が生存をかけて団結しなくてはならない状況、あるいは、戦争によって現在の社会の仕組みが全てがぶち壊され、人類が新たな出発をするという自虐的なリセットのシナリオなどなど…。実際に、このような他力本願のシナリオを強化してしまうストーリーの小説や映画もたくさんあります。

 このように、破壊的で劇的な手段でも構わないから、とにかくこの逼塞感を打破してもらいたいと望む空気が強くなっている結果として、世界各地でトランプ氏、ドゥテルテ氏、プーチン氏、周氏のような従来のルール無視で独善的に物事を推し進めるリーダーが出現しているのかもしれません。もし、世界的にこの空気が強まっているとしたら、この流れはこのままどんどんと進み、やがては紛争や戦争の時代へと突入して行くことも考えられます。

 しかし、たとえ人類の大きな流れが自己破壊に向かっているとしても、やはり、個人としてできる範囲でいろんな経験を積み、知り、感じ、考え、自らの良心に従って正しいと思える行動をすることをやめてしまったら、生きている意味がなくなってしまうと思えるのです。

 皮肉なことに、全体を考えて努力をすればするほど、大きな世界の流れに対する個人の無力を痛感させられます。しかし、その一方で、直接関わっている仕事や人間関係などの小さな世界では、個の存在が何らかの形で意義を生み出していることは疑いようもなく、一滴の水滴も小さなスケールでは決して無力ではないことを実感できます。一生懸命に自己を磨き、高い理念を実行し、自分の関わる小さな「世界」をより良い場所へと作り変える努力をすることで、隣人や家族との間に同じような意思が共有されるようになり、それがより大きな世界へと広がってゆく。そして、この連鎖の中で、知らず知らずのうちに、世界全体でも変化が顕れてくるかもしれません。芸術家ならではの「お花畑」の甘っちょろい考え方かもしれませんが、このような希望の力を信じる能天気さがなかったら、芸術などとういう抽象的なものに人生をかけて取り組むことなどできません。

 多くの人類が平和を実現するための生き方を実践したとしても、人類が世界大戦に突入し、核兵器や化学兵器を含む恐ろしい破壊兵器で無惨に殺し合い、多くの人々(もちろん、そこには自分も含まれているかもしれません)が死に、多くの都市が壊滅することになるかもしれません。そうなったとしても、やはり、その時に悔いなく死ねるためには、全体がどこに流れていようとも一粒の水滴として自己の信念にもとづいて生きつづけることが大切だと考えています。仮に、戦争という狂気が、種としての人類の個体数の増減の周期で起きるように設定されている不可避の本能的な自己破壊行動なら、それもまた自然の摂理。そこで起こる苦悩は、受け入れるより仕方がありません。

 仮に戦争によって人類が壊滅の危機に襲われたとしても、まだ希望は残っていると思います。数年前、アメリカ人の妻と広島を訪れた時に、原爆による焼け野原から見事に蘇った近代都市広島の姿を見て、原爆を落とした側の国民、落とされた側の国民というの立場の違いを超えて、人類と地球の生物たちの力強い生命力に深い感動を覚えました。もし、人類が自己破壊的なプロセスを選択し、世界中の多くの都市がかつての広島のような姿になってしまうとしても、人類は力強く生存を続け、新しい道で進歩を遂げて再び繁栄することでしょう。

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