日本国憲法を考える(2) 「日本国憲法9条解釈の詭弁。真の平和国家になるには…」

前掲載分では、憲法前文についての感想を書いてみました。ここからは、9条を読んでみた感想を述べてみたいと思います。
 
第9条;

 『日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

○2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。』 

 

 

1.『正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。』

 

 このような国際平和は、心より希求します。

 

 ここで語られている「正義と秩序を基調とする国際平和」を、憲法前文の「恒久の平和」のことと理解し、「人類が目的達成のために暴力的/破壊的で非良心的な手段を用いるという意図すらも完全に放棄し、調和と協調により物質的にも精神的にも豊かな社会が実現された状態」を指すと解釈すると、それを希求し、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という論理の展開が可能になってきます。

 

 この憲法が書かれた時点では、このような平和は、望みさえすればすぐに実現されると考えられていたのかも知れません。しかし、75年が経った現在でも、世界各地で紛争が絶えることはなく、日本が謳歌している平和も「場合によっては目的達成のために暴力的/破壊的などの非良心的な手段を用いる意図と可能性は残っているものの、暴力的な解決に伴うダメージが多大であり、また相互の利害関係や武力が拮抗しているために、ひとまず調和と協調を選択している状態」という一時的な不安定な平和にすぎません。このような状況にあって、完全武装解除して丸腰になり、平和を希求しながら国民の安全と生存を保持することが可能なのか?

 

 もちろん、現実的にはそんなことは無理だと分かっているので、自衛隊という、世界でも有数の軍隊(軍隊ではないということになっていますが…)と世界最強のアメリカ軍が、その気になればいつでも戦える状態で日本に駐留し、虎視眈々と領土拡張を狙っている隣国を威嚇をしているわけです。

 

2.『前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。』

 ここに至っては、どこをどう読んでも、自衛隊は憲法に真っ向から反してしまいます。ということで、「陸上自衛隊は、陸軍ではない。海上自衛隊は、海軍ではない。航空自衛隊は、空軍ではない。自衛官は、軍人ではない。国家には自衛権があるのだから、自衛専門の自衛隊は軍隊とは別物で、自衛のための戦闘は交戦ではない。ゆえに、自衛隊は合憲と解釈される。」というような詭弁が何十年も正当な憲法解釈としてまかり通ってきました。

 

 大量の新鋭ジェット戦闘機や最新鋭のイージス艦、世界でも最高性能を誇る戦車や潜水艦を保有し運用している組織が、本質的には軍隊以外の何物でもないことは明らかで、そのような組織を軍隊と呼ばないとしたら、軍隊と定義される組織など世界のどこにも存在できません。これほどに見え透いた詭弁が、国民に黙認されています。

 

 このような憲法の矛盾は、この憲法がアメリカの占領下で当時のアメリカの意向を反映して作られたもので、日本国民が自ら真摯に国のあり方を自問し、知恵を絞って作り出したものではないというところに、その大きな原因があると思います。また、自衛隊の創設に関しても、アメリカの朝鮮戦争における戦略的な都合で、「警察予備隊」などという苦し紛れの詭弁を弄して再編成した「日本軍」の存在が、憲法を改正することなくアメリカの東アジアでの影響力の展開に不可欠な要素として「自衛隊」として継続発展してしまったことで、憲法9条の理念と現状との乖離が異常なまでに大きくなり、ごまかしでは済ませられない状況になっているにもかかわらず、そのまま放置され、今日に至っています。

 

 個人的な意見としては、現行の日本国憲法のように、初期の成立過程と運用の歴史に多くの問題を抱えている憲法は、一度破棄をして、現代の日本人が真摯にこれからの国のあり方を考え、知恵を絞って、議論を重ねて自らの手で新しい日本国憲法を作るのが妥当だと思います。その過程を経た上で、やはり現行の日本国憲法こそが理想的であるする主張が大多数を占め、新しい憲法の内容が現行の日本国憲法と全く同じになったとしても、その手続きを踏むことは決して無駄ではないと思います。

 

 例えば、国民の総意として憲法9条の条文はそのまま維持するということになったならば、ようやく文字通りに9条を遵守し、自衛隊の解体、米軍の撤退、完全な武装解除の状態で平和国家の道を模索をすることができるようになるでしょう。逆に、現在の自衛隊の規模で軍隊を維持することが世界の現状からして妥当であるという意見が多数を占め、9条が廃止になった場合には、これまで苦しい詭弁ででっち上げた法律を使ってなんとなくコソコソと運用している自衛隊を、他国の軍隊と同じく国際法に則り、堂々と平和のために運用する道を模索し始めることができます。

 

 正直なところ、現状のように憲法の文言と実際の状況が火をみるより明らかに食い違っているのに、「これは憲法解釈の範囲内です」という詭弁が堂々とまかり通っていることが一番の問題だと感じます。9条を文面とは真逆に解釈できるとするなら、基本的人権に関しての条項も真逆に解釈して、言論統制などの形で国民の権利を著しく制限できる可能性もあるわけです。このように憲法を自由自在に解釈しても良いという前提で憲法を運用していることこそが、国民にとっての最も恐るべき危機だと感じられます。

 

 さらに、全ての法律の依拠する憲法において、白を黒と言えるような国家で、「公正」や「正義」「信義」などという徳を大切にできる国民が育まれる可能性があるのでしょうか?子供には「嘘をついちゃいかん!」としつけていながら、憲法のような大きなところで公然と嘘がまかり通っている。そんな社会で、子供達が公正、正義、信義を価値ある徳として真剣に追求するでしょうか?そんな大人の世界を見て育ったら、本音と建前、外の顔と内の顔を上手に使い分け、信念などにこだわらない「ご都合主義」で生きることこそが正しい道だと思ってしまうのではないでしょうか? 

 

 国際的な「恒久の平和」を口にしながら、自国内では、いろんな勢力が利権をめぐっていがみ合いが起こり、親子や兄弟の間で金銭を巡って血で血を洗う争いになることも珍しいことではなく、スポーツだけではなく芸術という文化活動においても競争によって相手に勝つことが奨励され、学問においても限られた研究者のポストや研究費獲得のために激しい競争があり、子供は受験戦争に、学生は就職戦線に、政治家は選挙戦に従軍し、ビジネスにおいても市場を奪い合う競争のなかで少しでもライバルから先んじることに血道を上げ、論客たちも思想の異なる相手にはラベル貼りをして貶めあう……。同じ日本国民として一つの共同体の中で生活をしている同朋の間ですら、これほどの分断と軋轢、競争があり、お互いに傷つけあうことが当たり前になっている状況にあって、文化の全く異なる外国との間において恒久的な世界平和が実現されるとは考えらません。

 

 「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚」し「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」するからには、並々ならぬ信念を永きにわたって貫くことが必要です。白を黒と言いくるめてしまうようなご都合主義では、到底実現できるものではありません。まずは我が身を正し、信念を貫く意思を持つことが必要です。

 

 本当に「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」のであれば、とてつもない覚悟が必要です。もし、武力によって他国を蹂躙し、他国民の生存を脅かすことを全く躊躇しない国家が日本に侵略してきた場合、彼らが無抵抗を貫く崇高な日本人を非人道的に扱っていることの卑しさを自戒し、良心に目覚め、その態度を悔い改めるか、あるいは、そのような日本人の姿に心打たれて自らの命をかけて日本人を救おうとしてくれる国家や組織が現れてくるまで、自分の愛するものの生命、人間としての誇り、守り伝えてきた文化など、大切にしているものを失い続けることに耐えなくてはなりません。そのような覚悟があれば、非武装による平和を目指す理念に偽善の入り込む余地はないと考えます。しかし、その覚悟をしないで、圧倒的なアメリカの軍事力に守られている安全な日本の中で、口先だけで「武器のない平和な世界を!」と叫んでみたところで、本当の平和の実現に近づくことができるとは思えないのです。

 

 理念を掲げるのであれば、それに向かって徹底的に努力する。これは、個人としては当たり前のことです。国家の理念である憲法においても、国民の共通の目的として、そのような国家になろうとする意識を共有することは大切だと思います。現状のように、書かれていることとは全く異なるように解釈できるような憲法である限り、日本国憲法は国民に共通した理念の土台とはなり得ません。このまま、現行の憲法を文字通り守るでもなく守らないでもなく、うやむやに維持し続けることの意義はどこにあるのでしょうか?

 

 文章で国のあり方を規定化することが、個人の思想の自由や言動の自由を妨げるという危惧や、成文憲法律が国民の足かせになるという意見が多数を占めるのであれば、イギリスのように成文憲法を持たないという選択肢もあります。現行憲法の改正、継続、成文憲法の廃止、いずれの選択にいたるとしても、一度国民全体で憲法について考える時期に来ていると思います。

 

 とは言いながらも、憲法に関しての意見を構築することは、一般人には決して簡単なタスクではありません。実際、この程度の考察をするためにも、膨大な時間と労力を使っています。もし、絶対的に信頼できる政治家や行政専門家が国家を理想的な状態に維持してくれて、国民は、憲法などという面倒臭いことを考える必要もなく、日々の生活と身の回りの出来事のことだけに集中して生きるられるのであれば、それに越したことはありません。しかし、日本は現在、国民主権の民主主義を採用し、代議士の選出を一般国民の手に委ねているわけですから、お上にお任せというわけにはいきません。安倍政権は発足当時から憲法改正を政治目標として掲げていますし、そもそも自由民主党は結党時から自主憲法制定を党是としているのですから、近い将来に国会で憲法改正案が発議される可能性はあります。その時に「政府が国民を置き去りにして改憲の議論を進めるのか!」と文句を言わなくてもすむように、主権者の義務として、少しずつ憲法について勉強をして自分なりの理解を深めておくことが必要ではないでしょうか。

 

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