コロナ以来の世の中のあり方に対するモヤモヤ感(3)「ワクチン未接種は反社会的行為なのか?」

コロナ以来の世の中のあり方に対するモヤモヤ感(3)
「ワクチン未接種は反社会的行為なのか?」

  そもそも、ワクチンとは、接種する本人がある特定の疾患を予防するために選択する医療行為なので、その選択肢が提供された場合には、それを選択する権利が与えられています。しかし、それは義務ではありません。医療行為である以上、その対象者が治療や臨床試験・治験の内容についてよく説明を受け、十分理解した上で、対象者が自らの自由意志に基づいて医療従事者と方針において合意するインフォームド・コンセントが必要です。しかし、現在進められている大規模な遺伝子療法的なmRNAワクチンの接種キャンペーンでは、対象者/医療者のマンツーマンの事前コンサルティングは徹底されておらず、試験・治験段階の薬物にあるにもかかわらず、専門家からの公正な情報を十分に共有されることもなく、ワクチン接種があたかも義務であるかのような空気の中、社会的プレッシャーから接種を選択するケースが多く見られます。

 「パンデミックとは、伝染病が世界中で大流行している状態。こうなると、もはや個の努力でできることは何もないのだから、国家主導で的確な方策を発案・実施して社会全体を守るしかない。その選択肢としては、完全に安全性の確認されていないが最も感染予防の効果が高いと思われるmRNAワクチンに希望を託し、老若男女を問わず国民全員がすすんでワクチン接種をし、社会一丸となりパンデミックを克服することである。これに足並みを揃えないのは、わがままで反社会的な行為であるから、ワクチンパスポート義務化の法律などで取締ることが必要だ。」

 このような意見を耳にすることが多くなりました。カリフォルニアのワクチン推奨コマーシャルでは、「皆でワクチンを打って、パンデミックを乗り越えよう!」と笑顔の素敵なお姉さんが語りかけてきます。しかし、不思議なことに、他の医薬品のコマーシャルでは、最後にものすごい早口で全ての副作用のリスクを読み上げることがルールになっているにもかかわらず、ワクチンに関しては副作用の情報は全くなし。ただ、「打ちましょう!」というメッセージだけです。

 このような状況は、おそらく、戦時統制に近い異常事態だと思います。「何を大袈裟なことを言ってるんだ!」と嘲笑する方もいると思いますが、果たしてそうでしょうか?では、冒頭の一説を次のように言い換えてみるとどうでしょう?

 「世界大戦とは、戦争の連鎖により世界中で戦争が勃発している状態。こうなると、もはや個の努力でできることは何もないのだから、国家主導で的確な方策を発案・実施して国を守るしかない。その選択肢としては、必ず成功するという保証はないが最も効果が高いと思われる真珠湾への奇襲作戦を皮切りに対米戦争に勝利することに希望を託し、老若男女を問わず国民全員がすすんで戦争という国家大事業に協力し、社会一丸となり敵国の脅威を克服することである。これに足並みを揃えないのは、わがままで反社会的な行為であるから、国家反逆罪などの法律で取締ることが必要だ。」

 このように見ると、現在の状況の異常性と戦時下の異常性には、本質的にそれほど大きな差があるようには思えません。ワクチン未接種は、戦時の徴兵拒否や戦争反対と同じく、反社会的行為であるかのようです。「いや、そんなことはない。今はネットで自由に情報を入手できるのだから、当時のような人民統制を行うことは不可能だ!」では、本当に自由に公正な情報がネットから入手できるのでしょうか?

 実際に、SNSや動画配信サイトの最大手により自主規制的な情報統制が行われ、パンデミックの被害評価、検査方法の妥当性、治療法と予防法の選択肢、ワクチンの医薬品としての安全性とパンデミック対応の手段としての妥当性に関し、幅広い議論と情報交換ができる場所が著しく制限されています。専門家による発信の場合ですら、ワクチンを「お注射」、コロナを「流行り病」と言い換えたりしないと動画が削除されかねない世の中です。GoogleやYouTubeなど、社会的影響力が大きく、これまで信用を築いてきた大企業により情報統制が実施され、政府もそれを容認している状況を見ると、彼らが正しいことをしているような印象を抱いてしまいます。そうなると、削除されるような情報を提供する連中こそが悪い奴に違いない、と判断されてしまいますから、ワクチン慎重という論調の情報の信頼性は、その内容の真偽にかかわらず失墜します。その結果、世論の大部分は、ワクチン慎重論者に対して「ワクチン接種は、世界各国で政府主導でこれだけの規模でやっていることなんだから、間違っているはずがない。おかしいのは、あんたの方でしょ。」となります。これを少し言い換えてみると、こうなります。「戦争は、世界各国で政府主導でこれだけの規模でやっていることなんだから、間違っているはずがない。おかしいのは、あんたの方でしょ。」と…。

 子供の頃「戦争は絶対悪だ」と教わりました。第二次世界大戦は、軍国主義の独裁体制の中、戦後に戦犯の罪に問われた一部の愚かな指導者(現在は名誉を回復されています)が国民を強制的に巻き込んだ結果であり、国民は被害者となったが、新しい開かれた民主主義の社会では、同じ過ちは繰り返されない、とも教わりました。しかし、現在の異常事態を見るに、国民は戦争に巻き込まれるのではなく、黙って受け入れるか積極的に支持することにより、自ら足を踏み入れると思われます。ナチスドイツが過酷な不況に苦しむ民主主義の中から生まれたことを考えると、社会には、危機的なプレッシャーを受けると全体主義へと向かうという自然な傾向があるのかもしれません。

 不思議なことに、平時には、大企業が市場を独占的に支配し消費者や労働者の生活ではなく投資家を潤わせることを優先していること、政治家が国民の利益ではなく自分たちの利害を考えて動くこと、政府機関が予算をめぐる内部闘争や産業界との癒着で腹黒いことをやっていることなどを批判し、大企業、政治家、政府を信用しないという空気が国民の間に色濃く存在しています。それが緊急時になると、掌返しでお上にすがりたくなる。普段はお上を批判しているのに、いざとなるとお上しか頼るものはない。どれだけテクノロジーが進歩しても、時代劇の世界と同じです。

 社会が危機的状況になった時、全体主義に向かうのは、生存のために必ずしも悪いことではありません。一致団結し、個を犠牲にして全体の存続を目指す。人体という細胞共同体でも、ミツバチの社会でも、危機対応はそのように行われます。全体の利益のために個を犠牲にする決意は、立場の違いからその判断プロセスに同意ができない場合でも、気高い選択だと尊敬いたします。戦争自体の善悪に関わらず、祖国のため、同胞のために命を捧げた英霊に対しては、それが日本人であろうとアメリカ人であろうと、等しく敬意を抱き、東京滞在の折には機会を見つけて靖国神社にもお参りをしております。ベトナム戦争で戦ったアメリカ人の義父の、死後はアーリントン墓地に埋葬されたいという願いも、是非とも実現させたいと思っています。

 「それならば、今まさに種の存続、国家の存続に関わるようなパンデミック状態にあるのだから、全体主義的な体制で対処することこそ必要ではないか?ワクチンパスポートのどこが悪い?」確かにその通りです。ただし、本当に「種の存続、国家の存続に関わるようなパンデミック」状態にあるのなら、という条件付きですが…。

 スペイン風邪は1918年から20年に流行し、世界人口およそ20億で1700万人〜5000万人が死亡したと言われています。新型コロナ感染症では、世界人口70億で、現在のところ約430万人が亡くなっています。10万人の人口比でいえば、スペイン風邪は850〜2500名、新型コロナでは61名となり、スペイン風邪と比較するとパンデミックの規模はかなり小さいという評価も成り立ちます。

 また、WHOによりPCRテスト陽性者は、死亡原因を問わずコロナ死亡と報告する方針が出されているため、様々な基礎疾患や老衰などの合併した状態でなくなる高齢者の死亡、つまり最後の一滴死が多い新型コロナの場合、実際にコロナが直接死因である死亡者数は、カウントされているよりもかなり小さくなる可能性が高いと考えられます。PCR検査も、インフルエンザとの鑑別診断ができないという理由で今年いっぱいで打ち切りという方針がCDCから出されていますから、検査の精度自体にも問題があり、そうなると感染者数として公表される数も実数と食い違っている可能性があります。

 そうすると、「種の存続、国家の存続に関わるようなパンデミック」という前提が疑わしくなります。まずは、この前提の再評価から始めるべきではないでしょうか?その結果、さほど大きな危機でないと判断されても、やはり今後の危機対応のためには全体主義的な国家のあり方が良いという結論になれば、きちんと国民の間で議論のテーブルに乗せ、世論の醸成、政治的判断という民主的な手続きを経て、全体主義的な社会が実現するための法律の制定と政策を進めていけば良いと思います。いずれにしても、混乱の中で、正規の社会的手続きを経ることなくなし崩し的に全体主義的な方向に流れることは、避けるべきではないでしょうか。

 情報を制限して国民の判断となる材料を減らしたり、数や権力の圧力で物事を強引に進めるような方法では、本当の意味で力を合わせて危機に対応することはできません。もし世界が、全体のために自己犠牲を必要とするほどの危機に瀕しているのであれば、命をかけることに躊躇はありません。特に、子供たちのために命を捧げるという覚悟は、いつでもできているつもりです。ただその前に、まずは誰の自己犠牲も必要としない解決策をとことん検討させてもらいたい。そして万策尽きた時には、いつ、何の目的のために、どのような形で自己犠牲の行動を決行するのかは、自らの手で選ばせてもらいたい。

 今起こっている異常な空気感の中ではなく、お互いの意見や立場の違いを認め合いながら、開かれた情報のなかで各々が自由に意思決定をできる状況が作られ、分断ではなく協調の中で皆さんとともに困難に立ち向かえることを望んでいます。

 

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