コロナ以来の世の中のあり方に対するモヤモヤ感(1)「ワクチン慎重論はバカなのか?」

前書き:
 コロナ以来、言論空間のあり方、新型ワクチンの皆国民接種やワクチンパスポートなどの管理社会化の傾向などに、なんとなくモヤモヤ感を抱いているけれども、主流メディアではこのモヤモヤ感を肯定するような材料は得られないし、それを表明すると周囲から白い目で見られる空気がある。しかも、このモヤモヤ感が何なのか、実のところ自分自身でもよく分からない。こういうやり場のない苛立ちを感じている方は、案外と多いのではないでしょうか?

 これまでのSNSでのコロナ関連の投稿では、コロナパンデミックのリスク評価、対応策としてのワクチン大規模接種に関して、できるだけ理知的に科学的に公開情報の数字に基づく分析を行い、新型のmRNAワクチンの使用に関しては慎重であるべきという意見を表明してきました。(詳細はブログ記事:https://ameblo.jp/musiclife-in-nature/entry-12684375383.html)しかし、これからしばらくは、数値や科学という理知的な側面から冷静にコロナパンデミックを分析するのではなく、なんとなく心の奥底のつかえているモヤモヤ感を明確にするという目的で、随筆的に自由に書いてみたいと思います。

本文:「ワクチン慎重論はバカなのか?」

 つい数日前、アメリカの食品医薬品局(FDA)が、正規の2023年4月の治験終了を待たずにファイザー製のワクチンを正式認可いたしました。ニューヨークをはじめとするアメリカの大都市では、8月からすでに自治体レベルでワクチン・パスポートの導入が行われ、9月には違反者への取り締まりも含む本格施行が始まる流れになっています。これまでは、ワクチンが正式認可には至っていない緊急承認の新薬であるということで、ワクチン接種を義務化する政策に歯止めがかかっていたのですが、今後は、ワクチンの大規模接種と定期的な追加接種の継続によるCOVID-19の感染拡大封じ込めという政策がさらに強力に推し進められ、ワクチン未接種者に対する様々な社会活動での制約は厳しくなり、ワクチン慎重論は反社会的な動きとして白眼視する雰囲気が醸成され、ワクチン政策に疑義を呈する意見や態度を継続することは難しくなると予想されます。

 実のところ、FDAの正式認可を待つまでもなく、ワクチンが緊急承認され、接種が開始されると間もなく、ロサンゼルスなどの大都市の音楽業界ではすでに音楽家へのワクチン接種を演奏の条件とする自主規制が敷かれていたので、ライブでの演奏活動が難しくなることは4月の時点で覚悟をしておりました。とはいえ、FDAの正式認可が前倒しで進められたことで、思ったよりも早い展開で世の中が動いていることに驚きを感じております。

 開発から1年余りというあまりにも短い検証期間でFDAが正式認可に踏み切ったことは、非常に遺憾に思っています。本来、食品医薬品の安全性に関して、厳しいチェック機能を果たすべき機関が、ワクチン政策ありきでそれに追従するような形で認可を前倒しに進めたことは、チェック機能が正常に機能していないことの現れのように感じられます。以前から、遺伝子組み換え食品の認可に関してモンサントとの癒着などが囁かれているFDAの腐敗体質が、製薬業界との間でも存在したとしても不思議ではありませんし、業界のお金がロビー活動で政治家にも回っていることを考え合わせると、今回のワクチンの前倒し正式認可は、厳正な科学的判断ではなく、政治的判断と言えると思います。

 百歩譲って、仮にワクチンが生体内で100%予測通りの動きをし、中長期の服反応リスクやでのワクチンが全くなく安全だとしても、緊急承認の段階から十分な事前チェックやフォローアップがされることなく大規模接種が敢行され、既成事実を作った上でなし崩し的に正式承認に至ったというプロセスが一般に違和感なく受け入れられている現状にこそ、危機感を覚えています。このような緊急性ということを理由に従来の安全確保のためのチェック&バランスのプロセスを経ない医療行為の開発と導入という異常事態が常態化し、これが今後の新しい薬事や医療のスタンダートになると、医療は、ますます科学的興味と利益追求を優先させる誤った方向へと加速してしまうのではないでしょうか。

 コロナ感染症に対するワクチン使用の緊急性の評価については、ワクチンの副反応のリスクとコロナ感染症自体のリスクを比較すると、一般に言われているほどには高くないと判断されます。(詳細はこちらを参照ください:https://ameblo.jp/musiclife-in-nature/entry-12684375383.html)また、コロナ感染症への対応としては、既存の医薬品の転用による治療方法開発、治療薬の開発、感染予防行動の実施、免疫力を上げるための生活習慣の改善など様々な手法がありますから、新型ワクチンの緊急性のみを強調することには違和感を覚えます。

 新型ワクチンは対象者がすべての健常者になりますから、対象者が発症者に限られる治療薬(特に特許の切れた古典的な医薬品の転用)とは、ビジネス・チャンスにおいて比較になりません。製薬会社も利益追求を目的とする民間業者ですから、治療薬の開発は後回しにし、豊富な資金でロビー活動を行い、メディアや政財界を動かしてワクチンの皆国民接種という方向性を目指すキャンペーンを張って当然です。このように、ワクチン政策には、ビジネスの要素も多分に絡んでいると想像されます。

 また、コロナパンデミックの実際的な問題としては、①不適切な検査法や統計処理などにより、コロナ感染症のリスクが過大評価されている、②二類感染症という過度に厳格な法的な縛りのために現状に合った医療対応ができないことによって重症化例の増加と医療崩壊の危機を招いている行政上の問題がある、③不必要な営業規制や行動制限により経済被害を拡大させている、などの指摘があります。健常者に新型ワクチンを接種させて感染拡大を抑え込むというリスクと不確実性を伴う対策を敢行する前に、コロナパンデミックの人的・経済的被害を抑えるために政治としてやれることはたくさんあったのはないかと思われます。

 新型ワクチンのスピード開発/実用化に関しては、「人類の叡智の勝利だ。もはや、今後は何年も時間をかけるような治験は必要ない。そんなものは、科学の進歩を遅らせるだけだ。」という意見も耳にします。しかし、ワクチンの長期的影響については、2年の影響は2年の治験、3年の影響は3年の治験を経ないと判断の材料となるデータすら収集できないので、本来であれば、現段階で正式認可をして「安全」のお墨付きを出すことはできないはずです。「専門家の目から見たら、これまでのデータから、科学的に長期の影響はないと判断するのが妥当だ。」しかし、もしそうだとしたら、これまでの新薬開発において厳しい審査基準が設けられていたのはなぜでしょう?人類の叡智は、限られた期間の実験で得られたデータをもとに演繹的に導き出された仮説の検証において、実際の長期の実験や経験という帰納法的な推論を必要としないところまで、生命現象の仕組みの原理を熟知しているのでしょうか?

 もしそうだとしたら、コロナ以前から現在も続いている様々な健康問題や、各地で起こっている異常気象などの環境問題、貧富の格差などに起因する様々な社会問題もまもなく解決されることでしょう。しかし、実際には、それらの問題がますます深刻になっている実感はあっても、改善を期待させるような兆候は見られません。

 科学的に考えるということは、確かに大切です。ただ、科学的推論では、これまでに分かっていることが、考察の対象となっている事柄に関する要素の全てであるという前提に立ち、そこから演繹的に結論を導き出します。そのため、前提に未知のこと、予想できない要素が含まれているかもしれない状況においては、正しい推論プロセスを経た結論が、実際に起こることと一致しないということがあります。つまり、前提となるべき事実を全て知り尽くしているという「傲慢さ」を持って科学的推論を行うと、それが理知的で説得力がある推論であるが故に、自信満々に誤った結論を導き出してしまう危険性もあります。過去の薬害事例、公害、環境破壊など、これまでに人類が己の叡智を傲慢に過信したが故に引きおこされた過ちは、数え切れません。

 mRNAワクチンに関する議論においては、高学歴の方や頭の良いとされる職業についている皆さんから、「ワクチンに慎重論を唱える連中は、論理的な思考のできない教育レベルの低い連中と、極端な思想に侵されたイカれた連中だ。」というようなご批判をいただくことがあります。しかし、彼らがもしmRNAワクチンに関して現在手元にあるデータが安全を判断するための前提となるデータの全てであると判断して、そこから進めた推論によって最終結論を導き出しているとすると、その推論自体を覆す前提となるような知られざる事象があるかもしれない可能性を否定していることになります。彼らは、確かに優れた演繹的推論を構築する頭の良さは持ち合わせているかもしれませんが、その能力を奢るあまり、最も注意深く行わなければならない「前提の設定」という基本的なところで誤る可能性を見過ごしています。これがハープ奏者だったら、楽譜通りに指定された弦を完璧に演奏できるけれど、楽器のチューニングあっているかどうか全く気にしないという状況です。つまり楽器は上手に操縦しているけれども、肝心の音楽は全く演奏できていない。チューニングが狂ってるかもしれないから確認しようとするハーピストを「無能な音楽家」と非難するのが的外れであるのと同様に、mRNAワクチンのような人類にとっての新しいテクノロジーの導入に関して基本仮説の設定に慎重を期する意見を「バカな意見」と批判するのは、それこそ己の愚かさを露呈することになっていませんか?

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