ヒトはなぜペットを飼うのか?

動物との交流、人間同士の異文化交流

 

 

 人間は、なぜペットを飼うのでしょう?人間嫌いを自負していても、動物は好き、という方も結構いらっしゃいますし、トカゲやヘビ、カエルなど、ほとんど感情的な交流は不可能と思われる爬虫類〜両性類系を好む方もいますから、人間の動物への興味と愛着には、かなり根深いものがあると考えられます。

 

 現在、古佐小ファームには、猫8匹、犬9頭、鶏60余羽、ヤギ9頭がおります。フェイスブックでお友達の皆様は、おそらく「古佐小=超動物好き」のようなイメージをお持ちかもしれませんが、実のところ、ファームを始めるまでは、自分は動物嫌いだと思っていたんですよ。

 

 

 振り返ってみると、子供の頃は動物が大好きだったのですが、飼っていた動物がことごとく死んでゆくのが辛くて、ある時点で動物好きのスイッチを切ってしまい、その後は、自称「動物嫌い」になってしまったようです。

 

 小学生の頃は、いつも亀や魚、カタツムリやコオロギなどを飼っていました。ただ、母が大の動物嫌いで、家の中では飼わせてもらえなかったので、雨の日に水槽があふれて逃げ出した亀が自宅の目の前でひかれてぺちゃんこになって死んだり、夏の日差しで水槽が熱くなりすぎて魚が全滅したりと、いつも悲しい結末ばかりでした。

 

 捨てられていた雑種の仔犬を拾ってっきて2度飼ったことがありますが、最初の子犬は1年も経たないうちにてんかんが発症し、安楽死させなくてはならず、2匹目の子犬も、飼い始めてから1年で目の前で道路に飛び出し、車にはねられて死んでしまいました。

 

 その後、家の裏庭に野良猫が2匹ほど住みつき、餌をやって可愛がっているうちにペットのようになっていたのですが、猫の毛のアレルギーが発症し、大家さんからも猫はやめてくれと言われ、両親が保健所に処分を頼み、連れ去られていきました。

 

 小学生の時代に、このような動物との離別のトラウマを経験するうちに、「動物が好きだから別れが辛いんだ。動物を嫌いになれば、こんな辛い思いをしなくてもすむようになる。」と思うようになり、自称「動物嫌い」へと変わってしまいました。

 

 もともと母が動物嫌いだったので、子供ながらに動物嫌いを正当化する理由はいくらでも見いだすことはできました。毛が抜けて家が汚れる、アレルギーの原因になる、不潔、本能に任せて生きる下等な生き物、世話が大変、そして、いつかは死んでしまう。

 

 でも、やはり動物好きの本性には逆らえず、ファームを始めて一度動物を飼い始めたら、あっとという間に大所帯になってしまいました。それでも、いまだに自分の飼った動物はすぐに死んでしまうというカルマを背負っているような気がして、動物たちとの不慮の別れを恐れている自分もあります。

 

 それにしても、なぜ人間は、これほどまでに動物との交流を欲するのでしょう?

 

 動物との交流では、初期段階においては、全くお互いを理解できず、警戒心と不信感が前面に出ている状態ですが、一緒に時間を過ごしてゆくうちに、だんだんと意志の疎通ができるようになり、信頼感が目覚め、一緒にいることが喜びへと変わっていきます。

 

 このような相互理解が難しい異種との信頼関係を築く喜びは、社会的な生物としての人間には、生存のために絶対不可欠な本能的傾向として備わっているのではないでしょうか。

 

 動物との交流では、信頼関係が自然と熟成してゆくプロセスを気長に進める辛抱が必要で、焦って結果を得ようとすると失敗してしまいますから、動物との信頼関係を求めること自体は本能的な欲求であるにもかかわらず、それを実行するのは、それほど簡単ではありません。

 

 人間同士の交流でも、新しい友人や恋人との関係が深まり、信頼関係が築かれてゆくプロセスで経験される喜びは、人間に与えられた喜びの中でも非常に特別なものです。また、異文化に接し、外国人と交流することも、大きな喜びをもたらしてくれます。外国人と身振り手振り混じりで交流し、心を通い合わせる瞬間に喜びを感じない人はいないでしょう。

 

 それなのに、国家レベルでは、世界中で国粋主義、民族主義が存在し、地球のどこかで常に紛争が起きています。歴史を振り返ってみても戦争の無かった時代はなく、戦争することが人間の本能のように定義される方もいます。しかし、個人レベルで経験される動物や外国人との関わりを観察する限り、人間の本能は、相互不信と競争ではなく、むしろ相互理解と調和に向かうようにデザインされているとしか思えないのです。

 

 国粋主義や民族主義、外国人嫌いの傾向は、もしかしたら古佐小の自称「動物嫌い」の仮面と同じく、後付けの教育や情報によって形成された信念なのかもしれません。異文化を理解するためには、長い年月をかけてじっくりと交流を積み少しずつ信頼関係を成熟させることが必要です。しかし、そのプロセス自体を楽しむのではなく、すぐに結果を求める姿勢で取り組むと、困難に直面した途端にすぐに逆上して、それ以上の相互理解のための努力を投げ出してしまことになります。そうなると「どうせ理解できない奴らなんだから、信頼関係を築くことも無理だ。だったら、場合によっては邪魔な敵として殺したっていい。きっと相手だって同じように考えているにちがいない。こうなったらやるかやられるかだ!」つまり、戦争という短絡的な結論に行き着いてしまいます。

 

 「グローバル市民」「世界は一つ」「国境なき経済圏」というような理想はすばらしく、人類が目指すべき方向であるとは思いますが、そういう大きな結果にとらわれて性急に物事を進めようとすると、なかなか相互理解が進まないフラストレーションの反動で相手を憎むようになり、反対の結果を招いてしまうことになっているように思えます。

 

 国連の形骸化、EU崩壊の危機、各国でのナショナリズムの台頭などの動きは、これまで性急に進めてきた経済重視の外見だけのグローバリズムへの反動のような気がします。このような時には、焦らず、自然なペースで時間をかけて、国家としてだけではなく個人としても実際に直接肌身で異文化と接し、相互理解を深めようとするプロセスを重視し、その困難さへの反動に任せて戦争や他民族排除の方向に流れてしまわないように注意することが大切だと思います。

 

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