芸術家とは? 職業音楽家と真の芸術家の違いについて

 

 長年芸術やってますけど、初心貫徹でブレずに芸術家を続けるのは本当に大変です。特に、今回のコロナ騒動のような異常事態ではなおさらに…。でも、芸術家であることには、その苦労と困難に見合うだけの意義と喜びがあります。
 
 この時期、芸術活動の再開の見通しも立たず、くじけそうになる自分を励ますためにも、以前書いた芸術論を改定する形で芸術家のあり方について考察をしたいと思います。
 
 
 近年の音楽業界では、ロック歌手も、ポップ歌手も、アイドル歌手も、だれもかれもが「アーティスト」と呼ばれるために、アーティスト(芸術家)を定義することが難しくなっています。
 
 一般的には、大手レコード会社とメディアからサポートされ、大きなコンサートやテレビで音楽活動をしていると、ステイタスが高い「アーティスト」と認識されます。メディアに出ない無名のアーティストの場合には、親戚のおばちゃんやおじちゃんからも、「プロいうても、素人に毛の生えたようなもんじゃろが。お前、それで食えよんか?(訳:プロと言っても、素人よりちょっとマシな程度でしょう。あなた、それで生活できてるんですか?)」」とバカにされてしまいます。
 
 こういう空気の中で、メディアや音楽業界から認められない無名の状態で活動していると、自分の追求している芸術の方向性に疑いを持ち始めます。その空気に飲み込まれ、自分の音楽家としての客観的価値を、ギャラの金額とコンサートの動員規模で計ってしまう習慣ができてしまうと、遅かれ早かれ自信もやる気も失われてしまい、芸術の道を諦めてしまうことにもなりかねません。また、貧困に疲れたり、家族ができて食い扶持が増えたりすると、「まずは自分の本当にやりたいことにこだわらず、ある程度お金を稼げる仕事をこなし、それなりに食ってけるようになってから、本格的に自分の目指す芸術活動をやろう」という「大人の割り切り」をせざるを得ないこともあります。しかし、そこに一旦足を踏み込んでささやかな安定の味を覚えてしまうと、自分の芸術的な目標を最優先させる生き方に戻ることは難しくなります。
 
 音楽で食っていくためには、音楽をサービスや商品として値段を付けて売り、お金を手に入れる必要があります。このように音楽サービスによりお金を得る職業をひっくるめて「音楽家」と呼びます。しかしながら、「お金を稼ぐために音楽をする」ということと、「真摯な音楽活動の結果として報酬を得る」ということは、自分の生み出した音楽がお金になるという点では同じですが、音楽家のあり方としては、全く異なります。
 
 この違いを明確にするために、この考察では「職業音楽家」と「芸術家としての音楽家」を使い分けています。一般的ではないかもしれませんが、自分なりの「職業音楽家」と「芸術家としての音楽家」の活動の定義は、以下の通りです。
 
 職業音楽家:音楽で生計を立てることを第一の目標に、自分の音楽技能に値段を付け、マーケットで需要に合わせてサービスや商品として売ることによりお金を得る。
 
 このような「職業音楽家」の立場は、職人やモノ作りに携わる職種に近いとものとなります。
 
 芸術家としての音楽家:音楽によりお金を稼げるかどうか、音楽で生計が立つかどうかに関わりなく、自分自身と世の中にとって益となるものを生み出すという目的意識に基づいて、音楽家としての技能と人間性の向上のため日々精進し、その結実としての作品を世の中に発表する。その結果、その価値を認め、そのような作品をこれからも社会に供給してもらいたいと望む人々からご報謝を受け、音楽活動を継続させるための糧を得る。
 
 ここで定義された「芸術家としての音楽家」の社会的立場は、宗教家、思想家に近いものです。なぜなら、彼らの音楽家としての能力は、個人としての人間性の向上と、社会的な文化貢献という目的のために行使され、また提供した作品への報酬は保証されておらず、受取手の善意に依存しているからです。そのため、ここでは「報酬」をあえて「ご報謝」と表現しています。
 
 芸術家として自分で納得した作品を社会に提供し、その活動を継続させるために必要な糧をすべて得られる音楽家は、本当に祝福されていると思います。また、「どんな形でもいいから、音楽に関わる仕事ができればそれで幸せだ」という音楽家が、職業音楽家として生計を立てることができれば、それも十分に幸福な人生といえるでしょう。
 
 しかしほとんどの音楽家は、この両極の間で、時には芸術的な妥協に悩み、時には収入の不足に伴う貧困に苦しみながら活動を続けています。
 
 ある程度の楽器演奏能力と音楽の知識を身につければ、消費者の性向や市場の需要を分析して、できるだけ確実に消費されるサービスを提供するという通常のビジネスモデルに従い、音楽によって生計を立てることは可能です。例えば、音楽教師、レッスンプロ、カバー曲などすでにヒットした作品の演奏、結婚式などのお決まりの曲が必要になるイベントでの演奏、企業組織化されたオーケストラの一員となる、などなど。
 
 ところが、芸術家として生きることを決断すると、このような通常のビジネスモデルは使えなくなります。理念を抱き、それに従って生きることを志し、音楽技能の精進を重ねる過程で産まれてくる作品の中から、芸術としても普遍的な価値があると思われるものを、値札をつけずに世間に公表することで、なんらかの報酬を期待する。信じられないかもしれませんが、こんな雲をつかむような曖昧なビジネスモデルで生計を立てるという、とんでもないリスクを負うことになります。
 
 真摯な芸術活動では、日々の精進が人間的成長の機会となることへの保証はあるのですが、作品が何らかの形で他者の役に立つこと、作品の受取手から十分な金銭的収入が得られることへの保障はありませんので、孤独と経済苦でくじけそうになることもあります。しかし、そこで折れてしまうことなく、「高い志で生み出す芸術は、必ずどこかで誰かの役に立つにちがいない!」という信念を抱いて音楽活動を継続しなくてはなりません。
 
 非現実的だと笑われるかもしれませんが、これまで芸術家としての生き方を模索するなかで、真剣に人間としての徳を積む生き方の結実として生み出される芸術には、人類にとっての普遍的な価値があり、そのようなものを生み出す努力を積んでいる芸術家には、その仕事が続けられるように、社会からの援助と神々の「ご加護」があると確信しています。もし、援助や「ご加護」がないと感じられる場合には、自分の提供しているものが未だに人類普遍的な価値を有するレベルに達していないからに他ならず、その場合には、更なる真摯な修行と取り組みによって改善するしかありません。
 
 芸術活動を通じて一人の人間として徳を積むための努力には、それだけで普遍的な価値がありますから、作品が広く愛されるか否かに関わらず、本人にとっては意味のある生き方をしていることには違いありません。もし、芸術的な活動を通じて生活に必要な糧を得られないならば、人間的な徳を積むことに役立つ別の仕事をすることで収入を得ながら、音楽の精進を続けるという選択肢もあります。
 
 このように考えてみると、「芸術家である」ということと、生計のすべてを音楽で立てている「プロの音楽家である」ということとは、必ずしも同義ではなく、プロの音楽家でありながら芸術家ではないケース、芸術家でありながらプロの音楽家ではないというケースもあり得ることになります。
 
 プロの音楽家...なんとなくカッコイイ響きがあり、多くの若者はプロというステイタスに憧れます。しかしながら、芸術家にとって「プロである」ということは、真摯に生み出した芸術がもたらす結果であり、目的ではありません。音楽に専念できるプロという立場が、音楽探究においてはより有利な条件であることは言うまでもありませんが、プロであるがゆえに、お金のために音楽を切り売りしているとしたらどうでしょう?もし芸術を目指しているという自覚があるのなら、大切なものを切り売りすることで精神的に失うものと、その結果得られるお金などの物質的なものとの収支が釣り合っているかどうか、注意する必要があります。
 
 オリジナル曲での即興演奏を中心としたレパートリーで演奏活動をしていると、お客さんから、音楽の方向性に関して説教をされることもあります。例えばこんな感じ…。「オレは以前音楽の仕事にも関わったことがある(アメリカでは、どういうわけか元音楽業界関係者と自称するおっさんによくお目にかかります)からよく知ってるんだが、プロの音楽家の成功は、お客さんが求めているものをどれだけ提供できるかにかかっているんだ。君のように自分の芸術を追求するのは結構だが、一流のエンターテイナーになりたかったら、まずお客の聴きたいものを提供しなくてはならない。ハープは珍しい楽器だし、君には技量もあるんだから、正しいプロ意識を持ってお客さんの気持になって音楽を作れるようになれば、こんなチンケな場所(クラブやライブハウス)ではなく、何千員も入るホールでコンサートもできるようになるよ。そうだ、かわいい女性シンガーと組んで一緒にやったらどうだ?いいシンガーを知ってるから、紹介してやってもいいぞ。」 実際には、これと似たような内容の説教を、音楽とは縁のない普通の年配の方から受けたこともあります。
 
 もし音楽家の職能(プロフェッショナリズム)を稼げるお金の額で評価する価値観に従うならば、彼らのアドバイスに従って正しい「プロ意識」を持った音楽家が、よりレベルの高いプロということになるでしょう。しかし、こういう説教をして下さる方は、普通のビジネスモデルで作品を商品として売ることを想定し、音楽家=エンターテイナー(娯楽提供師)という前提でしか考えられないので、芸術家としての音楽家は、必ずしもエンターテイナーと同義ではなく、神の「ご加護」と信念にもとづく特殊なビジネスモデルを想定して活動していることを理解できないのです。
 
 確かに、皆さんがすでに知っていて人気が確立しているジャンルの曲をそれなりの演奏技術をもって演奏すれば、聴き手を喜ばせることのできる確率は非常に高くなります。一方で、オリジナルの音楽を即興で演奏するパフォーマンスでは、その真逆をやることになりますから、聴き手を喜ばせられる可能性は著しく低くなります。しかし、可能性はゼロではありません。始めて古佐小オリジナルを聴くお客がほとんどのコンサートでも、いつも必ずスタンディングオベーションで終わり、2割から3割のお客がCDを買ってくださることを考えると、新しい音楽も求めている市場があることは間違いありません。
 
 自分の信念に従い真摯に芸術を追求し、その結果として生み出される作品にこだわって活動をしていると、「独り善がりだ」「自己満足だ」という批判を受けることもあります。しかし、そもそもやっている本人がそれを「善い」と感じ、それをやることに「満足」できないとしたら、そんな作品を他人と共有したいと思うでしょうか?それを「独り善がりだ」「自己満足だ」と呼ぶなら、一体それの何が悪いというのでしょうか。
 
 腕の良いシェフは、納得ゆく食材を自慢の調理法で準備をし、味見をして「うまい!」と思った料理だけをお客に提供します。それを「独り善がり」「自己満足」と批判することは断じてありません。逆に、時流に乗って人気の食材と人気の調理法作ってみたものの「あんまり旨くないな」と思う料理を、お金にはなるという理由だけでお客に出す料理人を、「彼こそ正しいプロ意識を持った料理人だ!」評価することもあり得ません。
 
 同様に芸術家も、まずは「独り善がり」で「自己満足」の状態で作品を発表し続ける必要があります。そのような努力を続ける中で、芸術的資質と人間性が向上し、作品の客観的な価値が高まってきます。それに伴い、作品に共感する受取手も多くなりますから、「独り善がり」がより客観的な善となり、「自己満足」がより多くの人に共有され客観的な満足感となり、もしかしたら、やがて「独創的な天才」などと呼ばれる日が来るかもしれません。芸術家の「独り善がり」で「自己満足」に見える生き方は、単なるわがままや頑固さではなく、周囲からの嘲笑や貧困というリスクを引き受けながらもブレずに芸術活動をつづけるという覚悟があっての選択なのです。
 
 多くの無名な真摯な芸術家が、そのような覚悟を持って、社会の片隅で存在していることは、数名の天才的芸術家が歴史に華々しく名前を残すことと同じくらいに、人類の芸術文化にとっては意義深いことだと思います。後世に名を残す偉大な芸術家は、真摯な芸術者の群れの氷山の一角に過ぎず、水面下でそれを支える無数の無名な芸術探求者の群れこそが、世代を超えて綿々と芸術を受け継ぐ母体だと考えています。

 

Leave a comment