音楽における間(ま)の重要性

 音楽の道に入ると、まずは「音を出す」ことに関する技術や知識を身につけることに一生懸命になります。どうやったらいい音を出せるのか?どうやったら美しく豊かな表現でメロディーを演奏できるのか?どうやったら気持の良いリズムを産み出せるのか?このような課題に取り組みながら、努力を続けていきます。

 

 音がなければ、音楽は成り立ちませんから、音楽家が音を出すということを極めようと努力をすることは、ごく自然な成り行きです。しかし、長年音楽と関わっているうちに、音楽の最も大切な要素は、音自体ではなく、むしろ音と音との間に存在する時間的な空白と、複数の音の間の音程の間隔、すなわち間(ま)の部分ではないかと考えるようになりました。

 

 そもそも、音楽とはいったいなんなのか?この問いに対しては、それぞれの音楽家が独自の検証と理解によっていろんな視点から語ることができますが、個人的には、「音楽とは、4次元空間に建てられる音を素材にした建築物である」という認識を採用しています。時間というX軸に「長さ」、周波数というY軸に「高さ」、音量の大きさというZ軸に「大きさ/幅」という奥行きを持った構築物で、その表面の色や手触りが「音色」といわれる要素で彩られているというイメージです。実際、目に見える形のない音の特徴を、「長い音」、「高い音」、「大きな音」といた具合に、三次元の建物の特徴を表現するのと同じ形容詞を用いて表現しますから、誰もが無意識のうちに、音楽を4次元空間の構造物と認識しているものと考えられます。では、音楽という4次元の構造物とは、どのようなものなのでしょうか。

 

 通常の生活は3次元の世界で経験されます。そのため、言語体系も3次元の世界を描写する用語を中心に構築されていますから、4次元の構造物である音楽自体の姿を細かく描写することは困難です。しかし、4次元の世界を描写するために新しい用語を創案するのは膨大な時間がかかりますので、ここでは、実際に五感を用いて見て触れることもできる3次元の構造物である家やビルなどの特徴を観察し、それを元に、そこよりも一段階高い4次元に存在する音楽という構造物の特徴を類推するという方法で考察を進めたいと思います。

 

 通常の3次元の世界の建物は、土台、柱、壁、屋根、窓、塗料、家具などの要素が組み合わされて作られます。ではこれらの要素のなかで、建物として最も大切な要素は何でしょうか? 

 

 建物は、人が中に入って活動できなければ意味がありませんから、建物に本質的な価値を与えているものは、先に挙げた柱や床、屋根など、建材を用いて作られたもの自体ではなく、それらに囲まれた何もない「空間」ということになります。建物と定義付けられる物が存在するためには、建材が組み合わされ、壁や屋根などが作られなくてはなりませんが、建物の存在意義は、実際に専門的な技術と知識を駆使して建材を使って作られた部分そのものにではなく、その副次的な産物としてその中に生じる空間にあるということになります。

 

 空間を仕切る壁や床、屋根や柱の位置関係は、紙面に設計図として書き出され、知性でも把握することができますが、建物の中の空間の心地よさは、実際に感覚と感情で経験されるよりほか、把握の方法はありません。つまり、建物を建てるために必要な物理的な知識と技術は、情報として伝えることができますが、空間の心地よさは実際に体験される必要があります。長年の意識的な努力と経験により培われた感性を持つ建築家であれば、図面を眺めるだけでそこに産み出される空間の印象を内面的に経験できるのだと思いますが、一般人の場合、やはり実体験を通じてそれを感じるほか、それを理解することは出来ないでしょう。

 

 ここまでに通常の3次元の建物について考察されたことを、音楽という4次元の世界の建築物に当てはめてみると、非常に興味深い考察が得られます。

 

 音楽の最も大切な要素は何でしょう?旋律、和音、リズム、それとも音色でしょうか?音楽というものは、音と音の間に「音のない部分」がなくてはリズムも産まれず、同時に出される和音においてもそこに「音程の間隔」がなくては和音にならず、時間軸に沿って並べられる音の音程に差による間(ま)がなくては旋律にもなりません。とにかく、間(ま)がなくては、音楽ではなく単なる音になります。すなわち、音によって句切られた間(ま)が、音楽に本質的な意義を与えている要素であるということが推察されます。

 

 楽曲で使われる複数の音同士の音程軸と時間軸での関係は、和音と旋律として垂直/水平方向のグラフとして紙面に楽譜として書き落とすことができ、情報として伝達することが可能ですが、実際に音楽として演奏された時に創出される印象を総体的に把握するためには、実際に音楽を聴く必要があります。長年の経験と意図的努力により培われた感性を持つ音楽家であれば、楽譜から音楽を頭の中で構築し、音と音の間(間)の産み出す印象をシミュレーションすることができますが、一般的には、実際に聴いてみるまで音楽の印象を理解することは出来ません。

 

 「感動を生む素晴らしい演奏」と、「特に間違ったところやおかしなところがないにも関わらず感動を生まないつまらない演奏」の差異がどこから来るのか?音楽を真剣に志すようになって以来、常にこの解き難い疑問を脳裏にかかえてきました。演奏技術の向上、演奏への感情移入の努力、演奏中に雑念から遠ざかる努力、音楽の理論的研究など、思い付く方法でいろんなことを試した結果、この方向性では、本当の感動を生むための決定的な要素にはたどり着けないという気がしておりました。

 

 しかし、音楽の間(ま)について真剣に考察をし、そこに強く意識を向けて演奏する試みを始めて以来、感動を生み出す決定的な要素が、実は音の出ていない間(ま)部分にあると確信するようになりました。

 

 音自体は、聴覚で知覚されるもので、演奏家の肉体の活動により物理的に産み出すことができますが、音と音の間(ま)はいったい何によって知覚され、何によって生み出されるされるのでしょうか?その答えは、「意識」だと思います。肉体の知覚機能と運動機能で到達できる産物、つまり音自体が獲得できるものは、せいぜい物理法則に支配された世界の範囲に限られているので、ある一定のレベルに到達した後は、どれほど努力を重ねても頭打ちになります。しかし、意識の世界は、物質的な世界に比べると無限と言えるほどに広大な時空を超える世界で、通常の覚醒状態を越えて内的な修養により獲得される客観意識/悟り/ニルヴァーナ/宇宙意識などの様々な名で呼ばれる高次の意識状態まで、意識の高みは広がっています。 音は、その瞬間における一つ可能性の実現ですが、その前後の間(ま)は無限の実現されていない可能性を内包する場であり、 意識との相互作用が起こりうる間(ま)という場にこそ、無限の可能性、すなわち音楽の生命の源が秘められています。そのような間(ま)こそが、音楽に音響学的な物理現象では語りきることのできない神秘的な特性、つまり感動という要素を与えているのではないでしょうか。音楽において、時間や音程の間隔が「能動的」かつ「意識的」に認識されると、そこに時間や音程の間隔という物理現象として認識されるもの以上の、形而上学的な存在意義が生じ、音と音の間に魂が入り、音楽が音響学的な現象から生きた精神的な現象に昇華すると表現できます。

 

 即興演奏をしていると、音楽が産まれてくるプロセスについて多くの観察をすることができます。即興によって音楽が流れる場合、先の音から次の音が半自動的に、無意識につながって流れる場合と、音と音の間に音が出ていない間(ま)を意識的に経験することで、そこから新たに音楽の息吹が流れ出てくる場合があり、その両方が絡み合って音楽が産み出されます。前者の場合でも、生み出される音楽に時間や音程の間(ま)があるのですが、それは物理現象の域を出ない「死んだ間」あるいは「受動的な間」であり、後者は魂のが吹き込まれる余地のある「生きた間」あるいは「能動的な間」のように感じられます。

 

 「死んだ間」というと悪い印象を与えてしまいますが、すべての物事は、陰陽の両方が混ざりあうことで全体として調和的な働きをするので、どちらも等しく必要です。物理的で自動的な働きの結果である「死んだ間(ま)」と、精神的で意識的な働きの結果である「生きた間(ま)」とが自然に絡み合いながら音楽が流れることは、自然の理にかなっているのだと思います。

 

 一日の演奏が終ると、そこから次の演奏の機会が来るまで、数時間、あるいは数日間に及ぶ長い間(ま)が生じます。その間(ま)では、いわゆる日常の生活が流れています。そのため、音楽に関わっていない日常の時間をどのような意識の状態で過ごすかということこそが、音楽の質に決定的な影響を与えることになります。この新型コロナウイルスのパンデミックによって経験している今までにないほどの大きな間(ま)。この間を意識的に過ごすことができれば、音楽家としてのこれまでのあり方を本質的に変えるほどの影響を経験できるのではないでしょうか。

 

 演奏をするために必要な身体能力と、繰り返し同じことを練習できる根気さえあれば、誰でも譜面に書かれてある音を間違いなく演奏することは出来るようになります。実際、才能のある10代の子供が、クラシックの難曲を完璧に弾きこなすことは、決して珍しいことではありません。しかし、音符だけではなく、間(ま)も演奏出来るようになるには、身体能力の他に意識の力が必要ですから、かなりの期間の意識的な修練がなければ間を演奏することは困難です。そのため、いわゆる天才少年少女たちが、演奏を感動の領域まで極めるケースは非常に稀です。

 

 偉大な作曲家は、音符だけではなく、間(ま)にも意識を向けて作曲していますから、間(ま)に意識を向けられる演奏家による演奏を聴くと、音符の組み合わせの見事さだけでなく、作曲家が音楽を作るプロセスの息づかいまで感じられます。余談になりますが、クラシックの演奏家としての道を究めるということは、独自の解釈をガツガツと演奏に組み入れて他の演奏家との違いを明確にするということではなく、演奏家としての存在を限りなく透明にし、作曲家の姿が純粋な形で浮かび上がってくるように演奏できるようになるということだと思います。まさに、「上善は水の如し」というという言葉がぴったり当てはまるプロセスです。

 

 クラシックの演奏家であっても即興演奏家であっても、音自体の追求は、どこまでやっても終わりはありません。しかし、あるレベルに達した後は、技術的練習や音楽の理論的研究など、感覚と知性の世界での努力を続けても、結局同じものを別の角度から眺めるという程度の変化しか経験できなくなり、ある種の行き詰まりを感じ始めます。このような、「努力をしても根本的なものは変わらないジレンマ」は、自動車でどれだけ速く走ってみても、運転手は地面からの目線でしか世界を眺めることが出来ないということと類似していると思います。もし、普通の自動車ではなく、翼の付いた飛行機のような機体であれば、自動車が出せる最高速度よりも遥かに遅い速度で空に浮かびはじめ、空の高みから全く違った視点で世界を眺めることができるようになります。音楽家が目指すべきところは、地面をどれだけ速く走るかということに一生を費やすことではなく、離陸可能な速度まで到達したら、出来るだけ早く翼を生やして別次元の世界に踏み入れることではないかと思っています。正確なテクニックを身につけ、多くの楽曲を暗譜し、様々な作曲技法を学ぶことも大切ですが、そこに停まらず、音と音の間(ま)にある別次元のものへの意識を高める努力をし、物質世界と精神世界の中間に存在する音楽の神秘を経験できるようになることで、本当に感動を生む音楽を作り出せるようになるのではないでしょうか。
 

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