子供の夢と職業選択

 子供のときに「考古学者になりたい」「音楽家になりたい」というような夢を大人に打ち明けると、「考古学者なんかになったら、汚い格好で毎日土を掘るばっかりで全然お金にならないから、やめておきなさい」とか「なにを夢みたいなことをいってるの!プロの音楽家になれるんは、ほんの一握りの特別な人だけなんだから、あなたがなれるわけないでしょ。そんな夢みたいなことを言ってないで、ちゃんと勉強しなさい。」などと言われ、中学生、高校生と少しずつ大人に近づくにつれて、考古学者や音楽家というような「非現実的」な夢は忘れ、いつしか、将来の職業選択で有利になる学歴評価の高い大学への進学を目標に受験準備をする少年になってしまいました。

 

 その結果、現役で東京大学に入学できましたが、結局、手に入れた学歴を就職活動や出世で活用できる職業は選ばず、普通の看護士として病院に就職しました。しかし、それも長続きせず、1年間臨床で働いたのちに、それまでの人生をリセットするためにアメリカに渡り、そこでハープと出会い、27歳から独学でハープ奏者となり、現在は、子供の頃の夢の一つであった音楽家として生計を立てています。

 

 子供の頃から音楽への興味は強かったのですが、実のところ、プロの音楽家になるという具体的かつ戦略的なビジョンは持っていませんでしたし、音楽学校に行くという選択肢を考えたことも、ほとんどありませんでした。ピアノの先生からは「あまり才能がない」と言われたし、絶対音感もなく、楽譜読みは遅く、どちらか言えば雑で不器用なタイプで、演奏技術に関しても、努力せずして手に入ったものは何一つなく、いわゆる「音楽の天賦の才能」と呼べる資質はほとんど持ち合わせていませんでした。ただ、天賦の才がなかったお陰で、音楽をより神秘的なものと感じ、それへの興味もいっそうかき立てられ、その結果として、音楽家を志す道を選ぶこととなり、それをしつこく続けているうちに、それなりのレベルの音楽家になることができたのです。

 

 大人は、子供のために良かれと思って、実現が難しく安定性を欠いた「子供じみた夢」を打ち砕き、安定した社会的地位と収入を得られる「現実的な道」へと導こうとするのですが、人生経験も判断力も未熟な高校受験前の15歳そこそこの少年少女たちが、なんとなく大人の言葉に従って進路を決めてしまうことで、将来の職業選択で多くのミスマッチが起きてしまう危険性もあります。

 

 実際に、多くの若者が、本当に望んでいる生き方を実現できる仕事に就くことを目指すのではなく、高収入で安定性に恵まれた職業を目指して大学や職業訓練校に入学します。数年間の努力の末、期待した通りの生活を手に入れることができる方も大勢いらっしゃると思いますが、実際に働き始めてみると、仕事には生き甲斐も強い興味も感じられないことに気づくというケースも、決して稀ではないと思います。そうなってしまうと、結構大変です。日本では、社会人になった後で再教育を受けることが難しい教育システムである上に、一度やり始めた職業を辞めることを「挫折」として否定的に評価する空気が強いために、30代〜40代になってから職種を変更するという決断を下すには、かなりの勇気が必要です。

 

 また、長年の教育と努力によって手に入れた仕事をやめることは、もったいなく感じますし、安定した収入を失うことは非常に恐ろしく、そこから踏み出すことは躊躇してしまいます。それに、高収入で安定性に恵まれた仕事に不平不満を感じることには「身勝手で贅沢な悩みだ」と罪悪感を感じてしまうので、我慢をしながらやりたくない仕事に従事することを「正義」と判断してしまいがちです。しかし、無理をしてやりたくないことに従事していると、心身への負担も大きくなり、仕事の能率も上がらず、そのため仕事に余計な時間とエネルギーがかかってしまいます。そうなると、家族や友人との心和む時間や趣味を十分に楽しむ時間もなくなり、手軽なうさばらしとして過度の飲酒、喫煙などが習慣化します。そんな生活をしていると元気出ることは難しくなりますが、多少の体調不良はサプリや一般薬でごまかしながら働き続けることで、休息と労働のバランスが慢性的に崩れ、行き着くところ病気になるリスクが大きくなります。

 

 そうやって病気になったとしても、その仕事に就いていることからもたらされる福利厚生のおかげで保険にも加入でき、安く治療を受けられますから「ああ、やっぱり我慢して仕事を続けてきて良かった!」と思うかも知れませんが、やりたくない仕事のストレスが原因で病気になったのであれば、本末転倒です。

 

 そうならないためにも、折に触れて「今、自分は幸福だろうか?」と自問し、もしその答えが力強いイエスでなかったら、生き方の変更を考えるべきではないでしょうか?もし、自分に取って幸福とは何なのか、それすら明確に回答できないとしたら、幸福になれる可能などあるはずがありません。

 

 幸福を感じるためには、それなりに望ましい外的状況が整うことも必要ですが、むしろ、どのような外的状況に接したときにでも、幸福を見出せる内的状況が整う必要性の方が大きいと言えます。幸福感を感じられる内的条件として、心身の健康がなくてはなりませんが、現代の生活では、社会的地位や収入などの外的な条件を整えることが重要視されるあまり、その大元である心・体の状態を考慮することが軽視されてしまっているように感じます。

 

 「何を職業とするか」、あるいは「社会でどのような功績を上げるか」ということが幸せを規定する最も大きな要因のように考えがちですが、実は、「どのような人物であるか」「どのようなライフスタイルで生きたいか」ということの方が、人間にとってはより本質的で重要なことだと思えるのです。しかし、学校教育や子育てに関わる大人達が、子供にこれらのことを考えさせる機会を十分に与えているかどうかは疑問です。

 

 学校では、教科をきちんとこなせること、先生の言いつけ(権威からの命令)を素直に守れるということによる評価で生徒としての優秀さの順位がつけられます。親としても子供が学校で良い成績をおさめていると、なんとなく安心してしまいます。そして、将来の夢を子供に語らせる場合に、「将来は何になりたい?」と既存の職業名で大人になったときのイメージを答えさせるように習慣づけています。そのため、子供が、徳性や人となりという内的な資質の重要性を学ぶ機会は少なくなり、それらを組み合わせた「理想的な人物像」を具体的にイメージし、それに向かって人間形成をする都いうことは人生の目標都することはなくなってしまいました。

 

 子供の対しては、まず「将来どんな人になりたいですか?」と尋ねることで、優しさ、我慢強さ、正義感、強さ、賢さなどの人間的な資質について考えさせるべきだと思えるのです。そして、もし、「優しくて、強くて、人から好かれる人になりたい」と思うのであれば、その資質を必要とし、それらを育む活動としての職業、例えば警察官や消防士などの具体的な職業選択肢を提示し、その上でそこに至るために必要な経験や教育を与えるという手順を踏むべきではないでしょうか。

 

 しかしながら、現代の日本社会では、学歴により職業の選択肢が規定されてしまう現実もありますから、親としても、子供としても、「どんな人物になりたいのか?」というような抽象的なことはさておき、「まずはランクの高い学校へ行くために、受験で勝ち残れる学力をつけなくては…」と考えるのが当然です。そして、学力の高い子供には、「せっかく勉強できるんだから、医者や弁護士、国家公務員など、高学歴で資格の取得の難しく、社会的地位と収入の高い仕事を目指しなさい」と勧めるのも親心です。子供としても、世の中でのお金の力、社会的地位の意義などを理解するようになると、親の勧める道もそれなりに悪くないと思えて、それに従って進路を決めることも親孝行と思い、頑張ってしまうものです。その結果、皆が幸せな人生を送っているのであれば、何の問題もないのですが、実際には、傍目には何不自由もない立場にあっても、自分の人生の選択に疑問を抱き、自分自身と折り合いの付かない居心地の悪い精神状態にあって、幸せを感じられない方も多勢います。

 

 彼らは、長年一生懸命に仕事に取り組み、世の中をより深く知り、自分自身の特性も理解できるようになった結果として、職業との不適合を感じるわけですから、その時にこそ本当に自分に合った職業を再選択できる可能性は大きくなります。しかし、ほとんどの場合は、中年での職業変更は社会的なリスクが大きすぎると判断され、職業との不適合を感じながらも、結局20代前半で選択した職業にとどまることとなり、自分を押し殺し職業に合わせる努力を続けることになります。

 

 職業を、自己の価値を規定する評価基準ではなく、自分の目指す人物像に近づくのを助けてくれる外的な活動の一つ、あるいは、自分に備わった内的な資質を社会で発揮するための機会と考えると、社会についても自分自身についてもまだ知見の浅い青年期には、自分にぴったりと合う職業を選択できなくて当然です。社会において、職業を変えることを挫折ではなく改善と捉え、職業選択において試行錯誤の中でいろいろな経験を積むことがもう少し許容されれば、当事者にとっても社会にとっても健全な職業選択がなされる可能性が大きくなるのではないでしょうか。

 

写真:ギター小僧だった高校時代の古佐小

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