芸術の社会での役割

 経済が停滞して真っ先に切られるのが芸術です。このコロナ騒動では、集団感染のリスクマネージメントも必要なために、人が集まって成り立っているパフォーミング・アートの活動は、真っ先に全面停止してしまいました。平時でも「わしゃ、芸術なんかいうもんは、よう分からんのよ」という方がかなり多い中、パフォーミング・アートの業界はすでに経済的にはギリギリのところでやってきていたので、このショックを機に芸術から身を引こうと考える方も出てくるのではないかと危惧しています。

 

 しかし、芸術は、一般的に社会で必要とされる生産業や商業などと同様に、重要な役割をになっています。何があっても犠牲にされるべきではなく、絶対に守っていかなくてはならないものなのです。以前に書いた芸術論から、その役割の一つをご紹介いたします。

 

 自然の音やそのゆらぎの要素には、癒しの力があると言われています。

 

 自然に近い環境で暮らしていると、風の音、雨の音、遠くに響く動物の声、鳥の声などを心地よく感じる機会も多く、元々そういう音に囲まれて生活していた生物である人間にとって、これらの音によって自己治癒したり生体防衛をしたりする本能的な力を呼び起こされるとしても、不思議ではないように思います。

 

 そもそも、一般的に「自然」と呼ばれるものは、それを構成するすべての無機物、有機物、生命体が、精妙な調和のもとで相互に作用することで、一つの大きな生命体のような存在になっている状態を指しますから、そこから発せられる音が、調和を備えた普遍的な美を備えていると感じられることも、道理にかなっていると言えます。

 

 日常的に自然の音を美しいと感じる機会に恵まれている音楽家としては、素晴らしい自然の音に囲まれて暮らしていた人類が、わざわざ音楽という人工的な音印象を生み出した理由は一体なんだったのかを考えます。山奥で自然に近い生活をしていると、音楽CDを聴きたいという衝動にかられることもあまり多くはなく、録音音源はもっぱら音楽的なインスピレーションを得たいときにのみ活用し、「ながら」でBGMとして聴く音楽は、夕食を料理しながら楽しむカントリー・ミュージックだけです。

 おそらく、毎日何時間も自分のハープ生演奏を聴いているので、それ以上に音楽を聴きたいという衝動が起こらないのかもしれません。実際、自然の音、あるいは自然の中の「静けさ」という音印象だけでも、かなり音楽的な満足感を得ることができます。音楽を無性に聴きたくなるのは、むしろ演奏旅行のために自然環境から離れ、都市環境にある時や、空港などの機能的で人工的な空間にいる時です。そういう場所では、音楽印象がそこにあることで、無味乾燥で機能的な場に、詩的で感情的な雰囲気が付加されます。このような、場に詩的で感情的な雰囲気を生み出す力は、音楽だけでなく、建築、美術などのビジュアル・アートからも感じられます。

 

 都市環境で芸術の影響力に接すると、自然から遠く離れた人工的な都市空間に、再び自然の息吹が蘇るような感覚を覚えます。なぜでしょう?

 

 便利で安定した生活のためにデザインされた都市空間は、自然の脅威から守られていると同時に、自然の恵みからも遮断されています。そこに、自然の一部である人類によって意図的に生み出される印象、すなわち芸術的印象が加えられることで、遮断されている自然からの恵みが補填されるからではないでしょうか。このような芸術の力のおかげで、人工的な都市空間でも人間らしい生活が可能になっているのではないかと思えるのです。

 

 芸術が環境に及ぼすこのような効力を念頭において、芸術の社会での役割を考えると、「芸術には、人類が生活環境の機能性を追求するために犠牲にしている大自然の恵みを、代替して補完する役割がある」と言えるかもしれません。

 

 

 

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