五輪書の教え「諸芸にさはる所」の意義

 

 ここ数年遠ざかっていましたが、ようやく柔道の稽古を再開しました。大学1年の時に、腰痛が悪化したこと、音楽との両立が難しいこと、生活費を稼ぐためにバイトをしなくてはならない等の理由で、柔道部を退部して競技者としては引退しました。その後、30代後半で体力作りも兼ねて稽古を再開し、子供を連れて道場に通い、そこで指導を手伝いながら稽古をしておりました。しかし、アメリカでは柔道の人気が低く、近場の道場がことごとく潰れ、ここ4−5年は、もっぱら基礎的な体捌きと体力作りのトレーニングのみ続けておりました。

 人生のメインの活動として音楽を選んだことに、後悔の念は全くないのですが、柔道に関しては、もう少し深めてみたいという思いをずっと持っていましたから、山奥の自宅から道場のある市街まで遠くて通うのが大変なのですが、まだ体が動く年齢のうちに稽古を再開することにしました。

 現在は、腰痛も完治していて、日頃のファームでの肉体労働のおかげで体もさほどなまっていませんが、柔道では全身を普段とは全く違う方法で動かすため、しばらくは稽古のたびに筋肉痛になることは避けられません。この時期を過ぎたら、徐々に乱取りなども含めた本格的な稽古をしたいと思っています。

 しかし、子供時代から刷り込まれてきた「常識」は、以下のようなささやきで柔道の再開をやめさせようとします。

 「音楽を極めたいのであれば、すべての時間とエネルギーを音楽に集中すべし。」
 「プロの音楽家として、怪我の危険性のある活動はすべきではない。」
 
 柔道と音楽。確かに一見全く異質で共通点のない活動で、怪我のリスクを負ってまで再開することに合理性は見いだせないかもしれません。しかし、両者を深く学ぼうとすればするほど、柔道と音楽には共通点が多いのです。

 柔道において、動きの中で流れを読む、相手に合わせるという感覚は、音楽演奏の上で、特に合奏においては不可欠な感覚です。また、型として稽古した技を実践では変幻自在に応用させる点も、音楽における即興演奏と酷似しています。つまり、メンタル面では、柔道と音楽(特に今自分が専門としている即興音楽)においては、ほぼ同様の素養が必要とされるのです。
 
 実際にハープを独学するにあたっては、柔道で経験した学びのプロセスを応用し、独学で現在のレベルに到達することができましたから、柔道を深めることは音楽を深めることにもなることは、身をもって証明しています。また、これまで音楽を深めてきたことにより、心身の制御に関しての経験が蓄積し、柔道への理解も深まっています。例えば、ハープで左右の体側を同じ程度に器用に使えるようにトレーニングしてきたおかげで、柔道においても、得意な右組みからの左回りの体捌きだけでなく、右回りの体捌きも左の80%くらいの精度でできるようになりました。

 音楽は素晴らしいものですが、所詮は心身の能力の一部分を用いる技能ですから、それだけやっていれば人としてのすべての資質を訓練できるというわけではありません。心身の働きをより深く理解し、生きるということの原理に迫るためには、古人の教えに従い「文武両道」を心がけるのが一番だと思います。

 しかし、「一芸は多芸に通ずる」という古来からの教えもあります。これに従えば、まずは一心不乱に一芸に集中してそれを極めるべきなのかもしれません。しかし、その逆もまた真なり。宮本武蔵は五輪書の中で「諸芸にさはる所(いろんな芸に触れなさい)」)「諸職の道を知る事(いろんな職能の道を学びなさい)」と説いています。

 
 実のところ、クラシック奏者を目指していた若い時には、生活のすべてをかけて毎日平均8時間もハープを弾くような数年間を過ごしました。確かに、このような極端な努力によって、比較的短期間で技術的には多くのことを学ぶことができましたが、その代償として、体はボロボロ、心も常に追い詰められたような緊張感でストレス満載で、ハープを弾くのが辛いと感じられる日々。でも、練習量を減らすと一気に下手クソになるのではないかという恐怖もあって、ペースを落とすこともできず、とうとう体を壊してしばらくハープを弾けない状態となり、ようやくこのような一点集中の生き方が間違っていることに気づきました。

 それから徐々にハープ演奏一点主義から、作曲、即興演奏、畑仕事、畜産、大工仕事、自動車修理、保健分野での研究など、できる限り活動の幅を広げる方向でライフスタイルを転換し、今や何が本業なのか、自分でもよく分からない状態になっています。このような生活をしていると、音楽に使う時間とエネルギーは昔に比べたら圧倒的に少なくなりましたが、不思議なことに、音楽家としての進歩はスローダウンすることはなく、演奏能力、作曲能力、即興能力ともに、過去には想像できなったレベルまで引き上げることができました。

 月並みな言い方になりますが、結局のところ、全てが芸の肥やしになるということだと思います。あるいは、人生という土壌がしっかりとしていないと、芸という作物は育たない、もし育ったとしてもすぐに枯れてしまうということかもしれません。

 一見回り道のように見えるけれども、短期間での成果を求めて一点集中するのではなく、時間をかけていろんな経験と知見を積み、諸般に普遍的に応用できる深い知恵としての「道」を修めるという目的意識を明確にすることで、曲がりくねった長い人生の旅路においても、筋のとおったブレない生き方を貫けるのではないでしょうか。

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