家畜の “Quality of Life”

家畜の “Quality of Life”

 月曜の早朝、電気柵の不具合で、ヤギが一頭死にました。

 敷地内に同居している妻の祖父の飼っている7頭のピレネー犬の群れは、番犬として非常に優れているの家畜を守るということを子犬のときからトレーニングされていないために、家畜が電気柵外に迷い出ると外敵とみなして殺してしまうのです。

 今朝、うちの牧羊犬のボーダーコリーのただならぬ鳴き声で外に飛び出したときには、ヤギが5−6頭の犬になぶりものにされていて、助け出したときにはすでに虫の息でした。

 噛み傷がひどくて到底助けられるとは思えなかったので、そのまま自分の手で屠殺し精肉をすることにしました もともと肉用に飼っていたヤギで、5月中には屠殺する予定だったのですが、こういう形で苦しませて死なせてしまい、本当にかわいそうでした。

 かわいそうと思いながらも、心臓が動いている間に血抜きをしないといけないので、屠殺準備ができるまで虫の息のまま放っておかなくてはならず、いよいよ屠殺のときがやってきても、いつもかわいがって餌をもらっているので、全くこちらを警戒する様子もなく、むしろ安心した様子です。

 なかなか殺す決心ができず、しばらく顔を撫でていたのですが、気持ち良さそうに目をつむって落ち着いた様子になったので、その時点で決意をしてナイフで頚動脈を切って死なせました。
  
 肉用の家畜でも、赤ちゃんの時からかわいがって育てた動物を屠殺するのは辛いものです。彼らとの間に築いた信頼関係を、最後の最後で裏切って屠殺するのですから、これが生きるということの冷徹な現実であると頭ではわかっていても、感情的には平気で割り切れるものではありません。この文章を書きながらも、やはり涙が溢れそうになります。


 「なら、家畜など飼わずに、お店で肉を買えばいいじゃないか!」
 「飼ってる動物を殺すなんて信じらんない!そんな残酷なこと、自分には絶対ムリ。」
 こういう声も聞こえてきそうですが、この土地で持続可能な生活を目指す限り、気候や植生の条件を計算すると、食肉用の動物を飼うことは必須になります。お店で買う肉も、どこかで誰かがこの辛い仕事をやってくれているから、綺麗なパック詰めになって店頭に並んでいることを忘れてはいけません。

 「じゃあ、肉はやめてミルクと卵だけ食べればいいんじゃないの?」

 そうすると、雄鶏とオスの動物はどうするのでしょう?50%の確率で生まれてくるオスは、無駄飯を食い続ける動物なので、ファームで自然死するまで飼い続けることはできません。そのために、オスは食用にするしかないのです。つまり、肉食を避けても、ミルクや卵を食べているかぎり、間接的に家畜の命もいただいていることになります。


 ファームの生活をしていると、動物性のタンパク質を摂取するということは、単に「肉を喰う」ということではなく、「命を頂く」ことだと痛感させられます。命 “LIfe” を頂くために飼っている動物にしてやれる唯一のことは、生きている間の “Quality of Life”を保証してやることくらいです。このヤギは、最後は事故で辛い目にあわせてしまったものの、それまではひもじい思いもせず、元気に仲間のヤギたちと広いスペースでのびのびと幸せに暮らしていたと信じています。

 屠殺は、誰にとってもやりたくない仕事です。それを他人任せにした結果、アメリカの市場で手に入る肉のほとんどは、工場のような環境に閉じ込められ、肉を得るという目的のためだけに飼い殺しにされている家畜の肉で、そこでは “Quality of Life” は全く考慮されていません。そのような悲惨な場所で肉にされる動物を増やさないためにも、ここで自らの手で育てた家畜を屠殺し肉を調達することには、意義があると感じています。

 

 


 

Leave a comment