戦争の抑止における良心の役割(2)

(終戦の日、原爆投下など、戦争のことを考える機会の多い8月。戦争に関する過去の投稿を加筆修正して掲載しています。)

 

 人類には、「環境へ適応し生き残るために、他の個体との共存せねばならない」という、生存のためには覆せない大前提が課せられています。そのため、本能的に共同体、生態系、自然環境など人類が属する「全体」との相対的な関係の中で、調和という最も最適な選択を判断できる知性の一つとして、「良心」という機能が発達したのではないでしょうか。

 

 良心が考慮できる「全体」の規模は、良心の発達状態の程度によって、自分自身に関わることのみを考慮できる段階から、属する共同体全体のことを考慮できる段階、人類全体を考慮できる段階、人類が属する生態系全体を考慮できる段階、地球を考慮できる段階、太陽系を考慮できる段階、銀河系を考慮できる段階、宇宙全体を考慮できる段階まで拡張することが可能です。言うなれば、「生物としての生存本能」から、「すべてを包み込む神のごとく思慮深い愛」に至るまで、非常に幅の広い良心のバリエーションがあります。良心の発達の度合いには個人差があり、自分のことしか考慮できない利己的な個人もいれば、一方で人類全体への博愛のために命をかける個人もいます。

 

 「良心」という言葉には、どことなく宗教的な響きがあり、「うさんくさい」とお感じになる方も多いと思います。また、学問でも、商業でも、ひいては芸術においてさえも、競争に勝ち残ることで名声や富などが獲得されるという成功モデルが一般的に流布している時代に、競争相手を含む全体のことを考慮して行動することに利を認めることは難しく、「良心」を子供染みた実務の役に立たないきれい事と片付け、実利をもたらしてくれる「ずる賢さ」や「戦略」こそが大人として身につけるべき知性であると考えてしまうのは無理のないことです。

 

 実際に、国家間の外交交渉は、「外交戦争」と言われるほどに相手を出し抜くための腹黒いやり取りが当然ですし、商売でも、相手にとって一方的に都合の良い条件にならないように、お互いの取り分を主張する巧みな交渉による「せめぎ合い」が当然のプロセスになります。このような取引の場で、誠実さと正直さだけで交渉に望んだ場合は、相手に「ケツの皮までむしり取られても文句は言えない」ということになっています。

 

 さりながら、小規模な商売や小さな企業間の関係、家族や親しい友人との間では、誠実さと正直さに立脚した信頼関係が最も尊重されますから、個人と小さな集団の関係おいては、「良心」が発動していることに疑いはありません。ただ、その良心の発達度合いが「 直接関わりのある人間のみを考慮できる段階」と「 属する共同体のことを考慮できる段階」の中間程度の段階にあって、「 人類全体を考慮できる段階」まで到達していないため、組織や共同体の間では、競争原理が支配的になり、敵対的関係や紛争が起こっていると考えられます。そうなると、その上の段階である「 人類が属する生態系全体を考慮できる段階」までの道のりは遥かに遠く、現状で人類が環境問題に対してなす術無く右往左往していることも、また当然のことであります。

 

 調和のとれた生存が地球規模で進行するには、人類の大部分が良心の進化の重要性を認め、各々が個人的なレベルで良心に従った生活を営む努力をすることが必要になります。

 

 しかし、全体からするとほんの一部の人類が「人類全体を考慮する良心」に沿った生き方を選択することができたとしても、圧倒的な多数を誇る腹黒い連中に食い物にされ、その良心的な個人、組織、共同体は抹消されてしまうかもしれません。また、短期間の間にすべての人間、組織、国家がそのような良心に目覚め、ある日突然に誠実さと正直さをベースにした関係で世の中が廻り始めるということも、ほとんどあり得ません。

 

 しかし、幸いなことに、個人レベルにおいては、良心は心がけ次第でいつでもどこでも発達させることが可能です。自然の中で野生動物の気配を感じたり、天候の変化する兆候を感じる能力は、それを感じようと意識していれば自ずと研ぎすまされてきます。良心も同様に、日頃からその声に従って言動をするように心がけていれば、自然と研ぎすまされてきます。

 

 また、良心には、それに触れる他者の良心を目覚めさせるという不思議な力があります。命賭けで人類全体のことを考慮した活動を誠実に行っている人物と接した時に、それをせせら笑ってバカにする方(もいるとは思いますが..)は、ほとんどいないでしょう。むしろ、そのような姿に感銘を受け、それと似たような良心の働きを自分自身の中にも呼び起こされ、場合によっては自らがそれに従って行動してしまうほどの影響を受けることもあります。

 

 このように考えると、多くの人間が個人的なレベルで今よりもほんの少し良心に従って生きることで、それらがお互いの良心を呼び起こしあい、指数関数的に社会全体の良心が増進し、ある時点を越えると、人類全体として一気に良心が次の段階に進化することも期待できます。

 

 人類は、他の個体との恊働により生存の可能性を高めるという方向で進化してきたと言われています。この仮説に従うと、良心の進化こそが、人類の進化のカギであると言っても過言ではありません。現在、人類の良心は「属する共同体のことを考慮する」レベルには到達しており、複雑な社会構造のなかで分業と協調により生き延びています。しかし、自分の所属する共同体の存続のみに固執し、それぞれの共同体が相手のことを考慮しないで富を奪い合う戦争を選択することになった場合には、敵対する共同体を殲滅させるだではなく、人類全体の存続を危ぶむに十分なほどの破壊の手段を準備しています。一歩間違えば人類の存続が危うくなるというこの状況は、人類の平均的な良心の発達段階を「 属する共同体のことを考慮できる段階」から「人類全体を考慮できる段階」に進化させることを強要する「環境負荷」とも解釈できます。その意味で、人類はまさに存亡をかけた進化の岐路に立っていると言えます。このような危険な負荷を、良心の進化への動機付けの材料として昇華できるかどうか、そこに人類の未来がかかっているのかもしれません。

 

 しかしながら、現実を直視してみると、普通にお店で合法的に売買されている食品の安全性すら保証されていないという悲惨な状況にあり、良心はむしろ退化の一途をたどっているという気もします。今のところは、このような絶望的な状況ではありますが、もし良心が進化の方向に転じ「人類全体を考慮できる段階」の良心が人類全体の平均的な良心として獲得されたら、「 人類が属する生態系全体を考慮できる段階」に踏み出し、環境問題を克服できる可能性も見えて来ます。

 

 最後に、道徳と良心の違いに触れておきたいと思います。

 

 道徳は、人種や文化、宗教の違いによりその内容が異なるのに対し、良心は道徳として多様な形態をとる前の段階にある普遍的な「善」に向かう能力です。宗教や道徳感の違いにより、多くの戦争が起こってしまうわけですから、道徳的な立場からをいくら一生懸命に反戦を徹底しても、戦争の抑止にはつながりません。 また、このような外から与えられた道徳という価値基準にのみに従って判断していると、内なる良心の声を聞く能力は、むしろ衰えてしまいます。

 

 一人一人がほんの少しずつでも良心に従って行動する機会を多くすることができたなら、戦争をはじめとする人類の抱える様々な問題の本質的な解決につながると信じています。

 

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