日本国憲法を考える(1) 「日本国憲法前文の理想と現実」

(戦争について考える機会の多い8月。ブログにて、戦争に関する投稿をシリーズで挙げています。)

 

 日本において戦争と平和に関しての議論が行われると、必ず日本国憲法第9条について激しい意見の対立が起こります。9条を改正すべきという主張をしたら右翼、9条こそが日本の平和の拠り所になっていると主張したら左翼という具合に、9条へに対する意見によって極端なイデオロギーのレッテル貼りをされかねない議題で、この投稿で友人を失いかねないという危険すらあります。しかし、憲法改正の論議が高まる中で、一国民として憲法全文を読んでみての感想を整理してみたいと思います。ここでの感想とは全く異なる見解の方がより一般的かもしれませんが、そうやって異なる見解を持ち、お互いの意見を表明し、いろんな考えをテーブルに出した上で、総合的に物事を判断できることこそが自由民主主義の大切なところだと思います。もし日本国憲法を読んだことのない方は、これを機会に自ら読んでみて、自分なりの考察を深めていただくきっかけにしていただければ幸いです。

 

 全文を読んでみた上で、やはり普段からよく議論の的となる前文と第9条に関して考察をしてみたいと思います。

 

前文より;

 『日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。』

 

1:『日本国民は、恒久の平和を念願し』

 恒久の平和とは何か……?これだけで数冊の本が書けるほどの題材ですが、これまで何万回と「平和」という言葉を口にしながら、実のところ「平和」の定義を真剣に考えてことがなかったことに気づき、猛烈に反省をいたしました。これまでにも専門家によっていろんな平和の定義がすでに蓄積されていることとは思いますが、ここではあえて自分の頭で考え、人類として達成できる平和には、大雑把に3つのステージがあると定義してみました。

 

1)人類が、目的達成のために暴力的/破壊的な手段を用いる意図すらも完全に放棄し、調和と協調により、物質的にも精神的にも豊かな社会が実現された状態。

2)人類が、目的達成のために暴力的/破壊的な手段を用いるという意図は完全に滅却できていないが、それを実行に移すことに関しては意志的に制御力を働かせることができるため、社会から暴力がなくなり、調和と協調を基調とした発展が可能になっている状態。

3)人類に、目的達成のために暴力的/破壊的な手段を用いる意図もそれを実行する可能性もあるものの、ある時点において、暴力的な解決に伴うダメージが双方に多大であり、また相互に利害関係や武力が拮抗しているために、ひとまず調和と協調を選択している状態。 

 

 もちろん、1)が「恒久の平和」の呼び名にふさわしい、人類として念願し、いつかは実現したい平和であります。2)の平和は、個人的な人間関係のレベルでは部分的に達成されている場合もありますが、現時点で社会や国家という大きな集合体として人類が手にできる最高の平和は、3)の範疇を超えているとは思われません。

 

 また、一介の庶民としての感覚としては、「生活状況が安定していて、毎日が、それなりに予想可能な範囲内で推移している状態」を漠然と「平和」と感じています。ですから、一般庶民にとっては、近くで戦争が起きていなくて、生産や流通が安定的に機能している社会が「平和」という感覚を与えてくれるように思います。その意味では、日本やアメリカは「平和」なところと言えます。

 

 しかし、その平和な日本社会を少し注意深く見てみると、受験戦争、選挙戦、論戦、論争、年末商戦、顧客争奪戦、就職戦線、出世競争など、様々なイベントの名前に「戦」と「争」の文字があふれかえり、日本の社会が競争原理に立脚していると考えざるをえません。競争原理が必ずしも悪であるとは思いませんが、競争の結果、負け組と勝ち組の間に社会的待遇と物質的な豊かさにおいて歴然とした格差が現れてしまうような社会において、「恒久の平和」へと繋がるような協調と調和に向かう人間的特性が、はたして育まれ得るかどうか…。疑問を感じざるを得ません。

 

 また、平和な日本においてすら、犯罪を抑止するためには法律と司法、警察が不可欠で、物品や情報がいつ誰かに盗まれるかもしれないことを想定し、家屋の出入り口のみならず、バーチャル空間においても鍵をかけなくてはならない状況ですから、基本的には「他人を信用しない」ことが社会において当たり前の前提となっています。ヤクザに代表される裏の世界が公然の秘密として存在し、部落差別という不可思議な同人種間での差別があり、思想信条の異なる国民同士の間で口汚い罵り合いや誹謗中傷、場合によっては暴力による衝突も起きる状態にあって、日本人が国民全体として世界平和への共通の目的意識をもつことなど可能なのでしょうか?現状の日本は、幾つものグループが敵対し、お互いに利害や勢力を競争により奪い合っている状況があると言えます。自国の中で、このような分裂があることを当然のこととして放置しておきながら、一方で国際社会での恒久的平和を語る。これは、公正な自己認識の欠如、あるいは偽善ではないでしょうか。

 

 このように、比較的平和とみなされている日本においてすら、恒久の平和を保証するためには不可欠である「目的達成のために暴力的/破壊的で非良心的な手段を用いる意図すらも完全に放棄されている」ということが自国民同士の間で実現されていない以上、多様な文化背景を持つ国家の付き合いからなる国際社会においても、「恒久的な平和」からかけ離れた状態であることは疑いようのないことだと思います。

 

 「恒久的な平和」がまだまだ実現には程遠いので、いずれ達成したい目標ということで「念願し」という表現になっている点は評価できます。しかし、目標を掲げたにもかかわらず、それにふさわしい努力も進歩もないというのであれば、それは偽善に外なりません。この条文があるということで「日本は平和国家だ!」とドヤ顏をするならば、中身は空っぽの平和国家であることに満足し、真の平和国家となる努力を怠っていることを正当化することにもつながります。

 

2:『人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって』

 「人間相互の関係を支配する崇高な理想」とは、なんでしょう?他の動物には類を見ない人類の高度な「社会性」こそが種の存続/繁栄のカギであるとすると、協調、恊働、互譲、愛などを「人間相互の関係を支配する崇高な理想」と考えることができます。(理想というよりは、「理念」と言ったほうがしっくりくるような気がしなくもないのですが、もともとアメリカ人が作った草案から起こした憲法なので、言葉にぎこちなさがあるのはいたしかたないことなのかもしれません…。)これらを「深く自覚する」ことは、とても大切なことであります。しかし、現代の日本において、このような理念を深く自覚して、それぞれの国民が協調、恊働、互譲、愛などを日々の生活の規範として生きているかどうかというと、それは大いに疑問です。政治家や官僚ですら、このことを強く自覚して働いておられる方はさほど多くはないとおもわれます。日本においてもこのような有様であるからには、独裁国家や資本主義拝金主義の諸外国においては、このような理想を自覚するなどということは夢にも思わないことでしょう。

 

3:『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。』 

 「信義に」となっていますが、日本語としては「信義を」の方が妥当だと思います。それはさておき、憲法が書かれた時代背景から考えて、ここにある「平和を愛する諸国民」とは、主に当時の連合国に属する国で、現在の国連常任理事国であるアメリカ、イギリス、中華民国(現中華人民共和国)、ソビエト連邦(現ロシア)、フランスを指すと思われます。後半で考察する九条には武力放棄が名言されていますから、丸腰でこれらの国を信頼するという前提で書かれていることも明らかです。しかし、これらの国を「われらの安全と生存を保持」する拠り所として信頼できる「平和を愛する公正と信義の国」と呼ぶことができるかどうか?現在の国際情勢を概観するだけでも、これらの国がそのような呼び名にふさわしくないことは明らかです。安全だけならまだしも「生存」をかけて、つまり命がけでこれらの諸外国を信頼することができるのか?個人の意見としては、断固NOです。もちろん、外国に敵対しない道を選び、友好関係を築くための最大限の努力はすべきです。在米日本人として、日々の暮らしの中で個人のレベルでの人種や文化を超えた本質的な信頼関係の構築のために努力しているという自負もあります。そのアメリカに対してさえも、無防備に安全と生存をかけて相手を信頼することは、あまりにも暗愚な選択だと思います。

 

 仮に、ここにある諸国民を諸手を上げて信頼できるとしても、やはり、ここで論ぜられているような、自らの安全と生存を「他人任せ」にするような態度には違和感を覚えます。生物の基本的なあり方として、自己責任で個人の安全と生存の多くの部分を担保することは当然でありますから、国家においても、安全と生存という部分においては、かなりの範囲で自立すべきだと思います。各自が自分の足で立ってこそ、お互いを助け合うことができるのではないでしょうか。

 

 日本人が外国に「公正」と「信義」を期待するのであれば、まずは、それが日本国に見出されなくてはお話になりません。そのためには、日本国民一人一人が自分自身の中に「公正」と「信義」という徳を磨き、それを導き手として自分自身の安全と生存を確保できるようなる必要があります。個人のレベルで公正と信義が獲得されていれば、それが家族、仲間、地域、国民全体と広がり、徐々に大きなスケールの社会で共鳴し、最終的には日本国として、真の「公正」と「信義」を国際社会に広めてゆくことにつながるのではないでしょうか。もし、日本がこのようなリーダーシップを発揮できるのであれば、真の平和国家と呼ばれるにふさわしい国になると思います。しかし、今の日本国に、そのような公正と信義と呼ぶにふさわしい徳は備わっているのでしょうか?そのような徳を目指すことを奨励する空気があるでしょうか?

 

4:『われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において名誉ある地位を占めたいと思ふ。』

 ここでいう「国際社会」も、国連常任理事国を中心とする国家群のことだと思われますが、戦後75年、アメリカやロシア、中国が自国の利益のために、どれだけの紛争に介入し、どれだけの戦争を煽ってきたことか。世界に豊かさと秩序もたらすという独り善がりの崇高な目的のために、どれだけ地域の特性や民族の特性を無視した「圧迫」と「偏狭」を行ってきたかことか。また、国益のために外国の独裁者とも取引をし、そこでの「専制」と「隷従」の片棒も担いでこなかったのか…。彼らが「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている」ということが真っ赤な嘘だということは、すでに明らかではないでしょうか?

 

 ここで描かれているような国際社会のイメージは、仮に第二次世界大戦直後の国際社会で共有された理念であったとしても、現時点ではもはや絵空事でしかありません。このような国際社会は現時点では存在していない以上、日本国民が本当にそれを望んでいるのであれば、個人としても国家としても積極的に努力を重ねて、自らの手で築いていかなくてはならないものです。その意味では、すでに存在する国際社会で「名誉ある地位を占めたいと思う」ような性質のものではありません。もちろん、そういう国際社会の構築のために貢献すれば、自動的に「名誉ある地を占める」ことになるとは思いますが、とりたててその地位を占めることを望んで理想的な国際社会の構築に尽力するわけではありません。「名誉ある地位を占めたいと思ふ」という表現には、すでに存在しているすばらしい国際社会(そんなものは存在しないのですが)に認めていただきたいという卑屈な姿勢が隠喩されているとも感じられます。

 

 ここまで考察を進めてみると、日本国憲法公布以来、日本人は本当に真剣に前文に掲げられているような理念の実現に向けて努力をしてきたのだろうか、と疑問を感じざるを得ません。

 

5:『われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。』

 「権利を有することを確認する」ことに依存はありませんが、皆が権利ばかりを主張し、国際社会でのしかるべき責任と義務を果たさないのであれば、闘争や紛争にもつながりますから、真の平和憲法を目指すのであれば、その権利に伴う責任と義務の遂行の重要性や、自他共栄を損ねることなく権利を自由に行使するために培われるべき人間としての徳についても触れるべきだと感じます。

 

(後半につづく)

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